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10・当たり
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榊龍時が花園地区内の〔ひいらぎクリニック〕という病院を訪れ、性感染症の検査を終えたのは日曜の午後三時過ぎであった。即日簡易検査ではないので、結果が分かるのは数日後だ。
この日は朝から小雨が降り、冷え冷えとして肌寒い。
榊は病院の自動ドアを出、傘をさす。この頃にはもう桧村自動車からの納車も済んでいた。駐車場に停めてある白いSUVを目指して歩みかけたところで、
「榊さんじゃないっすか!」
と声をかける者がいた。傘を少し傾けてその人物を確かめる。
「桜庭くんか!」
声の主は桧村良太の幼馴染、桜庭譲二だった。
桜庭は雨をものともせずに駐車場の隅に停められたハイエースから降りてきて、お久しぶりです、と挨拶する。作業着であったし、車には〔桜庭建設〕とステッカーが貼ってあるので仕事中らしい。
榊は桜庭が雨に濡れないように傘の中に入れてやる。
「すんません、見えたんでつい」
「今日この辺で仕事?」
「はい、ここの病院の自宅の方、うちで改築してるんすよ」
「お疲れさん。こっちはまあ、検査だ、色々とな。それで……もう知ってると思うけど、いま良太と付き合ってる」
「知ってますよ!アイツ妄想しすぎていよいよ頭ヤバくなったかと思ったらマジだったんで、ちょいびっくりです」
「ああ、私もなあ、自分で自分に驚いてるんだわ」
「一人称、私になったんすね」
「変か」
「全然、むしろ良いっす」
三時休憩が終わったのだろう、ハイエースの運転席から桜庭と同じ作業着の若者が出て、駐車場奥の敷地へ走っていく。それに気付いた桜庭は
「じゃあ俺、仕事なんで。失礼します」
と傘を抜け出る。榊は、頑張れ、と声をかけた。
その榊と桜庭の親しげな様子を、密かに注視していた者がいる。
雨で視界が悪く、雨音で人の気配はかき消されていたため、その男がそこに佇んでいたと気付いたものは無いだろう。
黒い傘の奥、緑混じりの琥珀色の瞳に見詰められながら、榊の白い乗用車が走り去った。
もうすでに大型連休に突入している一般企業も多い四月最後の土曜日。
良太と榊は雪城地区寄りの大型商業施設の飲食店で夕食をとり、食後は同施設内の映画館でレイトショーを見る予定であった。
開演時間までまだ余裕がある。
コーヒーを飲みながら感染症検査の結果を報告しあう。幸い互いに健康そのものであった。
良太など、
「万が一発情したΩに襲われたときのために」
と抗HIV薬までもらってきていたのには、正直いって感心した榊だった。
そろそろ上映時間なので映画館まで移動する。
チケットは事前に榊がネット購入してある。自動券売機で予約してあったチケットを二人分発券し、係員の確認を受け、席につく。榊は良太の背の高さを考慮して、かなり後ろの席を選んでいた。もちろん隣同士だ。
「あとでチケット代、払いますよ」
「いいよ、今夜は私の奢りだ」
「ありがとうございます。じゃあ次は俺が」
「そうだな」
この日二人が鑑賞する作品はミステリージャンルだ。良太も榊も映画ならバトルアクション系を好むが、普段あまり見ない映画に挑戦してみようということになったのだ。
館内の照明がおとされる前に、良太は自分たちの後列には誰も座らないことに気付く。だからといってこの場で榊に何かするつもりはない。ただ、暗がりの中で誰かの視線に晒されることもなく二人だけで居られることを嬉しく思った。
映画を見終り、榊の車に乗り込む頃にはもう夜の十一時近くになっていた。
帰宅途中、榊はコンビニへ寄った。
「なにか買ってやる」
助手席でふてくされている良太を促し、二人でまばゆい蛍光灯に照らされた店内へはいる。飲料と、子供向けの駄菓子とでもいうべき昔懐かしい安価な菓子をいくつか買った。コーラ味のラムネ、カラフルなチョコレート、細長いグミ、クジ付きの風船ガムなどである。
