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雨のち晴れときどき猫が降るでしょう

人生の分岐点

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 海か。

 なぜか海に来ると物思いにふけってしまう。そういうことってないだろうか。自分だけなのだろうか。気持ちが沈んでいるせいかもしれない。元気だったらきっと違ったものになるのだろう。

 ほら、あそこで遊んでいる子供がいい例だ。はしゃいじゃって。そんなことどうでもいいか。そう思いつつ子供の遊ぶ姿に目がいってしまう。

 いいな、ああいうの。
 自分も早く結婚して子供と一緒に海に来たい。こんなどん底の気持ちを引きずっての海は嫌だ。けど、相手がいない。みつかるのだろうか。理想の女性は……。
 なにを考えているのだろう。結婚なんてまだまだ先の話だ。もしかしたら一生独身なんてことも。やめ、やめ。こんなんじゃどん底に埋まっちまう。

 思いっきり息を吐き出して青い海に目を落とす。
 海はいいな。

 それはそうと実家に帰って来るなんて思ってもみなかった。成功して帰郷するっていうのなら、胸を張っていられるけど、自分はそうじゃない。それでも、今は帰って来て正解だったのだろう。
 離れてみて地元の良さを知るって言うが本当にそうだと思う。都会もいいけど田舎の良さもある。
『田舎=何もない』なんてイメージあるけど、そうでもない。他の人はどう思うかはわからないけど、自分はそう思う。

 淵沢裕ふちさわゆたかは砂浜の手前にある石段の一番上に座り寄せては返す波をじっとみつめていた。
 大きく息を吐き出して海から空へと目を移す。どうも溜め息が出てしまう。暗くなる必要なんてない。これからだろう。こうして生きていられることを喜ぶべきだろう。新たな人生の始まりだ。そうだろう。けど、そう簡単じゃない。

 空に浮かぶ白い雲をふと見遣る。
 形を変えながらゆっくりと流れていく白い雲。風の流れに身を任せる白い雲がなぜか羨ましく思えた。余計なことをなにも考えることなく自由気ままに自分も過ごせたらいいのに。
 そう思ったのだが、裕は自由ってなんだろうと疑問を感じた。なんとなく楽そうだけど実は自由でいることのほうが大変で難しいことなのではないだろうか。
 生きるって難しい。自分はこの先どうしたらいいのだろう。生きていく意味はあるのだろうか。だからといって死ぬことは嫌だ。

「よう青年、暗い顔してどうした」
「えっ」
「女にでもフラれたか」

 突然現れたお爺さんが隣に座り肩を組まれてしまう。誰、知っている人じゃない。誰かと間違っているんじゃないのか。そんなことより『フラれた』ってなんだ。違う、間違っている。フラれてなんていない。

「な、なにを」
「あっ、リストラにでもあったか。まだ若いのに大変だ」
「いや、そうじゃ」
「まあ、まあ。生きていればいろんなことがあるってもんだ。良いこともあれば悪いこともある。それが人生ってもんだ。人生、楽しまなきゃ損だ。そうは思わんか」

 確かにそうだけど。そうじゃなくてリストラでもない。

「美味いもん食べて頑張れ。それで万事うまくいくってもんだ。なーんてな」

 いったいなんだ、この人は。危険人物か。新手の詐欺師とか。逃げたほうがいいのか。そう思いつつもずっと笑顔のお爺さんを見ていると楽しくなってくる。不思議な人だ。

「ほら、これでも食って元気出せ」

 手渡されたのはアンパンだった。しかも、半分だけ。まさか食いかけか。おいおい、そんなものが食えるか。アンパンを返そうとしたところですぐにお爺さんに押し返されてしまう。

「まったく無口な奴だ。美味いもんは幸せを呼ぶぞ。遠慮しないで食え。じゃあな」

 バシンと背中を叩かれたかと思うと大笑いしながら歩いて行ってしまった。なにが『無口な奴だ』だ。一人でずっとしゃべりっぱなしじゃないか。お爺さんがおしゃべりで話せなかっただけだ。

 半分のアンパンが手元に残ってしまった。これ、食べたほうがいいのか。歯型らしきものもないし、おそらく食べかけじゃない。半分に割ったのだろう。そう思ったほうがいい。食いかけを渡す人なんてそうそういるもんじゃない。そうじゃないと食べられない。パンから少しはみ出した粒あんが美味しそうだ。甘いものを欲していたのかもしれない。もったいないし、食べたほうがいい。けど、さっきのお爺さんの食いかけだったらどうする。

 チラッとお爺さんが歩いて行った先を見遣ったがもう姿は見えなかった。歩くのが早くないか。まさか幽霊だったとか。それはないか。どこか脇道でも曲がって行ったのだろう。
 変な人だったけど元気づけようとしてくれたみたいだし、お爺さんのおかげで少しだけ心にゆとりができた気がする。お爺さんの好意を無下にはできないし食べよう。

