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第一話「頭の中の不協和音」
こころと同居する日を控えて
しおりを挟む三ヶ月後、面倒な手続きがあったもののこころは祖母の家に行けることになった。ちょうど春休みだったこともあり、春休み明けから新たな中学校に登校する予定だ。
智也も安心してあの世へ旅立てるだろう。
これで一安心。そう思ったのだが、ふとあることに気づき急激に心拍数が上がった。香神こころと同居するってことだ。一つ屋根の下でこころと暮らす。祖母がいるとは言え、いいのだろうか。もう決まったことだけど。今更、祖母の家では暮らさないなんて言えるはずがない。すでに自分は暮らし始めている。
祖母の家で過ごした三ヶ月間は快適だったと言えるだろう。滝行も座禅も写経も最初は辛かったけど、今思えばいい経験だと思えた。ありがたいことだ。
今日も清々しい朝だ。
どこからか聞こえる小鳥の囀りは『おはよう』とでも声をかけてくれているようで癒される。それに頬を撫でていくそよ風。窓は閉まっているはずなのにそよ風だなんて不思議な話だけど。それが祖母の家の二階のこの部屋だ。きっと見えないなにかの力が働いているのだろう。もちろん、嫌な気ではない。何かの力に守られているようなこの空間は居心地がいい。不思議と塞ぎがちな心がスッと晴れていく。
智也のことを忘れたわけじゃない。胸を締めつけてくることはある。だが、以前の自分とは違う。智也のぶんまで頑張ろうと思える。智也に救われた命だ、智也の分まで生きるという気持ちが今はある。
父と母には申し訳ないがずっとここにいたい。戻るなんて考えられない。
そんな祖母の家にこころが来る。
『こころを連れていきたい』
自分が言い出したことだ。はたして問題なく過ごせるだろうか。大丈夫だろうか。だろうか、じゃない。大丈夫だ。智也の妹だ。それなら自分にとっても妹だ。そう割り切れるのか。こころのいる施設を訪ねたとき、突然抱きつかれたことがふいに脳裏に蘇る。
こころの涙、そして笑顔とぬくもり。思わずにやけてしまい、すぐにかぶりを振る。
康成は心を落ち着かせようと深呼吸をした。それでもドキドキは止まらない。どうにもこころの存在が大きくなっていく。なんでこんなに意識してしまうのだろう。こころに女を感じてしまったのか。そうなのか。まあ、考えてみれば男として当然の感情なのかもしれない。
とにかく落ち着け。こころは智也の妹だ。智也の代わりに守ってあげなくてはいけない。それだけだ。
「智也、僕は……」
智也なら笑顔で「おまえを信じているさ」なんて口にするかもしれない。そうさ、何も問題はない。こころは自分にとっても妹同然だ。間違いなんか起きるはずがない。そう自分に言い聞かせる。待てよ、それって間違いなのか。
「おまえとなら大歓迎だぞ。気持ちを抑え込むことはない」
えっ⁉
振り返ると心地よい風が吹き抜けていきパチンと耳たぶを叩いていった。今の声は智也じゃなかっただろうか。叩かれたはずなのに痛みを感じない耳たぶに触れて頬を緩めた。いつかも似たようなことがあった。
もしかして、智也がいるのか。また霊感を取り戻しつつあるのかもしれない。不思議と嫌な気分がしなかった。
「康成、起きているのかい」
「祖母ちゃん、起きているよ。すぐ下に行くよ」
「こら、違うだろう。路子と呼びなさい。私はまだまだ若いんだよ」
しまった、つい気を抜くと『祖母ちゃん』って呼んでしまう。そこまで気にすることはないと思うけど。
「ごめん、路子さん」
「まずは歯を磨いて顔を洗って、仏様に挨拶をしなさい。そしたら神様に挨拶だよ」
「わかっているよ」
