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Ride or Die
6・蛇の憂鬱
しおりを挟む雨模様の朝、池占邸の離れから母屋へ続く廊下を渡る者がいた。
巳之瀬詩安、〔白幻〕から池占家へ派遣されてきている医師だ。
彼は男性型αだが、ともすると女性型のαと見紛うほどに体つきは細身で、面差しも優美で柔らかさがある。ミルクティーベージュのウェーブがかったボブスタイルが、一層彼を中性的に見せていた。
巳之瀬の気分は沈んでいた。別に珍しいことではない。ここに勤務するようになってから、それまでの生活に輪をかけて憂鬱なのだ。
この地方もそろそろ本格的に梅雨入りの時期が近く、昨日から雨が続いている。
どうりで息苦しいわけだ。
湿気の多さに加え、巳之瀬はマスクをしている。顔面をしっかりと覆うシールドと吸収缶つきのマスクは市販のものではない。Ωのフェロモンを防ぐそれは、〔白幻〕に勤務するαに配布される特注品だ。また、Ωの項にαの歯や舌、唾液があたらないようにして番契約を阻む役割もある。
息苦しいのなんて、雨降りのせいじゃないけど。
分かっているのだ、この肺が潰れたような苦しみが、決して湿度やマスクの性能のせいではないことが。これから向かう先に居るΩ、池占辰需に会わなければならないストレスが、巳之瀬の呼吸を困難なものにさせる。
マスクが必要なくらいなら、Ωフェロモンの影響を受けないβの医師の方が適任なはずだ。しかし池占付きの医師がαでなければならないのには理由がある。
池占邸の母屋。
天眼様こと池占辰需の部屋の前には、門番のように覇々木龍正が控えていた。表情の乏しさといい、黒髪と黒いスーツに強調された白い肌といい、無機質な人形じみた男だ。端整な容姿も相まって余計にそう見える。
「おはよう」
マスク越しにくぐもった挨拶をすれば龍正は義務的に、
「おはようございます」
と返してくれるものの、態度はいつも余所余所しい。まともな感性なら、朝から彼と対面して明るい気持ちになるなんてことはないだろう。
ところが奇妙なことに、この男を目の当たりにすると、鬱々とした気分がだいぶ晴れるのだ。
例えるなら汚泥をそそぐ清らかな朝露の雫、林壑の涼やかな微雨、湖の水際に手を浸した冷たさ、そんなところだ。龍正はそうした不思議な気配を持っている。あるいは自分の感覚が、もう、狂っているのかもしれない。
〔白幻〕の施設長である寒崎から渡された資料によれば、覇々木は竜神に仕える巫女の後裔で、穢れを祓い妖邪を退ける加護を授けられているという。当主は「竜の神和ぎ」と呼ばれ、天眼様と竜神の間に結界を張ったり、双方の魂を取次ぐ役をするのだとか。
この科学の時代に竜神だの結界だの、厨二病じゃあるまいし。そんな御伽話をわざわざマル秘の書類に記載するのか、と最初は心底呆れたものだ。
でも今は、ほんの少しだけ信じている。竜神や結界をではない。
例えば特定の人間に清涼感をもたらし、池占の血縁者を遠ざける未知のフェロモン物質の作用を、昔の人々は竜の加護と解釈したのではないか。と、いずれ科学で解明できるものとして、可能性を信じてみてもいいかという程度に。
和風建築に似つかわしくない、銀行の金庫室のようなドアの前に立つ。ブザーを押し、中から池占の世話係が解錠してくれるのを待つ。
今日の係は覇々木湖遥だった。
「おはようございます、巳之瀬先生。昨晩はすごい雨でしたわね」
「おはよう。随分と近くで雷も鳴って」
「はい、停電になるんじゃないかと心配しました」
湖遥は常識的で安定したごく普通の人だ。彼女との何気ない会話のおかげで、この異様な領域内でなんとかまともな精神状態を維持できている自覚がある。
広いだけで文化的なものが極端に少ないこの空間は、どうにも気が滅入ってしまう。
中央には大きな寝台、その脇には簡素な椅子とテーブル。次いで古い着物箪笥、化粧品の並ばぬドレッサー、空の本棚が、寝台を取り囲むように配置されていた。
洗面所、トイレ、浴槽などの水回りは向かって左側の壁に接して設置されているものの、仕切りがないためほぼ丸見え。