賀萼町、〔コーポ館花〕に帰ってくる。
二人して無言のまま、お馴染みの頑丈な三人掛けソファに間を一つ空けて腰を下ろす。
榊はレジ袋から駄菓子を取り出してローテーブルに並べた。
適当にテレビをつけると、ニュースキャスターが遠くの国の内戦の様子を伝えていた。
映画館を出てから良太はずっとご機嫌ななめだ。榊がコンビニに寄ったのも気分転換のつもりであったが、効果はなかったらしい。
良太の不機嫌の原因が何なのかというと、先ほど見た映画の内容だ。
映画は一見すると裕福な上流階級αと奔放な庶民的Ωのラブストーリーで、過激な濡れ場も随所に織り込まれている。
保守的で退屈なβの妻や成績の悪い娘、旧弊的な価値観の親兄弟の呪縛から奇跡のように次々と解放され、幸せになっていく〔運命の番〕の姿が描かれていた。
だがよく見ると、実はαがトリックを駆使して邪魔者を始末していた伏線がそこかしこに張り巡らされており、最後はαの旧友である一風変わった雑誌記者によって罪が暴かれるという、いわゆる探偵ものである。
良太は榊が選んだその作品の予告編を事前にチェックしていて、αとΩの恋愛要素があることは知っていた。その上で、榊と初めて映画館デートをするのだと心を弾ませていたのだった。
高校時代から良太は、榊に〔番〕はαとΩにとって至上の関係なのだと幾度も説いて聞かせてられていたので、今回の映画もまたそうした啓発の類であろうとたかを括っていた。だが予想以上に不愉快な内容で辟易してしまった。
しかも映画を見終わったあと──
「フィクションだってわかってるけど滅茶苦茶ムカつくっすね!」
「まあでも、奥さんと子供はΩの存在を知らずに死ねたんだから、そこだけはよかったな」
「よくないっす。家族全員ブチ殺して南の島に腹黒Ωを囲ってセックス三昧なんて、バカもいいとこっすよ」
「そうまでして一緒に居たかったんだろ、αとΩだもの」
「俺αだけど全然わかりません」
「いずれαとしてΩの良さが分かるときがくるかもよ」
「αだけどΩなんかいりません」
などという険悪な雰囲気のまま映画館を出てしまったから尚更だ。
そもそも自分達は恋人同士だというのに、この期に及んで「Ω推し」をしてくる榊の心理がよく分からない。
どうせαにとってβは何人殺しても構わない程度の存在なんだろ?と暗に挑発されているような気がしないでもない。あるいは、βはΩほど愛されないことは承知だよ、というαへの期待の放棄か。
はたまた本当に〔運命の番〕こそがαの幸せだと信じて、自分の恋人にΩを推薦しているのだろうか。
αだのΩだの、βだからとか、なんなんだよ!
第二性に関わらず俺に向き合って欲しいのに。
それもこれもみんな奴らが──
「Ωなんてこの世から消えればいいのに」
良太は苛立ちを隠さない。
「そう言うなよ。別にΩになにかされたわけでもないんだろ」
「だってこれから先、むりやり発情期のΩにヤられるかもしれないっすもん。番になったら榊さんと一緒にいられなくなるじゃないっすか」
「ああそうだよ」
榊はきっぱりと潔く言い切った。
「良太くんもこの先、何を犠牲にしてでも番になりたいと思うΩに出会うかもしれないだろ」
「いりません」
「αとして喜ばしいことじゃないか」
「嬉しくないです」
「そのときはさっさと身ィ引かせてもらうよ。映画みたいにぶっ殺されるのは勘弁だからな」
「ひょっとして俺に番ができたら別れるって、殺されるかもしれないからってことですか?ありえませんからそんなこと!」
「さあどうだか。運命のΩのお強請りでβなんか即排除かもな」
榊はそう言って、自分の胸に刃物を突き立てる仕草をして見せた。映画のシーンのひとつだ。
「やめてくださいよ。運命の番だかなんだか知らないけど、人を殺していい理由にはならないでしょ」
「だから結局、彼は逮捕されただろ。αは死刑、Ωは贅沢が忘れられず借金まみれになったんだろうな、あの終わり方だと」
「ざまあですよ」
