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しおりを挟むなんて日だ!
田中圭太はビルの入口の前に佇みそう思った。
彼が朝から憤慨している理由は二つあった。
うちひとつは、今遅刻寸前の状況であること。そしてもうひとつは会社の入口に設置された入館認証を、なぜか通り抜けられないことにあった。
ひとつ目に関しては、完全に彼の自業自得だった。
田中圭太の社内評価は高く見積っても中の下で、いつも査定の際に上司から同じ事を言われていた。
「君の社歴ならば、もう少し積極的なところを見せないと上にあげられない」
言われた仕事だけをこなして定時に帰っていた圭太に対し、上司は上司なりにサポートしようとしたのだろう。
昨日の帰り際、望んでもいないのに雑用を押し付けてきたのだった。
「なんで俺が……今日はイベントがあるのに……」
正直人事評価なんて彼にとってどうでもよかった。それよりも早く家に帰ってゲームに取りかかりたかったのに。
自分の席だけを照らす蛍光灯の下で、一人寂しく仕事を片づけていた時のことだった。
キーボードを打つ音が淡々と響くなか、突然騒がしい足音とともに、別部署の同期が駆け込んできたのだった。
それはなんと異業種合コンの人数合わせを探すものであり、誘われた瞬間圭太はこう思った。
仕事も雑用もこなした上で、ご褒美を享受して何が悪い、と。
そうして二つ返事で参加したのだが、彼は可哀想なことについていなかった。
このご褒美は彼にとって劇物だった。
参加した女性たちは、何とCA、女医、弁護士と、見目麗しく華やかな方ばかり。そんな異性に囲まれる機会など、彼にある訳がなかった。
ゆえに圭太は一人盛り上がって見事に泥酔した挙句、盛大に玉砕したのだった。
最終的にタクシーで運搬された彼は辛くも我が家に辿り着き、狭い玄関マットの上で一晩をすごすことになった。
翌朝愛犬に起こされ母に怒鳴られ、今に至る。
なので「遅刻寸前」に関しては、彼はまあ納得していた。
しかし「会社に入れない」という二つ目の理由については、全く思い当たる節がなかった。
圭太の所属する会社が十階に入る「Tatsunami TOWER」の入口は、東、南、西と三方向に存在し、それぞれ顔認証装置の設置された個室が三つずつ合計九台ある。
どれも作りは同じで、一つ目の自動ドアが開くとガラスで覆われた小さなスペースに導かれる。そこに入った瞬間に入口の正面上部に設置されたカメラが入場者を捉え、登録データと照合を行い、一致が確認されれば次のドアが開く仕組みだ。
彼はその小さな空間で、何度も何度も装置の前に顔を向けては見事に弾かれていた。
これまでこの装置にエラーが出たことはなく、入れなかったことなど一度もなかった。にもかかわらず扉は堅く閉ざされたままで、普段一枚目の扉が開いた瞬間に開く二枚目の扉が、全く微動だにしないのである。
<登録されていません>
<もう一度認証してください>
設置された小さなモニタにこの言葉が表示される度、彼はやっきになってカメラに向かって様々な表情を作ったがー小部屋の外を行き交う人々は、彼の挙動に怪訝な視線を向けたー何度やっても成功する気配はなかった。
別の入口からは、彼と同様に遅刻寸前もしくは時差出勤をするサラリーマンやOLたちが、ビル内へと急ぎ足で入っていく。
その様子をまじまじと見つめながら、実はこの扉の認証装置だけが壊れており、正常に動作しなくなっているのではないか、と彼は思うようになった。
そうして隣の小部屋に移動し同じように試してみる。しかし。
<登録されていません>
<もう一度認証してください>
結果は全く同じであった。そして悲しいことに、先ほど彼に対して開いてくれなかった二枚目の扉は、他のサラリーマンたちを悠々とオフィス内へ導いている。
扉の装置はどれも正常に機能していることが証明され、自分だけが何らかの理由で認証を通れないということが確実になった。
この時になってようやく、彼の頭に焦りと疑問が浮かんだ。
これは一体どういうことか、そう思いながら腕を組んだ彼の目に偶然腕時計が入った。
二つの針は八時四十一分を指している。社の朝礼は四十五分からだった。自分が遅刻寸前であったことを思い出した彼は、「このままでは間に合ったはずなのに、よくわからない理由で遅刻してしまう。とりあえず会社に連絡を」そう狼狽すると、急いでスマホを探し始めた。
そうしてその時になってようやく「会社に連絡し、そこから認証サービス提供会社に連絡してもらって、内側から開けてもらう」という方法に気づいた。
圭太はこの時まで気づかなかった自分の阿呆さに驚いたものの、ホッとした気持ちで微笑を浮かべる。そして鞄から取り出したスマートフォンの画面をいつも通り開いたのだった。
「ええ……嘘だろ……」
いつもならば、田中家の愛犬「ハルオ」のやんちゃな待ち受け画面が出るはずであった。しかしその代わりに現れた文字に彼は愕然とした。
<持ち主ではありません>
<ロックします>
全く、どういうことだろう。
彼は自身の気づかぬうちに、会社からそして自分の携帯電話端末からも「田中圭太」であることを否定されたのだった。
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