右手の壁に固定された鍵付きの物入れには、健康状態を把握するために使う機材をはじめ、消毒液や脱脂綿、手袋などの消耗品が納められている。これは許可を得て置かせてもらっているものだ。
四方の壁は防音シートと有孔ボードを貼り付けたコンクリートで固められ、窓は一つもない。高い天井には蛍光灯が列を成し、室温調節のためのダクトが走っている。床は象牙色のタイルで、池占の移動する箇所にだけ消炭色のカーペットが敷かれていた。
白髪の主人を含む全てが無彩色で、空調の機械音だけがずっと微かに鳴っている。時間が止まった死後の世界のようだ。
初めてこの部屋を訪れたとき、墓みたいだと思ったのだ。ここは巨大な墓碑をくり抜いて作られたんじゃないかと。そして今でもやっぱり、そう思う。
今日もまた血圧測定や心電図検査などを行い、採取した体液と排泄物の検査キットをアタッシュケースに詰め、〔白幻〕の医療施設へ送る準備をした。
最後に、白衣とジャケットを脱いで壁際に移動する。
ちょうど寝台と向かい合うように作られた一角があり、そこだけは下地のコンクリートが剥き出しになっている。端には色褪せた緑のホースが付いた水栓柱があり、床には小さな排水口が開いていた。
壁には四箇所、太い金属の杭が打たれている。それぞれから垂れ下がった鎖の先には、頑丈な枷が繋がっていた。杭を直線で結べば、人間を磔にする形になるだろう。
自ら鎖のついた金属の枷を両手、両足に嵌めて鍵をかける。枷と鎖を何度か引っ張って念のため強度を確かめ、撓まない距離まで前へ出た。
窮屈なマスクを外し、枷の鍵と一緒に湖遥に預ける。これでもう逃げることはできないし、Ωとの隔たりも無くなってしまった。
赤子が掴まり立ちをするようにして寝台から降りた池占が、裸足のままこちらへ向かって歩いてくる。カーペットからタイルへ出ると、ぺたりぺたり、と扁平な足裏が音を鳴らす。
一歩、また一歩と迫るΩからフェロモンが漂ってきた。
「っぐ……」
本能的に嫌悪するそのフェロモンに条件反射で顔を背け、無意識に後退る。
池占が全身から放出しているのは忌避フェロモンだ。
αと番契約を交わしたΩは、番以外のαを遠ざけるための忌避フェロモンを分泌するようになる。また、このフェロモンは自身以外のΩにも効果を発揮する。自分の番に忌避フェロモンを付けておけば、他のΩが寄り付くのを防ぎ番を独占できるというわけだ。もっとも、洗い流してしまえば効果は無くなるわけだから、αは複数のΩを番にすることが可能だ。
Ωは長期間にわたり番のαフェロモンに曝露されずにいると、忌避フェロモンの量が徐々に減少し、いずれ分泌されなくなる。そうすればまた新たな番を獲得できるようになるのだ。
回復期間には、番と共に過ごした時間や年齢によって個人差がある。池占の場合、完璧な回復までにはあと──
およそ十日といったところか。
まだ忌避フェロモンは分泌されているが、耐えられない程じゃない。
昨日に比べて濃度は確実に薄くなっている。次の発情期にはαを誘引できるようになるだろう。
池占付きの医師がαでなければならない理由の一つに、フェロモンの確認をするこの作業がある。
Ωから採取した体液を分析機にかけて忌避物質の量を計測してもいるのだが、旧態依然としてこの方法が続いている。αを縛り付けて行うフェロモンの確認作業は、明治時代よりも前から続いているそうだ。
現代は高性能の分析機があるのだからこんな習慣は止めたらいい、と進言したこともあったが、あえなく却下された。
忌避フェロモンの他にも、性誘引フェロモンの分泌量を診なければならない時もある。自由を奪う鎖はαが忌避フェロモンで逃げないように捕らえておくための他、発情期の性誘引フェロモンに我を失ったαが、天眼様に襲いかからないよう拘束する役割りも持つ。
未だにこの前時代的な方法が用いられているのは、池占とその親戚たちが分析機の性能を疑問視しているからではない。
αが鎖で縛られ忌避フェロモンで苦悶したり、性誘引フェロモンで興奮する姿を面白がるための、悪趣味な娯楽なのだ。