「いっそのことαもΩも金なんか捨てて駆け落ちでもすれば、ずっと一緒にいられたろうにな。良太くんもああいう、自分の全てをくれてやりたくなるほど魅力的なΩが欲しいと思わない?」
「思いません」
「あの映画の元になった事件が本当にあるらしいよ」
「胸くそ悪いですね」
いつのまにか陰鬱としたニュース番組が終わり、軽快なBGMとともに天気予報に切り替わる。
ゴールデンウィーク中の天気が気になるのか、榊は良太から目を逸らした。
「俺が自分の全部をあげたいと思うのは榊さんだけです」
と良太は宣言するが、榊は少し笑って、
「全部はちょっと多い」
などと冗談とも本気とも判別のつかない返しをしたのだった。
三日は晴れるみたいだな、と榊がつぶやく。五月三日は二人で鳥居地区の開湯祭に出かける予定なのだ。
日付が変わって日曜になった。榊は休みだが、良太は今日も仕事だ。
企業CMの後、テレビは騒々しいバラエティー番組へと移行する。
「そろそろ帰らなくて大丈夫か」
「大丈夫です」
いつもであれば、この時間には榊のプライベートに配慮して素直に帰宅する良太であったが、今夜はなかなか動こうとしない。
二人はしばらく黙したまま、興味なさげに深夜番組を眺める。榊はコンビニで買った小さなラムネを開封し、一粒口にした。会話は途切れたままだ。
「いっぺん聞きたかったんですけど」
沈黙を破ったのは良太だ。
「自分から告っといてこういうのもあれなんですけど、榊さんはどうしてΩと番になるまでっていう条件を付けてまで、俺と付き合ってくれてるんですか?」
「そうだなあ、嫌いじゃないからだろうな」
榊はテレビの方から顔を逸らさず答えたが、特段見たい番組というわけでもなさそうだ。現に視線は、考え事をするように少し斜め上をさまよっている。
「悪くないと思ってるよ、同性でも。なんでだろう、分からないけど」
「それは凄く嬉しいです。でも……」
「ん?」
「もし俺がどっかのΩと番になったら、恋人同士じゃなくなるわけでしょ?俺は榊さんにとってその程度の人間ってことなんですか。だからΩとくっ付けようとしてるの?」
「いくら恋人といったって、βの私では不可能なことが沢山あるからな。その山ほどある不可能の中に、αとΩであれば得られる満足感や幸福が数多く存在してる。なるべく君らαの幸せが実現できる道を示唆したいという、ごく普通の善意だよ」
榊は息を休めずなおも続ける。
「だいたいにしてαやΩとごく一般的なβでは肉体の構造が違う。まずβにはフェロモンが効かないから、君らαとΩほど強く惹かれ合うわけじゃない。例えば、Ωであればαのフェロモンを受ければ特定のホルモンや神経伝達物質が多量に分泌され、快楽を得ることができるものだが、βはそんなことはない。よって、時に、αの執着の強さがストレスになり、精神に障害を生じる場合もある。性行為に対する精力も弱いし、体の方も壊れやすい。感染症にだって罹りやすい。強靭なαの性質に相応しいのはβではなくΩだし、逆もまた然りだ。それに……」
ここでようやく、榊は良太に目線を合わせた。
「個人的なことだが……」
良太の知りたいことはまさにその、榊個人のことだ。第二性に対する一般論や、肉体と精神に関する教科書じみた知識ではない。
「私たちが付き合っていようがいまいが、αならば将来Ωに惹かれる可能性は大いにあり得るんだから、構えておきたいってのが正直なところなんだ。いきなり、番になりましたぁ、なんて報告されたらびっくりするだろう?だから前もってΩをオススメして備えてるってわけ」
と榊は軽く微笑んだ。一体何が愉快でそんなふうに笑うのか、良太にはちっともわからない。
「でも、いずれ別れると知ってても適当に付き合ってるわけじゃない。一緒に使うものを用意したり、健康管理したり、いろいろ良太のことを考えてはいる。昔のことなんて元カノにも話たことはないからな」
私なりに真剣だよ、と言って榊は足を組み、テレビへと視線を戻す。
