FIGHT AGAINST FATE !

薄荷雨

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Ride or Die

1・遺産相続

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 梅雨入り前の六月、第一週目の土曜日。午後七時をまわった頃。
 御磨花市おとぎばなし、花園地区の賀萼町にある〔コーポ館花〕の駐車場に、一台の黒いバイクが止まった。
 桧村良太が、榊龍時に会うためにやって来たのだ。
 お泊りセットの詰め込まれたバッグを小脇に抱え、弾むような足取りでアパートの階段を駆け上がる。
 角部屋の二〇三号室のチャイムを鳴らすと、エプロン姿の榊が出迎えてくれる。彼の持つミント水にも似た清涼な気配に歓迎された良太は、仕事の疲れが瞬時に癒えたような心地だった。
 夕食の準備はすでに整っていた。
 良太の席には、よく冷えたビールとグラスも用意されてある。白い麦酒缶には禿頭とくとうの、ひょうきんそうなキャラクターが描かれていた。昔人気を博した漫画と酒造メーカーがコラボした製品の復刻版なのだと、榊が教えてくれたことがある。
 洗面所を借りて手洗いとうがいを済ませた良太が食卓につくなり、榊はこう言う。
「後で話したいことがあるんだ」
 まさかまたこの間みたいに、αと付き合ったのが間違いだった、などと別れを切り出されるのではないかと不安がよぎる。
かねに関することというか」
 でも借金はしてないよ、と榊は小鍋から熱い味噌汁を椀に注ぎ、良太と自分の前に置いた。
 榊の話したい内容が金銭に関することと知って、良太は胸を撫で下ろす。αだのβだの、Ωの発情とかフェロモンとか。そうした遺伝的な問題に比べれば、金銭絡みの方がずっとマシだ。
 いただきます、と同じタイミングで手を合わせ、二人で食事に取り掛かった。

 食事の済んだ後、皿洗いを終えた良太は榊の待つソファに腰を下ろす。
 テレビでは県内ニュースが放送されていた。知人のα男性を監禁し、強制的に投薬と手術を行っていたとされる医師が行方不明になり、指名手配になったと報じられている。
 良太はいつぞや耳にした報道を思い出した。Ωの性フェロモンを無効化するために人体実験をしていた医者がいたとかどうとか。
 行方をくらませた医師の名前は「高凍たかとう顕光あきみつ」、四十三歳、男性型α。旧姓の「蛍淵ほとぶち」を名乗っている可能性もあるという。
 画面には、実直そうな白衣姿の男が映し出されていた。黄緑を含んだ琥珀色の瞳の色が珍しい。
「榊さん、話って?」
「ん、ああ、そうだな。いまいち現実味のない話なんだけど」
 と前置きして榊は話し始めた。
 日中、榊のもとに身元保証人である氷川三千緒から連絡がきたのだという。
「なんでもつい先日、私の親が亡くなったんだって」
 榊の知らぬところで知らぬ人間が亡くなり、遺族が遺言状を開封してみるとそこには──

