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第二話「心の闇を消し去るしあわせの鐘を鳴らそう」
子狼の力
しおりを挟む康成は念のため受付に行ってみようかと思ったが、なんて訊けばいいのかよくわからなくなり躊躇った。
ここは子狼の力を借りたほうがいいのかもしれない。
アロウとウンロウを見遣ると無言で頷いていた。
『確か、四階だったよな』
康成はアロウに向けて心の中で尋ねると頷いてきた。よし行ってみよう。きりっとした目つきで子狼たちは歩いてエレベーターに乗り込む。
四階のフロアに降り立つと右と左に通路は存在した。どっちだろう。立ち止まって右と左を見ていると子狼たちが右へと歩みを進める。康成はそのあとをついていく。
うっ、これは。
焦げ臭さが鼻をつく。ここに間違いなくいる。
病室の外に『上田敏文』との名前があった。その名前を見遣り確信をした。嫌な空気もその部屋から漂ってくる。
大丈夫だろうか。憑依体質な自分がこの中へ立ち入ったらどうなってしまうだろうか。いや、大丈夫だ。今までたくさんの神社仏閣に行って縁を結んできたではないか。滝行もした座禅も写経もした。足元にはアロウとウンロウがいる。悪霊に取り憑かれることはもうないはずだ。
「俺もいるぞ」
突然の背後からの声に振り返るといつからいたのか智也が笑顔で立っていた。
これは心強い。
「とも――」
康成は途中で言葉を呑み込んだ。危ない、自分にしか智也は見えていないはず。看護師はいないことを確認する。大丈夫だ。けど、ここは心の声で会話した方がいい。
『智也も来てくれたんだな』
「まあな。初仕事だからちょっと来てみた。というか、猿田神社の神様から行ってやれと言われたからな」
そうなのか。神様も自分のことを認めてくれているのかもしれない。
「康成、猿田彦大神はおまえのこと気に入っているみたいだぞ。だからといって神様に頼ってはダメだからな。そこのところはわかっているだろう」
『わかっているよ。なんの努力もしないで神頼みなんてしないさ』
「そうだな。俺も神様修行の一環として今日は手伝うからな。というか見守っている」
康成は頷き、よし、入るぞと意を決した。
病室へ一歩足を踏み入れるなり、焦げ臭さが増した。粘着質な嫌な空気が漂っている。
どうやらここは個室みたいだ。
酸素マスクをしていてピクリとも動かない患者が目に留まる。意識不明なのだろうか。いや、違う。手が微かに動いた。瞼も開いた。だが、その目は虚ろでどこか遠くを見ているようだった。意識はあるのかもしれないが、他に反応を見せることはなかった。
話せないのだろうか。
「あの、上田敏文さんですよね」
目だけが動きこちらに向いた。だが、それだけだった。
どうしたらいいのだろう。助けに来ましたと言うべきなのか。突然、そんな話をしたところで理解できないかもしれない。悪霊に取り憑かれているなんて話を信じられるはずがない。
ああ、それにしてもここの空気は濁っている。正直、立っているのも辛い。長居は禁物だ。自分にできることは何があるだろうか。ふと浮かんできたのが般若心経だった。悪霊に効果があるかわからないが心の中で唱えてみようか。
そう思ったのだが、アロウに「待て」と止められて「ここは任せろ」と言葉を続けた。
「そうそう、中途半端な般若心経はかえって逆効果だものね」
ウンロウの言葉に康成は頭を掻いた。完全に見透かされている。正直なところ般若心経を全部覚えているわけではない。ちょっと最初のところだけ唱えたところで意味はないだろう。
『わかった。頼んだぞ』
アロウとウンロウはお互い目を見合わせて頷いた。
子狼たちは毛を逆立てて一気に身体を膨らませた。その様子に康成は後退りしてしまった。
「康成、大丈夫だ。すぐに終わる」
智也の言葉に頷き、一歩引いたところで見守ることにした。
アロウが右にウンロウが左に陣取り敏文のいるベッドを挟み込む形になった。その瞬間、敏文の身体から黒い靄が立ち昇り一匹の猫が現れた。どこか怯えている様子で逃げ腰だ。その猫と目が合うとこっちに向かって飛び跳ねようと低い体勢をとった。そのとき、アロウとウンロウの咆哮が猫を捉えて動きを封じた。金縛りにでもあっているみたいだ。
敏文の寝ているベッドがガタガタと揺れ出す。同時に悪霊と化した猫が苦しみ始めた。何かに引っ張られているみたいに身体をグゥーと伸ばして歯を食いしばっている。
「今だ」
アロウは叫びすぐさま飛び跳ねた。ウンロウもほぼ同時に飛び跳ねる。
猫の首にアロウの牙が、猫の腰にウンロウの牙が食い込んでいく。
猫の身体が引き千切られて悲痛な叫び声をあげた。康成は思わず耳を塞ぐとともに目を逸らしてしまった。悪霊とは言え、猫が引き千切られる姿を見るのは辛い。なんとなく吐き気も込み上げてきた。
本当にあの猫が不運を引き起こした元凶なのだろうか。そう思っていたら、病室の空気に変化が生じた。
終わったのか。あっけなく悪霊を退治してしまった。子狼の力はそこまで凄いのか。秩父の三峯神社の狼は悪霊退治に相当な効力があると聞くがここまでだとは思ってみなかった。アロウもウンロウもまだ子狼だ。大人の狼だったらどれだけの力があるのだろうかと思うと震えがきた。
気づけば重たい空気が軽くなっていた。焦げ臭さも完全になくなっている。それだけではない。どことなく明るくなっている。窓の外から差し込む光のせいだろうか。いや、光はずっと差し込んでいたはずだ。同じようで同じではない。不思議な感覚だった。
「終わったぞ。あいつの魂は消滅した」
そのとき、看護師が病室にかけつけて自分に向かって「あなたは誰ですか。家族ですか。親戚ですか。何か変なことをしたんじゃないですよね」と質問攻めにされてしまった。
かなりベッドが揺れていたからナースステーションまで聞こえたのだろう。ここは惚(とぼ)けるしかない。
「何かって。別になにも。僕は、上田さんにお世話になった者で入院を知って来ただけです」
看護師はベッドの敏文のところに行き確認していたが、特に異常がないとわかると不審がってはいたが病室から出ていった。
康成は敏文に向き直り、様子を窺った。
「あの、聞こえますか。話せますか」
返事はなかった。猫の悪霊は消え去っても病状が回復するわけじゃないのか。
「おそらく、奥さんを亡くして精神的なものがあるのだろう」
そうか、根本的な原因はそこにあるのか。ならば、どうすればいいのか。
『アロウ、ウンロウ。何かいい策はないかな』
あれ、どこにいった。子狼の姿はどこにもなかった。
「もう帰ったぞ」
えっ、帰った。
「ああ、子狼たちの仕事は終わったからな」
なんだ、挨拶くらいしていけばいいのに。意外と素っ気ない奴らだ。あとは自分でなんとかしろってことか。
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