適当じゃないとか、考えてるとか、真剣だとか、榊は嬉しい言葉を提供してくれるものの、良太はどうにも釈然としない。これまでの質問に対する答えも、なんだか核心部分から随分遠いところへ着地させられたような違和感がある。
良太はあらゆる記憶を遡り、最も榊の心に肉薄しているであろう事柄を探る。そうして辿りついたのが──
「前に麗子さんが言ってたんですけど」
「麗子さん?」
「はい、βの人は……」
『β側からすれば、いつΩに大事な人を取られるんだろうって、ずっと怯えてなきゃいけない。それならいっそお互い深い間柄になる前にさっさと番になってもらって、諦めた方が気が楽でしょ。αとΩはそれで幸せになれるし、βは傷が浅くて済む』
「って言ってました」
「そっか……」
「俺にΩを勧めるのは予防線を張って諦めて、深入りしないようにしてるからなんじゃないですか?それってつまり、Ωに取られるのが怖いくらいに榊さんは俺のこと好いてくれてるって、思っていい……の?」
榊は答えずにテーブルの上の駄菓子の中からクジ付きのガムを一個取り、
「さあ、どうでしょう」
と良太の手に握らせた。
「今夜はもう眠い」
そう言われたら良太はもう帰るしかない。
結局、榊の本心──というものが果たして良太の切望と一致しているか否かは置いといて、確かめることが叶わないまま撤退を余儀なくされた。
榊のアパートを後にした良太は、まっすぐ家に帰る気にはなれなかった。
月輪地区の無機質な工場地帯を抜けて隣県の峠までバイクを走らせ、国道脇のチェーン脱着場に単車を停めた。
皓皓とした月に照らされ、ところの走り屋たちがつけた幾筋ものタイヤ痕が駐車場の中央に浮かび上がっている。
黒いヘルメットを取り去り、革ジャンの内ポケットから榊にもらったガムを掴み出す。
包み紙を開く。
「あっ、すげえ……」
当たり、だ。
この日は朝から小雨が降り、冷え冷えとして肌寒い。
榊は病院の自動ドアを出、傘をさす。この頃にはもう桧村自動車からの納車も済んでいた。駐車場に停めてある白いSUVを目指して歩みかけたところで、
「榊さんじゃないっすか!」
と声をかける者がいた。傘を少し傾けてその人物を確かめる。
「桜庭くんか!」
声の主は桧村良太の幼馴染、桜庭譲二だった。
桜庭は雨をものともせずに駐車場の隅に停められたハイエースから降りてきて、お久しぶりです、と挨拶する。作業着であったし、車には〔桜庭建設〕とステッカーが貼ってあるので仕事中らしい。
榊は桜庭が雨に濡れないように傘の中に入れてやる。
「すんません、見えたんでつい」
「今日この辺で仕事?」
「はい、ここの病院の自宅の方、うちで改築してるんすよ」
「お疲れさん。こっちはまあ、検査だ、色々とな。それで……もう知ってると思うけど、いま良太と付き合ってる」
「知ってますよ!アイツ妄想しすぎていよいよ頭ヤバくなったかと思ったらマジだったんで、ちょいびっくりです」
「ああ、私もなあ、自分で自分に驚いてるんだわ」
「一人称、私になったんすね」
「変か」
「全然、むしろ良いっす」
三時休憩が終わったのだろう、ハイエースの運転席から桜庭と同じ作業着の若者が出て、駐車場奥の敷地へ走っていく。それに気付いた桜庭は
「じゃあ俺、仕事なんで。失礼します」
と傘を抜け出る。榊は、頑張れ、と声をかけた。
その榊と桜庭の親しげな様子を、密かに注視していた者がいる。
雨で視界が悪く、雨音で人の気配はかき消されていたため、その男がそこに佇んでいたと気付いたものは無いだろう。
黒い傘の奥、緑混じりの琥珀色の瞳に見詰められながら、榊の白い乗用車が走り去った。
もうすでに大型連休に突入している一般企業も多い四月最後の土曜日。
良太と榊は雪城地区寄りの大型商業施設の飲食店で夕食をとり、食後は同施設内の映画館でレイトショーを見る予定であった。
開演時間までまだ余裕がある。
コーヒーを飲みながら感染症検査の結果を報告しあう。幸い互いに健康そのものであった。
良太など、
「万が一発情したΩに襲われたときのために」