その証拠に、こちらを見上げる白いΩの表情は愉悦に満ちている。半円のアーチ型から覗く底なし沼のような瞳が、欲情を湛えて油膜のように揺らめく。こんもりと盛り上がった頬肉の下、左右のほうれい線を繋ぐように弧を描く唇が、こう囀った。
「今夜も」
来いということだ、この部屋に。
池占付きの医師がαでなければならないもう一つの理由。αの肉体で天眼様に奉仕し、心身の安楽維持に寄与すべし、だ。これも〔白幻〕と池占家の契約に含まれている。拒むことはできない。この業務のために永久避妊、パイプカットまでした。
顔を背けて、分かりました、と短く承諾の意を伝える。
僅かとはいえまだ池占から分泌される忌避フェロモンは苦痛だ。察しのいい湖遥が、即座に手際よく枷から解放してくれた。
マスクを受け取り急いで装着しようとするが、焦りのせいで上手くいかない。ベルトの金具に髪の毛が絡まり、欠けた左耳が露わになった。歪な耳に注がれる、粘りつくようなΩの視線に慄然とする。
この耳の形状は生まれつきではない。喰われたのだ、池占に。
配属当初、今と同じようにマスクを外し、枷を付けて池占の忌避フェロモンを感知したとき──
あまりの強烈な刺激に耐えられず逃げ出した。
だが鎖で繋がれている上、コンクリートの壁に阻まれているのだから逃げ道などない。
みっともなく涙と鼻水を流しながら、もう鍵を外してくれと頼んだが、当時の世話係はすぐに解放してはくれなかった。気が利かないのか、それとも主人の命令に忠実なだけなのか。きっと後者だろう。
池占はこっちが右へ逃げれば右へ、左なら左へと迫り、心の底から楽しそうに嗜虐の笑みを浮かべていた。両手で鼻と口を押さえて蹲り、なるべくフェロモンを嗅がないように耐えていたのも束の間。
池占は湿っぽい小さな手でワイシャツを剥いて背中を撫でまわし、蛞蝓が這うように皮膚を舐めた。さらにフェロモン分泌腺の多い頭皮に鼻を埋めて、αフェロモンを含んだ体臭を嗅ぐ。
興奮した池占は吐息とも嬌声ともつかない唸りをあげ、鑿のような鋭い前歯で左耳に噛みついてきた。
甘噛みなんて生やさしいものじゃない。顎の力は獲物に食らいつく飢えた獣のそれだった。
喰われる!と切羽詰まって激しくもがいた。壁際に逃げていたため鎖の長さには余裕がある。手足を動かすことができると気付いて思い切り突き飛ばした。
ぶつん、と嫌な振動が頭に響く。
耳を食い千切られていた。
切り口から頬へと血が流れ、首筋に伝いシャツを赤く染めた。焼けるような痛みと忌避フェロモンの嫌悪感、Ωへの恐怖で意識が遠のく。
流石の従順な世話係もこの有様に動転し、床の上に主人を放置したまま誰かを呼びに駆け出した。
池占が口内に残った耳の一部を細かく咀嚼し、嚥下したのを朦朧とした意識と隔絶感の中で見た。
もしあの時、湖遥がいたら耳を欠くことはなかっただろう。
「巳之瀬先生、お使いください」
と湖遥が鏡を差し出し、顔形が見えるように持ってくれる。折り畳み式で薄桃色の、これは彼女の私物だ。
無様な耳を隠すように髪を手櫛で整えながら、ありがとう、と曖昧な滑舌で彼女に礼をした。本当はもっとはっきり伝えたつもりであったが、自分から出たのはやけに卑小な声だった。
メディカルグローブを脱ぎ、次いでジャケットに袖を通しながら湖遥にこう伝える。
「このまま順調にいけば、次の神憑りには婿選の儀式が可能でしょう」
通常の性教育を受けていない池占にとって「神憑り」は発情期、「婿」は番のことだ。
αにも「仕者」と独特の呼称がある。そして仕者の中でも、天眼様の婿になれる資格のある者を「神権者」という。神権者たちは天眼様を巡って選別の儀式を行い、勝ち残った者が婿として迎えられる。
自分を例にとってみれば医師として、さらに性の捌け口として天眼様に仕える者ということだから、「仕者」はなるほどそのままの呼び方だ。天眼様にとってαは全て、都合のいい奴隷のようなもの。
「ではまた、今晩まいります」
天眼様の夜伽に。
「今夜の不寝番は狐囃さんです、申し送りしておきますね」
との湖遥が言うのに、ふと、精神的な負担が軽減するのを感じた。今まで湖遥の前で行為に及んだことなど数えきれないが、それでも今回は彼女に醜態を晒さずに済むというだけで、多少は気が軽くなる。