 裕はアンパンに噛りつき『死ぬ』だなんてなにを馬鹿なことを考えていたのだろうとフッと笑みを零した。
 なにをやっているのだか。まだまだこれからじゃないか。落ち込むことはない。きっと生きている意味はあるはずだ。だからこそ、ここでこうしていられるのだろう。『美味いものは幸せを呼ぶ』か。そうかもしれない。お爺さんの考え方を見倣うべきだ。

 自分は生かされたのだから。死ぬのはまだ早いとあの世から追い返されたのだから。奇跡って本当にあるのだと身をもって体験した。わかっている。けど……やっぱり。

 震える左手をギュッと握りしめる。この左手だ、問題は。
 自分では強く握ったつもりだったが思ったほど強く握れていなかった。この現実が自分を萎えさせてしまう。
 裕は小さく息を吐く。
 せっかくお爺さんが笑顔をくれたのにまた闇が自分を覆いつくそうとしてくる。ダメだ、それじゃ。暗い、暗過ぎるぞ自分。

 んっ、本当に暗くなっていないか。裕は空を見上げてひとつの雲を睨みつけた。

『おい、そこの雲。太陽を隠すな』

 心の中で叫んでみるが雲が『はいそうですか』と動くはずもない。雲なんて気にするな。海だ、海から癒しを貰おう。
 再び、海へと目を移す。波音ってなんて心地いいのだろう。岩肌に打ち付ける波が飛沫をあげる様もなんだか心地いい。

『大丈夫だよな』

 なぜか海にそう問い掛けてみた。もちろん声に出したりはしない。
 左手に再び目を向けて『大丈夫だ、きっと』と自分に言い聞かせた。お爺さんだって『楽しまなきゃ損』って話していたじゃないか。そのとき岩肌に大波がぶち当たり飛沫とともに小さな虹を作った。
 ほら見ろ、『大丈夫だ』って海が励ましてくれているじゃないか。
 モヤモヤした胸の内を心地よい波音が掻き消してくれる。空の青と海の青も嫌な気持ちを払拭してくれる。不思議とまた頑張ろうと思えてくる。いつの間にか雲に隠されていた太陽が顔を出していた。大自然も自分の味方だ。本当にそうだとしたらなんて心強い味方なのだろう。

 ラッキースポットは『海』か。

 この場所、好きかもしれない。海に来て正解だった。
 テレビで流れていた占いもたまには役に立つものだ。
 気のせいだろうけど、波音が『なにも心配することはないよ』とでも囁いているようでフッと笑みを浮かべた。あっ、あの雲は龍みたいだ。こっちに顔を向けて『守ってやるから安心しろ』と語りかけてくれているみたいだ。これも気のせいだろうか。
 妄想が酷すぎるかもしれない。けど、そうでも思わないとやっていられない。
 馬鹿だな。いや、それくらいが今の自分には丁度いい。

 そうだ、大丈夫。なにか自分にもやれることはあるはずだ。リハビリも頑張ればこの左手ももとのように動くようになるはず。
 ほら、こうやって握りしめることができるまで回復したじゃないか。
 なにげなくそばに転がっている小石を掴もうとしたのだが、小石はするりと左手から転げ落ちてしまった。
 裕は溜め息を漏らして再び寄せては返す波へと目を向けた。これが現実なのか。

 やっぱり自分はもうダメなのだろうか。本当になにかできることがあるのだろうか。生きている価値があるのだろうか。
 仕事も辞めて、数ヶ月。なんとなく電車に乗り海の見える町にやってきてしまった。実家のあるこの町で人生のやり直しができたのならと思って来たもののこの先の自分の将来像が見えてこない。せっかく助かった命だというのに、あっちの世界に逝ってしまったほうがよかったのではないかと思ってしまう。
 だから、馬鹿なことを考えるのはよせ。すぐ後ろ向きになる。ダメだっていっただろう。暗過ぎて自分の周りだけ夜になっちまうぞ。
 思い出せ、以前の自分だったら『なんとかなるさ』って思っていたはずだ。今だって、一緒だ。そんなに性格が簡単に変わるはずがない。まあ、簡単では済まされないことが起きたのは事実だけど。それでも前のように前向きに考えて行動すればきっと、この先いいことが起きるはずだ。

 大丈夫。そう思えばいい。この先、良くなるのも悪くなるのも自分次第だ。
 頑張ろうと思ったからここに来たのだろう。ならば、一歩でもいいから前に進まなきゃいけないだろう。
 考えてもみろ、不運な人生を歩んでいる人は自分だけじゃないはずだ。生きているだけでも幸せだって思え。きっとこうなる運命だったに違いない。しっかり現実を受け止めろ。

 あの事故だって……。
 裕はかぶりを振った。この先のことを考えよう。せっかく好きだと思える場所に来ているのだから、そのほうがいい。
 けど、あの事故がなければ……。裕は再び、左手を食い入るようにみつめた。
 確か、あの事故があったのは底冷えのする一月だった。

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