と抗HIV薬までもらってきていたのには、正直いって感心した榊だった。
そろそろ上映時間なので映画館まで移動する。
チケットは事前に榊がネット購入してある。自動券売機で予約してあったチケットを二人分発券し、係員の確認を受け、席につく。榊は良太の背の高さを考慮して、かなり後ろの席を選んでいた。もちろん隣同士だ。
「あとでチケット代、払いますよ」
「いいよ、今夜は私の奢りだ」
「ありがとうございます。じゃあ次は俺が」
「そうだな」
この日二人が鑑賞する作品はミステリージャンルだ。良太も榊も映画ならバトルアクション系を好むが、普段あまり見ない映画に挑戦してみようということになったのだ。
館内の照明がおとされる前に、良太は自分たちの後列には誰も座らないことに気付く。だからといってこの場で榊に何かするつもりはない。ただ、暗がりの中で誰かの視線に晒されることもなく二人だけで居られることを嬉しく思った。
映画を見終り、榊の車に乗り込む頃にはもう夜の十一時近くになっていた。
帰宅途中、榊はコンビニへ寄った。
「なにか買ってやる」
助手席でふてくされている良太を促し、二人でまばゆい蛍光灯に照らされた店内へはいる。飲料と、子供向けの駄菓子とでもいうべき昔懐かしい安価な菓子をいくつか買った。コーラ味のラムネ、カラフルなチョコレート、細長いグミ、クジ付きの風船ガムなどである。
賀萼町、〔コーポ館花〕に帰ってくる。
二人して無言のまま、お馴染みの頑丈な三人掛けソファに間を一つ空けて腰を下ろす。
榊はレジ袋から駄菓子を取り出してローテーブルに並べた。
適当にテレビをつけると、ニュースキャスターが遠くの国の内戦の様子を伝えていた。
映画館を出てから良太はずっとご機嫌ななめだ。榊がコンビニに寄ったのも気分転換のつもりであったが、効果はなかったらしい。
良太の不機嫌の原因が何なのかというと、先ほど見た映画の内容だ。
映画は一見すると裕福な上流階級αと奔放な庶民的Ωのラブストーリーで、過激な濡れ場も随所に織り込まれている。
保守的で退屈なβの妻や成績の悪い娘、旧弊的な価値観の親兄弟の呪縛から奇跡のように次々と解放され、幸せになっていく〔運命の番〕の姿が描かれていた。
だがよく見ると、実はαがトリックを駆使して邪魔者を始末していた伏線がそこかしこに張り巡らされており、最後はαの旧友である一風変わった雑誌記者によって罪が暴かれるという、いわゆる探偵ものである。
良太は榊が選んだその作品の予告編を事前にチェックしていて、αとΩの恋愛要素があることは知っていた。その上で、榊と初めて映画館デートをするのだと心を弾ませていたのだった。
高校時代から良太は、榊に〔番〕はαとΩにとって至上の関係なのだと幾度も説いて聞かせてられていたので、今回の映画もまたそうした啓発の類であろうとたかを括っていた。だが予想以上に不愉快な内容で辟易してしまった。
しかも映画を見終わったあと──
「フィクションだってわかってるけど滅茶苦茶ムカつくっすね!」
「まあでも、奥さんと子供はΩの存在を知らずに死ねたんだから、そこだけはよかったな」
「よくないっす。家族全員ブチ殺して南の島に腹黒Ωを囲ってセックス三昧なんて、バカもいいとこっすよ」
「そうまでして一緒に居たかったんだろ、αとΩだもの」
「俺αだけど全然わかりません」
「いずれαとしてΩの良さが分かるときがくるかもよ」
「αだけどΩなんかいりません」
などという険悪な雰囲気のまま映画館を出てしまったから尚更だ。
そもそも自分達は恋人同士だというのに、この期に及んで「Ω推し」をしてくる榊の心理がよく分からない。
どうせαにとってβは何人殺しても構わない程度の存在なんだろ?と暗に挑発されているような気がしないでもない。あるいは、βはΩほど愛されないことは承知だよ、というαへの期待の放棄か。
はたまた本当に〔運命の番〕こそがαの幸せだと信じて、自分の恋人にΩを推薦しているのだろうか。
αだのΩだの、βだからとか、なんなんだよ!