この部屋における不寝番は湖遥を含む数人のβ女性でローテーションが組まれている。狐囃というのもその中の一人で、痩せ気味の地味な中年女性だ。
不寝番は夜伽の最中も主人の側から離れることはない。αが天眼様に無礼を働かないように、一部始終を見張っている。
忌避フェロモンを分泌しているΩとの性交なんて、αにとって悪夢でしかない。本来そのΩの番でもない限り近付くことはできないし、そもそも忌避フェロモンの影響下では男性機能が正常に働かなくなるのだから、陰茎を勃たせてΩに突っ込むなんてできやしないのだ。
自分の場合、マスクの装着で忌避フェロモンの問題は解決するとしても、Ωを性の対象として見ることができないため苦労する。
だから夜伽のときは薬物を使う。でなければとても池占との性行為には臨めない。〔白幻〕には薬に頼らずマスクのみでやれるαもいるそうだが、ああいうのは一種の才能や特殊性癖のようなものだろう。真似できるものではない。
白衣とアタッシュケースを小脇に抱えて退室すれば、そこには入室前と同じ人形、覇々木龍正が居た。
彼の存在を認識した途端、粘ついたΩフェロモンの詰まった鼻腔や気管支にすっと冷たい空気が通ったような感覚になる。これが幻覚だろうが何だろうが、助かった、と安堵できるのは事実だ。
背後で施錠の音がしたのを聞き届け、透明なシールド越しに龍正の顔を眺める。
「動くなよ」
危ないから、と言って彼の白い頬に手を添え、下まぶたを下げて眼窩結膜の色を診る。
「貧血だな」
と指摘すると、そうですか、と他人事のように返される。
「立ち眩みや動悸、息切れ、頭痛や口内炎は?」
「ありません」
「症状がなくても、赤身の魚やレバーを食って鉄分を補え。でなきゃ市販の薬でもサプリでもいい、買って飲め。目の下の粘膜が白っぽくなっていたら、血中のヘモグロビンが不足している証拠だ。毎朝見て判断しろ。自分でできる体調管理は自分でするんだ」
命令口調だと龍正は存外、こくん、と素直に頷くのだ。常に無愛想な男だが、こういうときはそれなりに可愛げがある。
「もしあんたが駄目になったら、次の神和ぎは瑞貴ちゃんになる。まだ小学生だぞ。湖遥さんも悲しむんだからな」
念押しに彼の娘と妻の名を出せば、瞳に澄んだ光が宿る。微かに眉丘が下がり、悲しそうな表情を観察できた。
「そのときは、二人とも天眼とは縁を切って、普通に暮らして欲しい」
「神和ぎの役目は」
「私が最後で、いいかと」
無理だろそんなこと、と言い返す代わりに盛大な溜め息を吐いてやった。
「昨日の夜も池占は外食だったみたいだな」
池占は解毒を担う内臓器官が弱いため飲食物には注意が必要だが、そこは湖遥と〔ホテル白峰荘〕の間で綿密な打ち合わせがなされている。彼女の指示と要望が適切に料理に反映されているおかげで、今のところ池占の体調に悪化の兆しは見られない。
「榊って人は、あんたによく似てるんだって?」
「……湖遥はそう言います」
先代の天眼様が亡くなった後、遺言状でその存在が判明した榊龍時という人物を、池占辰需はいたく気に入ってしまったらしい。毎週木曜の夜には、必ずその男と会って食事を共にしている。
屋敷の外へ出るのだけでも稀なのに、連絡を取り合うためにスマホまで使い始めたというから驚きだ。βである榊龍時のなにがそこまでΩの心を掴んだのか、興味がないといえば嘘になる。
湖遥によれば龍正と榊は双子と見紛うほどに似ているそうだ。一方は竜神に仕える巫女の末裔として池占に疎んじられ、もう片方は慕われる。
「その人、なんで池占に好かれてるんだ」
「分かりません」
「ふうん、池占に何か変わったことは」
「特に、何も」
「結界を張る回数が増えているようだが」
池占の者は、覇々木の者の気配をひどく恐れる。
それというのも池占家の先祖が竜神の「天眼」を簒奪し、邪悪認定されたからだ。ゆえに穢れと妖邪を退ける力を授けられた巫女の末裔、覇々木の血をひく者を恐れ、拒絶する。自らの罪に課せられた罰を不当な呪いと捉え、先祖代々にわたり覇々木を毛嫌いしていた。
