30 / 50
Ride or Die
1・遺産相続
しおりを挟む梅雨入り前の六月、第一週目の土曜日。午後七時をまわった頃。
御磨花市、花園地区の賀萼町にある〔コーポ館花〕の駐車場に、一台の黒いバイクが止まった。
桧村良太が、榊龍時に会うためにやって来たのだ。
お泊りセットの詰め込まれたバッグを小脇に抱え、弾むような足取りでアパートの階段を駆け上がる。
角部屋の二〇三号室のチャイムを鳴らすと、エプロン姿の榊が出迎えてくれる。彼の持つミント水にも似た清涼な気配に歓迎された良太は、仕事の疲れが瞬時に癒えたような心地だった。
夕食の準備はすでに整っていた。
良太の席には、よく冷えたビールとグラスも用意されてある。白い麦酒缶には禿頭の、ひょうきんそうなキャラクターが描かれていた。昔人気を博した漫画と酒造メーカーがコラボした製品の復刻版なのだと、榊が教えてくれたことがある。
洗面所を借りて手洗いとうがいを済ませた良太が食卓につくなり、榊はこう言う。
「後で話したいことがあるんだ」
まさかまたこの間みたいに、αと付き合ったのが間違いだった、などと別れを切り出されるのではないかと不安がよぎる。
「金に関することというか」
でも借金はしてないよ、と榊は小鍋から熱い味噌汁を椀に注ぎ、良太と自分の前に置いた。
榊の話したい内容が金銭に関することと知って、良太は胸を撫で下ろす。αだのβだの、Ωの発情とかフェロモンとか。そうした遺伝的な問題に比べれば、金銭絡みの方がずっとマシだ。
いただきます、と同じタイミングで手を合わせ、二人で食事に取り掛かった。
食事の済んだ後、皿洗いを終えた良太は榊の待つソファに腰を下ろす。
テレビでは県内ニュースが放送されていた。知人のα男性を監禁し、強制的に投薬と手術を行っていたとされる医師が行方不明になり、指名手配になったと報じられている。
良太はいつぞや耳にした報道を思い出した。Ωの性フェロモンを無効化するために人体実験をしていた医者がいたとかどうとか。
行方をくらませた医師の名前は「高凍顕光」、四十三歳、男性型α。旧姓の「蛍淵」を名乗っている可能性もあるという。
画面には、実直そうな白衣姿の男が映し出されていた。黄緑を含んだ琥珀色の瞳の色が珍しい。
「榊さん、話って?」
「ん、ああ、そうだな。いまいち現実味のない話なんだけど」
と前置きして榊は話し始めた。
日中、榊のもとに身元保証人である氷川三千緒から連絡がきたのだという。
「なんでもつい先日、私の親が亡くなったんだって」
榊の知らぬところで知らぬ人間が亡くなり、遺族が遺言状を開封してみるとそこには──
『長男の榊龍時に遺産の半分を相続させる』
というようなことが書かれていたらしい、と榊は低めのテンションで言った。
「遺産相続⁉︎」
良太は頓狂な声をあげた。
「そう。私も驚いたよ、親なんていたのかって」
榊は非認知の非嫡出子であり、生後間もない時期に児童養護施設に預けられた。そのまま施設で育ち、もちろん生みの親などずっと知らずに生きてきた。それがこの度、齢二十六になっていきなり親の遺産を相続しろときた。
「亡くなった親ってのは天眼地区の人で、池占という家の当主だったらしい」
「いけうら?この辺じゃ聞いたことない苗字っすね」
「まあな。それで、氷川さんの話では……」
三代遊んで暮らしてまだお釣りがくるほどの財産が残されているとのことだ。しかも、
「私には血の繋がった弟がいるんだってさ」
兄弟までいると発覚したのだ。
氷川は手短に榊にそう伝え、近々向こうの弁護士からお前に知らせがいくはずだ、と電話を切った。氷川のいう通り、頭の整理が追いつかないうちに池占家の弁護士から連絡が入り、同じ内容を再び聞くことになった。
「というわけ。な?冗談みたいな話だろ」
榊は良太に同意を求めた。
「なんかあれですね、ドラマみたいな」
「事実は小説よりなんとやらだ。そこでだ、良太くん」
なにか買って欲しいものはあるか、と榊が訊ねる。莫大な遺産を手にできるという美味しい話の後なのに、ちっとも嬉しそうではない。
「色々あるっちゃ、ありますけど」
「遺産を相続すれば多分、全部買ってやれるけど」
「や、待ってください。それ以前に榊さんは相続をしたいんですか?」
良太の見たところ、榊はその件にまったく乗り気でなはかった。こちらの物欲を充たすのが目的で、欲しくもないものを背負うはめになるのなら賛成はできない。
