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8号室 囚われた魂(前半)
しおりを挟む雲が、雲が……人の顔に。
登崎功はすぐに視線を逸らして黙考した。目の錯覚だ、きっと。大丈夫、大丈夫だ。空に人の顔の雲が浮かんでいるわけがない。ひとり頷き、再び空へと目を向けてハッとする。
顔だ、女性の顔だ。なぜあんなところにいる。誰がどうみても顔にしか見えない。他の雲は風に流れて形を変えているのに、顔の形をした雲だけ同じところに留まってじっとこっちを見つめてくる。
嘘だ、嘘だ。うわぁ、睨み付けてきた。そうかと思ったら、笑みを浮かべた。
あまりにもの衝撃で身体が硬直してしまった。血の気が引き、背筋に悪寒が走る。わなわなとその場に崩れ落ち両手で身体を支えるようにして座り込んでしまった。両手が砂に埋もれていく感触がした。気のせいだということはわかっているがそれくらい気が動転していた。
海風が髪を乱し、霧状になった波飛沫が頬に降りかかってくる。それでも、その場から動けず空の一点から目を離すことが出来なかった。
「みーつけた」
おまえはいったい何者だ。
「むふふ、私のもの。ひとりにはしないって安心しな」
何を言っている。冗談はよせ。何も聞こえない、聞こえるはずがない。雲が話すだなんて冗談じゃない。
ここに居てはいけない。早く、逃げなくては。心の内で警鐘が鳴り響いている。
功は砂浜を走る。砂に足を取られそうになりながらも、走り続ける。
急げ、早く。ここから逃げろ。雲が人の顔になって話すだなんて。そんな馬鹿なことがあってたまるか。いつの間に異世界に迷い込んでしまったのだろう。いくらファンタジーが好きだからってこんなことありえない。
走りながらも、いろんな考えが頭の中を駆け巡る。
そういえば、なぜ海にいるのだろう。砂浜にいるのだろう。ここへはどうやって来たのだろうか。何もかもがおかしい。
「俺は……いったい誰だ」
わからない、わからない、わからない。
名前もこの場所もあの雲の化け物も、すべてがわからない。理解不能だ。なぜ自分の名前がわからなくなってしまったのだろう。あの化け物のせいか。
「あなたは登崎功よ。忘れてしまったの? どこへ行こうっていうの。私からは逃れられないわよ」
やめろ、話しかけるな。化け物は消え失せろ。
ダメだ、あんな奴の話など聞く耳をもつな。無視をしろ。とにかく走れ。
けど、どこまで走ればいいのだろうか。砂浜はどこまでも続いている。永遠に続いている。どんなに走り続けても景色が変わらない。隠れる場所さえない。どうすればいい。自分の息遣いが耳障りにこだまする。
このままだと化け物に食われてしまうかもしれない。
刹那、突風が前から押し寄せてきて仰け反ってしまう。まるで強制的に足を止められた気分だ。これはまずい、雲の化け物の餌食になってしまう。そんなの嫌だと、グッと足に力を込めて風に刃向かい踏ん張り進もうとする。ダメだ、身体が持って行かれそうだ。そう思ったとき、風は突然向きを変えてするりと通り過ぎていく。すると、空からの呻き声とともに「功……」と耳に届いた。
恐る恐る空へと目を移すと、顔になった雲は跡形もなく消え去っていた。
助かった……のか。
突風が雲の化け物を消滅させてくれたのだろう。天が味方してくれた。ホッと胸を撫で下ろして砂浜に腰を下ろす。
嘆息を漏らすと、海を眺めて波音に耳を傾ける。さっきの突風はなんだったのだろうか。今は気持ちいいそよ風が髪を撫でていき、海は穏やかに凪いでいる。細波の音が心を落ち着かせてくれる。
それでも、自分の名前は思い出せない。もちろん、この場所もわからない。危機が回避されたとは言い切れない。不安にさせるのは、あたりを見回してみても人っ子一人いやしないことだ。
いや、何かが来る。
あれはいったい……。黒い影が遠くからやってくる。微かに羽音がする。今度はなんだ。
鳥じゃなさそうだけど。目を凝らしてじっとみつめた。
あっ、蜂だ。ただの蜂じゃない。デカい。異様にデカい。ここは災いを呼ぶ場所なのか。くそったれ、また走らなきゃいけないのか。
急いで立ち上がり、方向転換すると砂浜を駆け出した。思うように走れない。砂浜じゃない場所はないのか。背後からの羽音が大きさを増して確実に近づいていることを告げている。
ダメだ、追いつかれてしまう。今度こそ万事休すだ。
足がもつれてそのまま前へと倒れてしまった。砂に顔を埋(うず)めてしまい、少しだけ砂を食べてしまう。すぐに口の中の苦い砂を吐き出して後ろを振り返ると、すぐそばに一メートルほどもある蜂が尻についた針をこっちへと向けて迫って来ていた。
来る、来る、来る。やめろ、やめてくれ。
なぜ、こんなことになる。
這いつくばるようにして砂浜を逃げ惑う。どう考えたって逃げられるわけがない。
耳障りな羽音が耳元で鳴っている。うわっ、針が来る。もう避けられない。
うぅっ……。
蜂の針が腕を貫いて、顔を顰めた。
痛みが脳天まで突き上がり、身体全体が痺れだす。これは毒だ。きっとそうだ。
身体中に毒が広がっていく。死ぬ。このままでは間違いなく死ぬ。ああ、終わりだ。力が抜けていく。その瞬間、誰かの声が耳元で囁かれた。
「待っているからね。ずっと待っているからね」
「えっ⁉」
優し気で心に沁み渡るような女性の声だった。この声は知っている。けど、誰の声だったろうか。不思議とその声を耳にした瞬間から痺れていた身体が元に戻っていった。痛みもない。身体が軽くなった気さえする。見回して見たところ巨大蜂の姿も窺えない。空を見上げても怪しい顔の雲も見当たらない。
よくわからないが、危機を脱したのだろう。大きく息を吐き出して身体をゆっくりと持ち上げる。
上体を起したとき、景色に変化があることに気づいた。永遠と続く砂浜の先に、灯台が目に映る。ただそこへ辿り着くには、長い階段を登らなくてはいけないようだ。それでも、行くしかない。あそこに何かがあるはずだ。この世界を脱する扉があるかもしれない。一縷の望みに賭けるしかない。
こんな訳のわからない場所に長居は無用だ。
***
「先生、今私の声に功が反応した気がしたんですけど」
「そうですね。もしかすると、この点滴が利いているのかもしれませんね。このまま様子を見てみましょう」
「はい」
医師は会釈すると病室を退いていった。
篠崎亜美は功の手を握りしめて「ここにいるからね。早く目を覚ましてね。待っているから」と囁いた。
***
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