第二性に関わらず俺に向き合って欲しいのに。
それもこれもみんな奴らが──
「Ωなんてこの世から消えればいいのに」
良太は苛立ちを隠さない。
「そう言うなよ。別にΩになにかされたわけでもないんだろ」
「だってこれから先、むりやり発情期のΩにヤられるかもしれないっすもん。番になったら榊さんと一緒にいられなくなるじゃないっすか」
「ああそうだよ」
榊はきっぱりと潔く言い切った。
「良太くんもこの先、何を犠牲にしてでも番になりたいと思うΩに出会うかもしれないだろ」
「いりません」
「αとして喜ばしいことじゃないか」
「嬉しくないです」
「そのときはさっさと身ィ引かせてもらうよ。映画みたいにぶっ殺されるのは勘弁だからな」
「ひょっとして俺に番ができたら別れるって、殺されるかもしれないからってことですか?ありえませんからそんなこと!」
「さあどうだか。運命のΩのお強請りでβなんか即排除かもな」
榊はそう言って、自分の胸に刃物を突き立てる仕草をして見せた。映画のシーンのひとつだ。
「やめてくださいよ。運命の番だかなんだか知らないけど、人を殺していい理由にはならないでしょ」
「だから結局、彼は逮捕されただろ。αは死刑、Ωは贅沢が忘れられず借金まみれになったんだろうな、あの終わり方だと」
「ざまあですよ」
「いっそのことαもΩも金なんか捨てて駆け落ちでもすれば、ずっと一緒にいられたろうにな。良太くんもああいう、自分の全てをくれてやりたくなるほど魅力的なΩが欲しいと思わない?」
「思いません」
「あの映画の元になった事件が本当にあるらしいよ」
「胸くそ悪いですね」
いつのまにか陰鬱としたニュース番組が終わり、軽快なBGMとともに天気予報に切り替わる。
ゴールデンウィーク中の天気が気になるのか、榊は良太から目を逸らした。
「俺が自分の全部をあげたいと思うのは榊さんだけです」
と良太は宣言するが、榊は少し笑って、
「全部はちょっと多い」
などと冗談とも本気とも判別のつかない返しをしたのだった。
三日は晴れるみたいだな、と榊がつぶやく。五月三日は二人で鳥居地区の開湯祭に出かける予定なのだ。
日付が変わって日曜になった。榊は休みだが、良太は今日も仕事だ。
企業CMの後、テレビは騒々しいバラエティー番組へと移行する。
「そろそろ帰らなくて大丈夫か」
「大丈夫です」
いつもであれば、この時間には榊のプライベートに配慮して素直に帰宅する良太であったが、今夜はなかなか動こうとしない。
二人はしばらく黙したまま、興味なさげに深夜番組を眺める。榊はコンビニで買った小さなラムネを開封し、一粒口にした。会話は途切れたままだ。
「いっぺん聞きたかったんですけど」
沈黙を破ったのは良太だ。
「自分から告っといてこういうのもあれなんですけど、榊さんはどうしてΩと番になるまでっていう条件を付けてまで、俺と付き合ってくれてるんですか?」
「そうだなあ、嫌いじゃないからだろうな」
榊はテレビの方から顔を逸らさず答えたが、特段見たい番組というわけでもなさそうだ。現に視線は、考え事をするように少し斜め上をさまよっている。
「悪くないと思ってるよ、同性でも。なんでだろう、分からないけど」
「それは凄く嬉しいです。でも……」
「ん?」
「もし俺がどっかのΩと番になったら、恋人同士じゃなくなるわけでしょ?俺は榊さんにとってその程度の人間ってことなんですか。だからΩとくっ付けようとしてるの?」
「いくら恋人といったって、βの私では不可能なことが沢山あるからな。その山ほどある不可能の中に、αとΩであれば得られる満足感や幸福が数多く存在してる。なるべく君らαの幸せが実現できる道を示唆したいという、ごく普通の善意だよ」