そもそも榊が巨額の遺産を手にしたところで、良太のものではないのだ。第一、榊に金品を貢がせるようなことはしたくない。
「信頼関係のない人の遺産ってのもなあ……借金の有無も分からないし、税金のこともある。そこを考えると面倒くさいってのが正直なところだ」
「榊さんがそう思うなら、放棄してもいいんじゃないですか」
「本当に何もいらないのか?」
「俺の欲しい物って、自分で稼げば買える範囲内にあるんで」
地道に頑張ります、と良太は言う。
ちなみに今は何が欲しいんだ?と訊かれたので、新しい革ジャンと答えた。でも本心では、榊と二人で暮らすための庭付き一戸建てが欲しい。それだってローンを組めば買えないこともないだろう。
「明日、池占家の人と会うことになってるんだ」
「じゃあ、弟さんとも?」
「おそらく」
「似てますかね、榊さんに」
「さあなあ。でも、歓迎はされないだろうな」
そうですか?と良太は首を傾げる。
「向こうさんにしてみれば、居ないはずの兄貴がいきなり登場して、親の遺産を半分持っていくかもしれないってことだからな」
それに、と榊は続ける。
「経済的に困窮してもいない人間が赤ん坊を施設に預けたんだ。池占家にとって、よほど都合の悪い子供だったんだろう」
かなり裕福らしい家の主人が、例えば愛人との間に子供を作ったとして、家族に内緒で別宅にでも住まわせて養育したっていいではないか。または多額の手切れ金を出して、愛人親子共に池占家から遠ざける方法もある。そうせずにわざわざ天眼地区から離れた花園地区の施設に預けたということは、池占家に存在してはならない不義の子が──
「私なのかも」
と意見を述べた榊は、微かに寂しそうな目をした。
良太は池占家を否定し、「貴方は何も悪くない」と慰めたかったが、それはあまりにも無邪気で軽率な言動だということは分かる。榊と池占家の人間はまだ面会してもいないのだ。もしかしたら存外、今まで生き別れていた兄弟同士で仲良くなるかもしれない。遺産に執着をせず相続を放棄するなら尚更。
「相続をしないなら、榊さんが責められることはないですよ」
「そうかな」
「そうです。ウチの先祖も遺産で揉めたことあるらしくて……」
少しでも励ましになれば幸いと、良太はこんなことを語った。
「俺と譲の曾祖父さんって兄弟なんですよ。育った家は確か……葦館っていってたかな。けっこう金持ちらしいっすけど。でも二人とも家族とは反りが合わなくて、勝手に家を出たんですって」
幼馴染みの桜庭譲二を、良太はいつも「譲」と呼んでいる。
家出して、兄弟で大工の親方に弟子入りしたってわけです、と良太は言う。桜庭譲二の実家が建設会社を営んでいるのは、その頃からの生業なのだろう。
「ところが葦館の当主が亡くなって、遺産を巡って死人まで出た。曾祖父さんたちにも相続権があるからってんで、遺産が欲しい奴らに命を狙われるはめになったけど……」
返り討ちですよ、と良太は得意気な様子を見せた。
「そのまま勢いで葦館家に乗り込んで、今後いっさいお前らとは関わらない、遺産なんか鐚一文貰わねえぞと念書を叩きつけた。それからやっと平和になったって……ていうかすみません、ぜんぜん関係ない昔話っすね」
ずいぶん場違いなことを誇らかに語ってしまった、と良太はしょげる。遺産を放棄するなら大丈夫、という例をあげたかったのだ。
だが榊は、良太が不安を和らげるために語ったのだと理解し、嬉しく思った。自分の出生にどのような悍ましい曰くがあろうと、彼が味方なら堂々としていられる気がした。
「遺産は相続しないって、はっきりお断りしてくるよ。それにしても君たちが親戚だったとはなあ」
彼らは顔の系統こそ違うが、二人とも男性型のαで幼馴染の大親友。不良の巣窟と呼ばれる花園高校の定時制にだって共に入学したほどだ。周囲は彼らを兄弟みたいに息の合う奴らと評していたが、それもなかなか慧眼だったということだろう。
「俺も婆ちゃんの葬式で親戚の人に聞くまで知りませんでした。だって見た目も全然似てないし」
良太は荒っぽさのある凛々しい男前だが、桜庭はどことなく甘さを含んだアイドルのような顔立ちである。
明日は日曜日だが、良太は通常通りに仕事だし、榊も遺産相続の件で雪城地区にある氷川系列のホテルへ行かなければならない。
今晩は早めに寝ようということになった。