しかし池占は天眼様に成ったところで、単独では能力を行使できないのだ。竜神の覚えめでたい覇々木を介して、元の「天眼」の持ち主である竜神の御魂に取り継いでもらう必要がある。とはいえ呪われた身の上、覇々木の気配は苦痛で仕方がない。
そこで池占の人間はやがて、呪いを一時的に無効化する方法を見つけた。
覇々木の生き血を飲むなどして自らに取り込む。そうすることによって体内にある覇々木の血が隠れ蓑になり、呪いを中和することができるらしい。
なぜ竜神に仕える神和ぎが、竜神のものを奪った罪人に血を与え守る必要があるのか。
疑問ではあるが、覇々木家にとってはあくまでも竜神の能力「天眼」を守っている、あるいは「天眼」が余人に渡らないように監視している、というのが理屈なのだとか。その関係が時代を経るに従い、守護者と被守護者で主従になってしまったのは仕方のないことなのかもしれない。
自らの崇める神が嫌う相手に、自らの血を提供して守ってやる──なんて馬鹿馬鹿しい、愚かなことだろう。
「昨日は何回、血を抜いたんだ?」
「五回」
ぼつり、と龍正が答える。
「増えてるな」
「最初に比べれば」
榊龍時という男もまた、覇々木の血筋に連なる者であるという。
遺産相続の話し合いのあった翌日、龍正はいつになく生き生きとした表情で、「弟に会いました」と報告してきた。聞いてもいないのに。嬉しかったのだろうか。
「弟さんなんだっけ?あんたよりも強いのか、その、竜神様のご加護ってのが」
「ええ」
推測だが、榊の加護の強さに、龍正の血はだんだんと太刀打ち出来なくなってきているんじゃないだろうか。
呪われた池占と竜に愛された覇々木の混血児に、想定外の強力な加護が授けられていたとしたら。もし榊が池占と邂逅したことによって、邪を祓う力に拍車がかかってきているのなら。
池占は榊龍時と対面するために、従来よりも多くの血を飲んで結界を張らなければ耐えられないはずだ。その結界の材料、覇々木の生き血は龍正から奪われる。
「その榊って人の血を池占にくれてやった方が、強力な結界ができるんじゃないのか。なんなら神和ぎの役目も代わってもらえよ。そうなればあんたも天眼とは縁を切れる」
親子で違う地区に移って普通の暮らしをすればいい、と平和な未来を提案すれば龍正の唇が微かに動く。言い返す間を与えずに続ける。
「瑞貴ちゃんの通う学校に近い雪城地区なら利便性がいいし、それか湖遥さんの実家のある地蔵地区なら、頼れる親戚も居るだろう。こんな何も無い土地より、そっちの方が生活しやすいんじゃないのか。家族みんなの負担も軽くなる」
龍正は黙したまま目を伏せがちにした。彼の一重瞼の縁に並ぶ睫毛は意外と細くて長い。
「あの人は、神和ぎにはなれない」
「池占の血が入ったからか」
と訊けば、肯定の意でわずかに顎を引く。
「そのために榊様は……」
神と和することができない。
それじゃあ宝の持ち腐れだな、と巳之瀬は鼻先で冷笑した。
「仕方を教えてやったらどうだ」
お兄ちゃんだろ?と揶揄うが龍正は微笑すらしない。
薄ら笑っていた巳之瀬は、仮面を剥いだように一瞬で真顔になった。
「今夜もまたあれの相手しなきゃいけない」
抑揚のない口調で暗く呟く。
「あんたはいいな、天眼様に嫌われてて」
巳之瀬からの嫌味を龍正はまるで意に介さない。彼の表情からは、妻子の行末を案じたときのような苦悩は読み取れなかった。
これ以上のコミュニケーションを諦めた巳之瀬は、演技がかった仕草で両手を広げる。
「あーあ、誰か、全部、みんな壊してくれないかなあ」
と池占辰需の部屋の方へ向かって、大仰に独り言ちた。どうせ分厚い扉の向こうまでは聞こえまいという安心と、聞こえたって構わないという投げやりさで。ついでに監視カメラに向かって、手まで振ってやった。
「なあ、試しに夜伽の仕事を代わってくんない?湖遥さんには黙っててやるからさ」
龍正をおちょくってそんなことを言えば、
「できません」
と真面目に拒まれる。
「は!冗談だよ、冗談」
知ってるよそんなこと、と嘯いて背を向け、巳之瀬は池占邸の母屋を後にした。
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