三ヶ月も経てば、言われなくても自然と身体が動いてしまう。歯を磨くことも顔を洗うことも当たり前のことだが、ここには仏壇と神棚がある。挨拶をすることも当たり前のことだ。最初は神様から挨拶をしたほうがいいような気がしていた。けど、祖母の話を聞いて納得した。
祖母が話したことが思い出される。
「仏壇にいる仏様は、もともと身内の者だろう。ほら、仁吉さんが見守ってくれている。
何かあったときに真っ先に助けに来てくれるのは神様ではなく仏様となったご先祖様のほうだねぇ。そう考えれば、おのずとどうすべきかわかるだろう。仏様から挨拶するのが道理だねぇ。私はそう思うよ」
この話を聞いて違うと言う人はまずいないだろう。いや、いるのだろうか。そう考えたとき、この話に当てはまらない家があることを思い出した。以前、神式の葬儀を経験したことがあった。そこの亡くなった人は仏様ではなく神様になるはずだ。けど、うちは違う。ご先祖様は仏様だ。だから、祖母の考えは間違っていないと思う。
祖母の家に気持ちいい風が通っているのも仏様と神様の両方が見守ってくれているからだろう。きっと悪戯しようとする霊も立ち入れないはずだ。神社の参道に家があることも一つの要因だろうけど。憑依体質の自分も霊が取り憑くことはない。万が一、どこからか連れてきてしまったとしてもこの家に入った瞬間、逃げ出すだろう。それに以前より自分の霊格があがっているはずだ。何もなくても悪霊が取り憑き難くなっているだろ。頑張って修行した成果は出ているはずだ。祖母に比べたらまだまだだけど。
「挨拶は済んだかい」
康成が頷くと「なら、朝ごはんにしようかね」とキッチンへと祖母は向かった。と思ったら引き返して来て「そうそう、今日は執筆作業で忙しいから食べ終わった食器の洗い物は頼むよ」と笑みを浮かべた。
「わかったよ」
そうそう、祖母は七十二歳だというのに本を出している。小説家というわけではない。随筆家と呼べばいいのだろうか。神仏関係の本を書いている。いい小遣い稼ぎになっているらしい。自分とこころを養うだけの稼ぎはあるみたいだ。普通だったら年金暮らしなのだろうが、祖母は違う。なにやらアパート経営もしていると小耳に挟んだのだが、そのアパートがどこにあるかはいまだに不明だが。
変な話なのだが、「康成にはまだみつけられないかもしれないねぇ」なんて口にする。いったいどういうことなのだろうか。そんなにわかり難い場所に建っているのか。いやいや、そんなんじゃ誰も借りる人がいないだろう。
「ほら、冷めてしまうよ。ぶつぶつ言っていないで早く食べてしまいな」
いつの間にか、目の前に朝ごはんが出されていた。
大根の味噌汁、ナスの漬物、焼鮭、生卵に焼きのりにツヤツヤのご飯。完全に和の朝食だ。これがまた美味しくて堪らない。朝はあまり食べなかったのに、ここに来てからは食欲が増した。それも沈んだ心を浮上させてくれた要因かもしれない。祖母曰く『食べることは生きることに繋がる』だそうだ。そうかもしれない。
三ヶ月前の自分を思い出すと、震えがきてしまう。完全に生きる屍だった。
この三ヶ月で自分は救われた。祖母のおかげだ。
「なんだい、何を泣いているんだい」
「いろいろと思い出しちゃって」
「馬鹿だね。泣くことはないだろう。明日にはこころちゃんも来るんだからね。しっかりしなさい。修行もあるんだからね」
えっ、修行。そ、そんなこと聞いていない。というか修行はもう終わりじゃなかったのか。
祖母はニヤッとして自室へと歩いていった。
今の笑みはもしかして、冗談なのか。そう願いたい。だが、その願いは木端微塵に砕け散った。
テーブルの上にメモ書きがあった。
『午前十一時に滝行しに行くこと』と。
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