先に風呂をいただいた良太は、躊躇いがちな様子でこう訊いた。
「あの、今日は……しない方向で?」
何かというとセックスの一歩手前までの行為、いわゆる前戯だ。
まだどちらが抱く方で、どちらが抱かれる方か決まっていない。良太はα男性らしい欲求で榊を抱きたいが、榊は過去にΩ扱いされた苦痛が尾を引いており、受け入れる側にかなり抵抗がある。なんなら「良太なら抱ける」というくらいだ。
とはいえ二人とも健康な成人男性であるから、性的な欲求を発散するために何かしらの行為は必要となる。どっちがどっちか決定されてはいないがしかし、恋人同士で同衾するとなると我慢は難しい。
そこで挿入なしの前戯までならOK、という折衷案が用いられ現在に至る。
「良太がしたくないなら、しないけど」
気恥ずかし気に、拗ねたようにして視線を逸らす榊に、
「したいです!」
と良太は即座に答えた。それに対して榊は、お前がそう望むならやぶさかではない、という風を装う。
榊が浴室を使っている間に、良太は準備に取り掛かる。
肌寒くないようにエアコンで室温を調節し、湿度もチェック。掛け布団や毛布をベッドの上から避難させ、腰部にあたる部分に大きめのバスタオルを敷いて整える。男性型αはβに比べて精液の量が多いためか、毎回寝具が濡れてしまう。その度にいちいち敷きパッドを剥がして洗って、とやるのは面倒なので最近はこうしている。
寝室に現れた榊は、腰にタオルを巻いたのみ。
最初のうちこそきちんとパジャマを着た状態でことを始めていたのだが、近頃は着て脱がされてそしてまた着て、というのが億劫になったらしい。確かに手間はかからないし刺激的な格好でいいのだが、脱がせる楽しみの無くなった良太は幾分か残念だ。
榊は諸肌を晒した良太の右肩につけられた四対一の、五つの筋状の痕に目をとめ、
「どれ、見せてみろ」
とそこに軽く触れた。
数週間前に発生した「発情Ω投下事件」の標的にされた良太は、犯人を追い月輪地区にある廃工場へ足を踏み入れた。
そこで待ち構えていた犯人に発情状態のΩをけしかけられ、フェロモンに曝露されて我を失った。
Ωに襲い掛かろうとした良太の肩を掴み、引き留めようとした者がいる。共に行動していた月輪高校の番長、神鏡空明だった。肩の手形はこの時につけられたものだ。
結局それでも良太は理性を取り戻すことが出来なかったため、殴って気絶させられた。その後も起き上がって再びΩに向かったのだが、二度目は榊に食い止めてもらったので不本意な番契約を交わさずに済んだ。
荒技での回避であったが、良太は感謝している。
「だいぶ治ってきたな」
内出血の痕を労るように、榊は良太の右肩を撫でた。
神鏡の手指の力は相当なものだ。強靭で傷の修復の早いαの肉体に、握力だけで数週間も消えない痣を作ったのだから。流石は全国から札付きの不良が集まり、腕を競う月輪高校の頂点に君臨しているだけのことはある。
番長の名は伊達ではないと、榊は心中でこれを称賛した。
一度目の回避が成功したからこそ、今でもまだ良太と恋人同士でいられる。
なんせ自ら「良太にΩの番ができるまで」の条件を課して、交際しているのだから。
2
お気に入りに追加
19
あなたにおすすめの小説

【完結】ぎゅって抱っこして
かずえ
BL
幼児教育学科の短大に通う村瀬一太。訳あって普通の高校に通えなかったため、働いて貯めたお金で二年間だけでもと大学に入学してみたが、学費と生活費を稼ぎつつ学校に通うのは、考えていたよりも厳しい……。
でも、頼れる者は誰もいない。
自分で頑張らなきゃ。
本気なら何でもできるはず。
でも、ある日、金持ちの坊っちゃんと心の中で呼んでいた松島晃に苦手なピアノの課題で助けてもらってから、どうにも自分の心がコントロールできなくなって……。

傷だらけの僕は空をみる
猫谷 一禾
BL
傷を負った少年は日々をただ淡々と暮らしていく。
生を終えるまで、時を過ぎるのを暗い瞳で過ごす。
諦めた雰囲気の少年に声をかける男は軽い雰囲気の騎士団副団長。
身体と心に傷を負った少年が愛を知り、愛に満たされた幸せを掴むまでの物語。
ハッピーエンドです。
若干の胸くそが出てきます。
ちょっと痛い表現出てくるかもです。

実はαだった俺、逃げることにした。
るるらら
BL
俺はアルディウス。とある貴族の生まれだが今は冒険者として悠々自適に暮らす26歳!