榊は息を休めずなおも続ける。
「だいたいにしてαやΩとごく一般的なβでは肉体の構造が違う。まずβにはフェロモンが効かないから、君らαとΩほど強く惹かれ合うわけじゃない。例えば、Ωであればαのフェロモンを受ければ特定のホルモンや神経伝達物質が多量に分泌され、快楽を得ることができるものだが、βはそんなことはない。よって、時に、αの執着の強さがストレスになり、精神に障害を生じる場合もある。性行為に対する精力も弱いし、体の方も壊れやすい。感染症にだって罹りやすい。強靭なαの性質に相応しいのはβではなくΩだし、逆もまた然りだ。それに……」
ここでようやく、榊は良太に目線を合わせた。
「個人的なことだが……」
良太の知りたいことはまさにその、榊個人のことだ。第二性に対する一般論や、肉体と精神に関する教科書じみた知識ではない。
「私たちが付き合っていようがいまいが、αならば将来Ωに惹かれる可能性は大いにあり得るんだから、構えておきたいってのが正直なところなんだ。いきなり、番になりましたぁ、なんて報告されたらびっくりするだろう?だから前もってΩをオススメして備えてるってわけ」
と榊は軽く微笑んだ。一体何が愉快でそんなふうに笑うのか、良太にはちっともわからない。
「でも、いずれ別れると知ってても適当に付き合ってるわけじゃない。一緒に使うものを用意したり、健康管理したり、いろいろ良太のことを考えてはいる。昔のことなんて元カノにも話たことはないからな」
私なりに真剣だよ、と言って榊は足を組み、テレビへと視線を戻す。
適当じゃないとか、考えてるとか、真剣だとか、榊は嬉しい言葉を提供してくれるものの、良太はどうにも釈然としない。これまでの質問に対する答えも、なんだか核心部分から随分遠いところへ着地させられたような違和感がある。
良太はあらゆる記憶を遡り、最も榊の心に肉薄しているであろう事柄を探る。そうして辿りついたのが──
「前に麗子さんが言ってたんですけど」
「麗子さん?」
「はい、βの人は……」
『β側からすれば、いつΩに大事な人を取られるんだろうって、ずっと怯えてなきゃいけない。それならいっそお互い深い間柄になる前にさっさと番になってもらって、諦めた方が気が楽でしょ。αとΩはそれで幸せになれるし、βは傷が浅くて済む』
「って言ってました」
「そっか……」
「俺にΩを勧めるのは予防線を張って諦めて、深入りしないようにしてるからなんじゃないですか?それってつまり、Ωに取られるのが怖いくらいに榊さんは俺のこと好いてくれてるって、思っていい……の?」
榊は答えずにテーブルの上の駄菓子の中からクジ付きのガムを一個取り、
「さあ、どうでしょう」
と良太の手に握らせた。
「今夜はもう眠い」
そう言われたら良太はもう帰るしかない。
結局、榊の本心──というものが果たして良太の切望と一致しているか否かは置いといて、確かめることが叶わないまま撤退を余儀なくされた。
榊のアパートを後にした良太は、まっすぐ家に帰る気にはなれなかった。
月輪地区の無機質な工場地帯を抜けて隣県の峠までバイクを走らせ、国道脇のチェーン脱着場に単車を停めた。
皓皓とした月に照らされ、ところの走り屋たちがつけた幾筋ものタイヤ痕が駐車場の中央に浮かび上がっている。
黒いヘルメットを取り去り、革ジャンの内ポケットから榊にもらったガムを掴み出す。
包み紙を開く。
「あっ、すげえ……」
当たり、だ。
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