『長男の榊龍時に遺産の半分を相続させる』

 というようなことが書かれていたらしい、と榊は低めのテンションで言った。
「遺産相続⁉︎」
 良太は頓狂な声をあげた。
「そう。私も驚いたよ、親なんていたのかって」
 榊は非認知の非嫡出子であり、生後間もない時期に児童養護施設に預けられた。そのまま施設で育ち、もちろん生みの親などずっと知らずに生きてきた。それがこの度、よわい二十六になっていきなり親の遺産を相続しろときた。
「亡くなった親ってのは天眼てんげん地区の人で、池占いけうらという家の当主だったらしい」
「いけうら?この辺じゃ聞いたことない苗字っすね」
「まあな。それで、氷川さんの話では……」
 三代遊んで暮らしてまだお釣りがくるほどの財産が残されているとのことだ。しかも、
「私には血の繋がった弟がいるんだってさ」
 兄弟までいると発覚したのだ。
 氷川は手短に榊にそう伝え、近々向こうの弁護士からお前に知らせがいくはずだ、と電話を切った。氷川のいう通り、頭の整理が追いつかないうちに池占家の弁護士から連絡が入り、同じ内容を再び聞くことになった。
「というわけ。な?冗談みたいな話だろ」
 榊は良太に同意を求めた。  
「なんかあれですね、ドラマみたいな」
「事実は小説よりなんとやらだ。そこでだ、良太くん」
 なにか買って欲しいものはあるか、と榊が訊ねる。莫大な遺産を手にできるという美味しい話の後なのに、ちっとも嬉しそうではない。
「色々あるっちゃ、ありますけど」
「遺産を相続すれば多分、全部買ってやれるけど」
「や、待ってください。それ以前に榊さんは相続をしたいんですか?」
 良太の見たところ、榊はその件にまったく乗り気でなはかった。こちらの物欲を充たすのが目的で、欲しくもないものを背負うはめになるのなら賛成はできない。
 そもそも榊が巨額の遺産を手にしたところで、良太のものではないのだ。第一、榊に金品を貢がせるようなことはしたくない。
「信頼関係のない人の遺産ってのもなあ……借金の有無も分からないし、税金のこともある。そこを考えると面倒くさいってのが正直なところだ」
「榊さんがそう思うなら、放棄してもいいんじゃないですか」
「本当に何もいらないのか?」
「俺の欲しい物って、自分で稼げば買える範囲内にあるんで」
 地道に頑張ります、と良太は言う。
 ちなみに今は何が欲しいんだ?と訊かれたので、新しい革ジャンと答えた。でも本心では、榊と二人で暮らすための庭付き一戸建てが欲しい。それだってローンを組めば買えないこともないだろう。
「明日、池占家の人と会うことになってるんだ」
「じゃあ、弟さんとも?」
「おそらく」
「似てますかね、榊さんに」
「さあなあ。でも、歓迎はされないだろうな」
 そうですか?と良太は首を傾げる。
「向こうさんにしてみれば、居ないはずの兄貴がいきなり登場して、親の遺産を半分持っていくかもしれないってことだからな」
 それに、と榊は続ける。
「経済的に困窮してもいない人間が赤ん坊を施設に預けたんだ。池占家にとって、よほど都合の悪い子供だったんだろう」
 かなり裕福らしい家の主人が、例えば愛人との間に子供を作ったとして、家族に内緒で別宅にでも住まわせて養育したっていいではないか。または多額の手切れ金を出して、愛人親子共に池占家から遠ざける方法もある。そうせずにわざわざ天眼地区から離れた花園地区の施設に預けたということは、池占家に存在してはならない不義の子が──
「私なのかも」
 と意見を述べた榊は、微かに寂しそうな目をした。
 良太は池占家を否定し、「貴方は何も悪くない」と慰めたかったが、それはあまりにも無邪気で軽率な言動だということは分かる。榊と池占家の人間はまだ面会してもいないのだ。もしかしたら存外、今まで生き別れていた兄弟同士で仲良くなるかもしれない。遺産に執着をせず相続を放棄するなら尚更。
「相続をしないなら、榊さんが責められることはないですよ」
「そうかな」
「そうです。ウチの先祖も遺産で揉めたことあるらしくて……」
 少しでも励ましになれば幸いと、良太はこんなことを語った。
「俺とジョーの曾祖父さんって兄弟なんですよ。育った家は確か……葦館あしだてっていってたかな。けっこう金持ちらしいっすけど。でも二人とも家族とは反りが合わなくて、勝手に家を出たんですって」
 幼馴染みの桜庭譲二を、良太はいつも「譲」と呼んでいる。
 家出して、兄弟で大工の親方に弟子入りしたってわけです、と良太は言う。桜庭譲二の実家が建設会社を営んでいるのは、その頃からの生業なのだろう。
「ところが葦館の当主が亡くなって、遺産を巡って死人まで出た。曾祖父さんたちにも相続権があるからってんで、遺産が欲しい奴らに命を狙われるはめになったけど……」
 返り討ちですよ、と良太は得意気な様子を見せた。
「そのまま勢いで葦館家に乗り込んで、今後いっさいお前らとは関わらない、遺産なんか鐚一文貰わねえぞと念書を叩きつけた。それからやっと平和になったって……ていうかすみません、ぜんぜん関係ない昔話っすね」
 ずいぶん場違いなことを誇らかに語ってしまった、と良太はしょげる。遺産を放棄するなら大丈夫、という例をあげたかったのだ。
 だが榊は、良太が不安を和らげるために語ったのだと理解し、嬉しく思った。自分の出生にどのようなおぞましい曰くがあろうと、彼が味方なら堂々としていられる気がした。
「遺産は相続しないって、はっきりお断りしてくるよ。それにしても君たちが親戚だったとはなあ」
 彼らは顔の系統こそ違うが、二人とも男性型のαで幼馴染の大親友。不良の巣窟と呼ばれる花園高校の定時制にだって共に入学したほどだ。周囲は彼らを兄弟みたいに息の合う奴らと評していたが、それもなかなか慧眼だったということだろう。
「俺も婆ちゃんの葬式で親戚の人に聞くまで知りませんでした。だって見た目も全然似てないし」
 良太は荒っぽさのある凛々しい男前だが、桜庭はどことなく甘さを含んだアイドルのような顔立ちである。

 明日は日曜日だが、良太は通常通りに仕事だし、榊も遺産相続の件で雪城地区にある氷川系列のホテルへ行かなければならない。
 今晩は早めに寝ようということになった。
 先に風呂をいただいた良太は、躊躇いがちな様子でこう訊いた。
「あの、今日は……しない方向で?」
 何かというとセックスの一歩手前までの行為、いわゆる前戯だ。
 まだどちらが抱く方で、どちらが抱かれる方か決まっていない。良太はα男性らしい欲求で榊を抱きたいが、榊は過去にΩ扱いされた苦痛が尾を引いており、受け入れる側にかなり抵抗がある。なんなら「良太なら抱ける」というくらいだ。
 とはいえ二人とも健康な成人男性であるから、性的な欲求を発散するために何かしらの行為は必要となる。どっちがどっちか決定されてはいないがしかし、恋人同士で同衾するとなると我慢は難しい。
 そこで挿入なしの前戯までならOK、という折衷案が用いられ現在に至る。
「良太がしたくないなら、しないけど」
 気恥ずかし気に、拗ねたようにして視線を逸らす榊に、
「したいです!」
 と良太は即座に答えた。それに対して榊は、お前がそう望むならやぶさかではない、という風を装う。

 榊が浴室を使っている間に、良太は準備に取り掛かる。
 肌寒くないようにエアコンで室温を調節し、湿度もチェック。掛け布団や毛布をベッドの上から避難させ、腰部にあたる部分に大きめのバスタオルを敷いて整える。男性型αはβに比べて精液の量が多いためか、毎回寝具が濡れてしまう。その度にいちいち敷きパッドを剥がして洗って、とやるのは面倒なので最近はこうしている。
 寝室に現れた榊は、腰にタオルを巻いたのみ。
 最初のうちこそきちんとパジャマを着た状態でことを始めていたのだが、近頃は着て脱がされてそしてまた着て、というのが億劫になったらしい。確かに手間はかからないし刺激的な格好でいいのだが、脱がせる楽しみの無くなった良太は幾分か残念だ。
 榊は諸肌を晒した良太の右肩につけられた四対一の、五つの筋状の痕に目をとめ、
「どれ、見せてみろ」
 とそこに軽く触れた。
 数週間前に発生した「発情Ω投下事件」の標的にされた良太は、犯人を追い月輪地区にある廃工場へ足を踏み入れた。
 そこで待ち構えていた犯人に発情状態のΩをけしかけられ、フェロモンに曝露されて我を失った。
 Ωに襲い掛かろうとした良太の肩を掴み、引き留めようとした者がいる。共に行動していた月輪高校の番長、神鏡空明だった。肩の手形はこの時につけられたものだ。
 結局それでも良太は理性を取り戻すことが出来なかったため、殴って気絶させられた。その後も起き上がって再びΩに向かったのだが、二度目は榊に食い止めてもらったので不本意な番契約を交わさずに済んだ。
 荒技での回避であったが、良太は感謝している。
「だいぶ治ってきたな」
 内出血の痕を労るように、榊は良太の右肩を撫でた。
 神鏡の手指の力は相当なものだ。強靭で傷の修復の早いαの肉体に、握力だけで数週間も消えない痣を作ったのだから。流石は全国から札付きの不良ワルが集まり、腕を競う月輪高校の頂点に君臨しているだけのことはある。
 番長の名は伊達ではないと、榊は心中でこれを称賛した。
 一度目の回避が成功したからこそ、今でもまだ良太と恋人同士でいられる。
 なんせ自ら「良太にΩのつがいができるまで」の条件を課して、交際しているのだから。
 


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