実は俺には秘密があって、前世の記憶があるんだ。日本という島国で暮らす一般人(サラリーマン)だったよな。事故で死んでしまったけど、今は転生して自由気ままに生きている。
一人で生きるようになって数十年。過去の人間達とはすっかり縁も切れてこのまま独身を貫いて生きていくんだろうなと思っていた矢先、事件が起きたんだ!
前世持ち特級Sランク冒険者(α)とヤンデレストーカー化した幼馴染(α→Ω)の追いかけっ子ラブ?ストーリー。
!注意!
初のオメガバース作品。
ゆるゆる設定です。運命の番はおとぎ話のようなもので主人公が暮らす時代には存在しないとされています。
バースが突然変異した設定ですので、無理だと思われたらスッとページを閉じましょう。
!ごめんなさい!
幼馴染だった王子様の嘆き3 の前に
復活した俺に不穏な影1 を更新してしまいました!申し訳ありません。新たに更新しましたので確認してみてください!

主人公のライバルポジにいるようなので、主人公のカッコ可愛さを特等席で愛でたいと思います。
小鷹けい
BL
以前、なろうサイトさまに途中まであげて、結局書きかけのまま放置していたものになります(アカウントごと削除済み)タイトルさえもうろ覚え。
そのうち続きを書くぞ、の意気込みついでに数話分投稿させていただきます。
先輩×後輩
攻略キャラ×当て馬キャラ
総受けではありません。
嫌われ→からの溺愛。こちらも面倒くさい拗らせ攻めです。
ある日、目が覚めたら大好きだったBLゲームの当て馬キャラになっていた。死んだ覚えはないが、そのキャラクターとして生きてきた期間の記憶もある。
だけど、ここでひとつ問題が……。『おれ』の推し、『僕』が今まで嫌がらせし続けてきた、このゲームの主人公キャラなんだよね……。
え、イジめなきゃダメなの??死ぬほど嫌なんだけど。絶対嫌でしょ……。
でも、主人公が攻略キャラとBLしてるところはなんとしても見たい!!ひっそりと。なんなら近くで見たい!!
……って、なったライバルポジとして生きることになった『おれ(僕)』が、主人公と仲良くしつつ、攻略キャラを巻き込んでひっそり推し活する……みたいな話です。
本来なら当て馬キャラとして冷たくあしらわれ、手酷くフラれるはずの『ハルカ先輩』から、バグなのかなんなのか徐々に距離を詰めてこられて戸惑いまくる当て馬の話。
こちらは、ゆるゆる不定期更新になります。
生まれ変わりは嫌われ者
青ムギ
BL
無数の矢が俺の体に突き刺さる。
「ケイラ…っ!!」
王子(グレン)の悲痛な声に胸が痛む。口から大量の血が噴きその場に倒れ込む。意識が朦朧とする中、王子に最後の別れを告げる。
「グレン……。愛してる。」
「あぁ。俺も愛してるケイラ。」
壊れ物を大切に包み込むような動作のキス。
━━━━━━━━━━━━━━━
あの時のグレン王子はとても優しく、名前を持たなかった俺にかっこいい名前をつけてくれた。いっぱい話しをしてくれた。一緒に寝たりもした。
なのにー、
運命というのは時に残酷なものだ。
俺は王子を……グレンを愛しているのに、貴方は俺を嫌い他の人を見ている。
一途に慕い続けてきたこの気持ちは諦めきれない。
★表紙のイラストは、Picrew様の[見上げる男子]ぐんま様からお借りしました。ありがとうございます!

エンシェントリリー
斯波良久@出来損ないΩの猫獣人発売中
BL
短期間で新しい古代魔術をいくつも発表しているオメガがいる。名はリリー。本名ではない。顔も第一性も年齢も本名も全て不明。分かっているのはオメガの保護施設に入っていることと、二年前に突然現れたことだけ。このリリーという名さえも今代のリリーが施設を出れば他のオメガに与えられる。そのため、リリーの中でも特に古代魔法を解き明かす天才である今代のリリーを『エンシェントリリー』と特別な名前で呼ぶようになった。


ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる