FIGHT AGAINST FATE !

薄荷雨

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9・通い妻と酔いどれ

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 桜もすっかり葉桜になり、昼の気温がじわじわと上昇しつつある四月の中旬。
 桧村自動車の定休日である水曜の日中を、良太は榊とのデートに使えそうな飲食店や娯楽場の事前調査に費やした。桜庭から得た情報、ノーオメガの店の場所もいくつか見て回った。
 その日の暮れ方。身支度を整えた良太は、位置情報共有アプリで榊の現在地が賀萼町ががくちょうのアパート〔コーポ館花〕にとどまったのを確認し、十五分ほど待ってから榊に連絡を入れた。今からそっちに行きます、と。
 
 そこそこ新しいアパートの二階、角部屋の二〇三号室のインターホンを押すと、ラフな部屋着姿の榊が開錠して招き入れてくれる。
「お邪魔します。あのこれ、北海道の親戚から送られてきたやつなんすけど」
 と良太はアニメキャラクターのついたビール一パックと、さまざまな菓子類、海産物の燻製、酒の肴が入った袋を渡した。家を出るとき母親が、りょうこれ持っていきなさいよ、と持たせてくれたものだ。
 白いビール缶に描かれたその絵を見るなり榊は、おお!と目を輝かせて喜んだ。知っている作品のものであるらしい。
「いいのこんなに頂いて」
「はい、親父もお袋も自分の取り分は確保してるんで大丈夫っす。榊さんあんま酒飲まないって聞いたんすけど、苦手だったら俺が飲むんで無理しないでください」
「アルコールには結構弱くてな。でも嫌いじゃないから大丈夫」
 喜色をあらわにした彼は、今夜飲むよ、とすっかり上機嫌だ。良太は母が榊を気に入ってこうした土産物などを分け与えてくれることに感謝した。帰宅したらこのことを報告しなくてはならない。
「晩メシまだですよね、俺なにか作りますよ」
 早速、良太が張り切って台所に立つ。
 とにかく自分が彼にとって役立つ男であるということをアピールしたい良太だった。榊もまたそれをわかってある程度は好きにさせている。
「ああ、ありがと。昨日からタレに鶏むね漬けこんであるから焼こうと思ってた。あと玉子そろそろ消費期限だから使っちゃって」
「オッケーっす」
 青地に橙色のストライプの入ったエプロンを借り、冷蔵庫を開ける。タッパーの中には言われた通りの食材が用意されていた。
 エプロン姿でてきぱきと立ち働く良太を見て榊は、通い妻みたいだな、と思ったりもした。
 良太が調理をしているその間に、榊はボウルに氷を詰め込んでその中にビール缶を横に入れた。ローラーを回転させるみたいに缶をくるくる回しながらテレビを眺めつつ冷やしている。ニュース番組を見ているようだ。
 台所からではテレビ画面は見えないが、音声を聞く限りこの御磨花市にある個人医院で何やら事件が起きたと報道されていた。ニュースキャスターが緊迫した声色で事のあらましを伝えている。

 医院長である医師が知人のα男性を……人体実験……Ωの発情期に……フェロモンを遮断する方法を……移植手術……妻が警察に相談して発覚……

 途切れ途切れに物騒な内容が伝わってくる。榊は缶を冷やす手はそのままに、食い入るようにテレビを見ている。
 
 もし手術で、Ωの発情期に反応しなくて済むような身体になれるとしたら──
 そんな方法があるなら俺は手術を受けて、Ωのフェロモンに支配されない身体になりたい。
 榊さんは俺に手術を受けて欲しいと思ってくれるかな?
 
 そんなことを考えつつ良太は手際よく調理する。醤油ベースのタレに漬け込まれた鶏肉を焼き、スープと野菜炒めに玉子を使って簡単に夕食をこしらえた。ラップに包まれたご飯をレンジで温める。
 まだ付き合い始めて一ヶ月も経っていないのに、榊の部屋にはいつの間にか良太が使うことを想定しているであろう食器類が買い揃えられていた。例えばこの熱い白米を盛る茶碗だとか、箸、グラス、ランチョンマット。それに何より、今夜用意されたメインのおかずが二人分だ。
 普通男の一人暮らしとなれば、一組で十分と考えるものなのではないだろうか。ましてや榊はミニマリストというわけでもないが、無駄に物を増やしたりはしない。
 彼の領域の何気ない部分に、当たり前のように自分が存在している事実に良太は感動を覚える。
 二人分の食卓が整った。
 温かいご飯におかずにスープ、それを盛り付けた食器、箸、コップ、ランチョンマット、足りないものは何もない。
「できましたよー」
 と呼びかけると、はぁい、と答えてくれる。すこし間延びした返事を可愛いと思った。
 榊は席に着く前に氷水からビール缶を取り出して冷蔵庫の奥に仕舞う。
「美味しそう、いただきます」
「いただきます」
 それから榊は良太の作った料理を口にして焼き加減がいいとか、出汁が丁度いいとか褒める。だがもともと食べながら会話するのが苦手らしく、ひとしきり感想を述べた後は黙々としたものだ。口にものを入れたままべちゃべちゃ喋ることはないし、食べ方の所作も落ち着いている。彼は児童養護施設で育ったそうだが、そこでの躾が行き届いていたためなのだろうか。それとも生来の品の良さなのか。なんとなく後者のような気がした。
「なに見てるの」
 どこか変?と怪訝そうな表情で問われる。
「つい見惚れてたっつうか、食べ方綺麗だなって」
「そうかな」
 あまりじっと見すぎると、気になるから今度からは一緒に食事はしない、なんて言われかねない。良太は自分の食事に集中した。
 
 夕食が済んだ後。皿洗いは私がやる、と榊が言い出す前にさっさと流し台の前に陣取った良太は洗い物を済ませた。
「全部やってもらって悪いね」
「いいんすよ、俺、家でも結構やってるし」
「ありがとう。助かる」
 榊はカップボードから大きめのタンブラーを取り出し、冷蔵庫からよく冷えたビール缶を持ち出した。北海道土産の入った袋からは酒の肴になりそうな燻製を選ぶ。
 そこではたと気付いた榊は、
「そうだ、一人で飲んで申し訳ないな。良太くん酒以外で何飲む?コーヒーにするか」
 と電気ケトルに湯を沸かし、コーヒーを淹れた。

 ソファの端と端に二人は腰を下ろす。いきなり肩を抱けるような距離で座るのは、少し躊躇われる良太だった。ここで警戒されては元も子もないからだ。
 月輪地区のリサイクルショップで購入した頑丈な三人掛けのソファは、ブラウンの合皮が張られたマット部分が多少擦れてはいるが、気にするほどでもない。黒い鋼鉄製フレームは大の男二人が座っても軋むことなく体重を支えてくれる。
 陶器製の青みがかったタンブラーにビールを注いだ榊は、
「では、いただきます」
 と飲み始める。軍帽とマフラーが特徴的なアニメキャラクターのついた空缶は捨てずに取っておくようだ。
 彼はアルコールには弱いらしいが存外大胆に、半分ほど一気にあおる。無防備に晒された喉仏の上下する様を盗み見ながら良太は控えめにコーヒーを飲む。いつかもっと親密な関係になったらそこに触れて、舌を這わせたり軽く噛んだりしたいな、と欲が溜まって行くのを自覚する。まだ当分、性的なことはできなさそうだけど。
「そういえば榊さん、ゴールデンウィークって学校の先生は休みなんですか」
「ああ、休みはカレンダー通りだよ。公務員だから」
「教師って公務員なんすか?市役所の職員みたいな」
「そう、学校によって違うけど。花園は公立高校だから、そこで働く私は公務員。でも例えば、月輪工業高校は私立だからそこの先生たちは教員免許を持っていても公務員とは違う、ガチ高に先生がいればの話だけど」
「連休中に休みが被る日は……」
 と良太はスマホのカレンダーを確認する。
「五月の三日、七日ですね」
「ん、七日は日曜だな。一日まるっと休み?」
「はい、定休日以外にも休みあるんで」
「そっか。なあ、鳥居の開湯祭かいとうさい、私が車出すから行ってみないか」

 鳥居地区はその名の示すとおり、さまざまな神を祀った多くの神社と朱塗りの鳥居がそこかしこに存在し、ともすれば一種の異界のような奇観をみせる地域である。
 郊外にある鳥寿ちょうじゅ温泉郷では毎年、五月の一日から七日まで開湯祭を催している。
 記録によれば湯治場としての歴史は室町時代中期から始まり、江戸時代は宿場町として栄えた。明治、大正、そして昭和、大戦後の復興を期にインフラ整備されて高度経済成長期、バブル景気を経て地元の観光産業を支えた。さらに令和、鳥居地区を牛耳る烏丸一家の采配により平成、昭和時代の遺物ともいえる老朽化した観光ホテル群を取り壊し宿泊施設の規模を縮小、日本的な美観の再生につとめた。現在では伝統的な風趣あふれる温泉街として多くの観光客が訪れ、隆盛を誇っている。

「夏の祭りでやる出し物もやるって。去年は新型インフルエンザの流行で中止だったから今年は色々大変らしい。この間の飲み会で梟極きょうごくさんが言ってたよ」
「あー、流行りましたねインフルエンザ」
「私は一応ワクチン打ってるけど、人混みが不安だったら別の所にしようか」
「いえ、俺も予防接種してあるんで大丈夫っすよ。祭り行きましょう」
「そうか。それじゃあ観光して、日帰りで温泉も入ろうか。菖蒲湯の準備もしてるってさ」
「お、温泉って、それ混浴ってことになりません!?」
「……なにが?」
「榊さんが俺と男風呂に入るってことっすよね」
「そりゃ男湯に入るだろうよ」
「ヤバいっすそれは、混浴っすね」
「混浴の概念どうなってんだお前」
「しかも大勢の男の前で全裸になるってことじゃないっすか!」
「当たり前だろ」
「ダメです。危ない」
「あのなあ、こんなおっさんの素っ裸に興味ある奴なんざいねえって」
「いやいやいや、二十六歳はおっさんじゃないっすね。ていうか榊さんは気付いてないんすよ、自分の魅力に」
「ああ?」
「まず俺がヤバい。榊さんの裸とか、ちょっと正気じゃいられないっすね。それに他の奴がじろじろ見るかもしれないんで」
「いちいち風呂場で他人の体つきなんか気にしないから、普通。刺青スミ入ってるわけでもないのに。良太くんと付き合ってると公衆浴場の使用が禁止されるのか私は、んん?」
「だって……」
「なに」
「他の男に榊さんの裸を見せたくないんすもん」
「わかったよ。じゃあ今回、温泉は無しな」
 結局、入浴はせず観光のみということで合意となったが、榊はやや不満そうだ。
「でもいつか二人で温泉旅行にでも行かないか?それこそ鳥居地区の旅館でもいいし。部屋風呂が付いてある所だったら文句ないだろ。秋の連休あたりにでも予定組むか」
「いいっすね!」
 榊からの意外な提案にもちろん大賛成の良太だ。
 二人で温泉旅行、旅館、部屋風呂。といったキーワードが瞬時に脳内で発展して、一緒に入浴、火照った身体、湯上がりの浴衣、褥の上で浴衣を乱し淫らに──まで妄想するのに一秒もかからない良太であった。
「エロいこと考えてるだろ」
「あ、はい」
「旅館ではヤらないからな」
「えええマジ?」
「ラブホじゃあるまいし」
「そん……な、なんのための二人の旅行?」
「純粋に温泉旅館を楽しむためだろそんなの」
「それも楽しみっちゃ楽しみですけど、でもやっぱ、どっちが入れるとかそういう役割はひとまず置いといて、とにかくイチャイチャしたい、です」
「イチャイチャなあ」
「俺たちそろそろ手を繋ぐとか、こ、恋人っぽいことしませんか、せめて抱っことか!」
 と言いながら良太は抱き枕でも抱えるような仕草をしてみせた。
 榊は、恋人っぽいことかぁ、と良太の要求を心中で反芻し、彼の両腕の中のうつろに目を止める。
 酔いが回ってきたせいだろう、体温と心拍数が上がり、なにか心地の良いものに身を預けて脱力したい気分になる。良太の広い肩幅、分厚い胸板と逞しい腕の中などまさにうってつけの場所のように思えるが、榊はここでなよなよと縋り付くようなな男ではない。
 性的な接触をする前に一応こういうことは伝えておかなきゃな、と榊は自ら酔いを抑圧するかのように背筋を正した。
「私はこっちに戻ってくる前に実費で健康診断を受けたんだけど、結果はなんともなかった。けれど健診では性感染症の検査まではしないから……」
 それでだな、と榊は少し言いにくそうに続ける。
「まあその、お互い相手の性生活を信用するかしないか、これから先どういう行為をするかは別として、検査はしておくべきなんじゃないかと思うんだ」
「性病の検査ですか?」
「そう。病院を予約して検査を受けるか、もしくはネットで申し込みをして、自分で血液や粘液などを採取して行う検査キットを使う方法もある。検査は健康保険適用外だけどな。でもキスでうつる感染症もあるわけだし。βってαやΩに比べると免疫力が弱いから感染症にかかりやすいんだ。だからその、これから先をするというのであれば良太くんに何かあったら困るから、健康でいて欲しいし、検査をしてちゃんと自分の身の安全が保証されてから、したい、と……」
 いうわけなんだが、どうだ?と榊が聞く。
 良太は彼との親密な接触、いわゆる性愛の交わりに感染症対策まで考えてはいなかったのだが、言われてみればその通りである。愛する人の健康を守るためにやはり検査は必要だ。過去に性行為の経験がないわけでもない。現在自覚症状がなくてもウィルスを保有している、ということもある。
「俺も検査受けます。もしも榊さんに変な病気でも移したら大変なんで」
「そうか」
「なので検査結果がお互いなんともなかったら、その……」
 榊は、ふふ、と微笑んで「考えとく」と言った。
 二人で腰掛けたソファの後ろ、寝室への引き戸は開け放してあって、一緒に寝るために購入したベッドが設えてある。寝具も整っていた。
 あそこで夜を共にする日もそう遠くはない、と良太は期待する。

 酒に弱いと自称するだけあって、榊の目の周りや耳の先はすっかり朱に染まっている。肌全体もほんのりと薄紅色だ。普段の涼しげな目つきも今は、とろん、として艶やかに潤んでいる。身体の力も抜けているせいかどことなく隙があるような、気怠い雰囲気だ。
 そんな榊の姿態を素直に愛おしいと思う良太であった。胸の辺りに締め付けられるような切なさが込み上げる。
 もし獣のように理性を取り払えるならば、と妄想せずにはいられない。ここで彼の肩を抱き寄せ唇を奪って口内を味わいたい。喉に首すじに舌を這わせて、鎖骨を噛み、乳首をねぶり、全身余す所なく舐め回したい。中に挿入はいって何度も突き上げて精液をぶちまけ、内側からなにから雄の証を擦り付けマーキングしたい。部屋に閉じ込めて外へ出さず独占し、世話をして大事に囲っておきたい。一生、永遠にだ。
 こんなロクでもない欲望が発露するたびに、良太は自分の第二性がαであることを自覚して後ろめたくなる。彼を監禁して所有物にするような、そんな残酷なことをしたくないのに、したくなる、という矛盾を現実で限りなく薄めながらやり過ごすしかない。

 榊さんにこの、αの醜い部分を知られるわけにはいかない。
 ここで警戒されるようではいけない。
 自分は榊さんにとって有用で、安全で、誠実で、αとしての欲求など微塵もない普通の人間であると認識してもらわなければならない。
 俺は〔白幻〕で榊さんを襲ったクズ野郎とは違う男だと、自らの行いをもって証明しなければならない。
 そのためならどんな周りくどい手順も踏んでやる。
 
 笑顔の裏で渦巻くαの性分をおくびにも出さず、良太は榊と談笑した。
 それから二人でアクションもののドラマを見たり、ビール缶に描かれたアニメキャラクターの原作漫画を読んだりして過ごした。色気のの字もない健全さである。

 夜十時半をまわったところで良太はいとまを乞うことにした。
 本当はもっと居たいけれど、榊の生活の邪魔になる男だと思われたくはない。そもそも交際条件に「夜十一時時以降は連絡を控えろ」と言われているのだ。おそらく十一時には歯磨きや入浴などの寝支度に取り掛かり、日付が変わる前にベッドに入るのが習慣なのだろう。
「じゃあ俺帰りますけど、榊さん本当に大丈夫ですか、顔真っ赤」
「だいじょうぶ」
「お邪魔しました」
「うん」
「ちゃんと鍵閉めてくださいね」
「うん」
「おやすみなさい」
「おやすみ」
 心なしかふらふらしている榊に念を押して、良太は榊の部屋を出る。
 閉まった玄関ドアが、かちり、と施錠されたのを確かめてからその場を後にした。
 
 榊はリビングに戻り、窓際の遮光カーテンに身を寄せる。良太のバイクのエンジン音に耳を傾け、アパートの駐車場から走り去る音響を見送った。
 スマホを手にメールアプリを開く。今夜はシャワーを浴びてもう眠る旨を文章にして良太に送った。これで返信がなくても安心してくれるだろう。
 
 浴室でシャワーを使っている途中、曇った鏡に湯を浴びせて自分の裸体を見てみた。
 ごく普通の二十代半ばを過ぎた男の体が映っている。
 それなりに運動不足に気を使ってはいるが、筋骨隆々とした見事な筋肉がついているわけでも、もしくは女性と見紛うほどの嫋やかさがあるわけでもない。もちろん男性のものもついている。
 特徴的な魅力などどこにもない。

 あいつは魅力がどうとか言ってたが──
 この身体がこんなつまらないものだって知らないうちは、まあ仕方ないか。
 いざその時になって、想像と実物は違ったからやっぱりヤれませんなんてこともありえる。
 それはそれで構わない。むしろ予想通りだ。
 今はまだ恋愛感情に目が眩んでいるだけで、性的な欲求はΩでなければ満たせないと知るいい機会になるだろう。
 第一、こっちがやられる側だってまだ決まってないし。
 ていうか、こっちが同性相手に嫌悪感なく接触できるかどうか分からないんだよなあ。
 確かに良太はかわいいけど、実際どうなんだろう。
 近いうち試してみるべきか。

 青地にオレンジのストライプの入った厚手のタオルで身体を拭いてからバスルームを出る。
 すぐ側の洗面台の前に立てば、毎朝毎夜、見慣れた自分の顔がある。まだ少し酔いが残っているためか、肌色はやや赤みが強い。
 己の外見の特筆すべき部分など、この年寄りみたいな灰色の体毛ぐらいなものだ。顔立ちだっていわゆる華やかな「イケメン」ではない。
 ふと良太と、彼の幼馴染の桜庭譲二の面差しを思い浮かべる。
 良太が男前な美丈夫なら、桜庭は今流行りの王子様系というやつだ。あの桜庭と行動を共にしていながら、よりによってなぜこっちに来る?いるだろ隣にイケメンが。それとも桜庭を見慣れ過ぎて美的感覚が狂っているのだろうか、と榊は首を傾げざるをえない。
 手のひらに少量ヘアオイルをとって髪に馴染ませ、ドライヤーで乾かす。
 こうすると髪の乾きが早くなるんだよ、と教えてくれたのは大学時代の元カノだ。そういえば彼女もなんだって自分を好いてくれたものかいまいちよく分からなかったが、女心が分からないなりに女性に対して誠実であろうと努力はしていた。それでも別れることにはなったのだけれど。
 彼女の海外留学や自分の就職、そうした理由で一旦離れて各々の人生を歩もう、ということになったのだ。互いの将来を案じた前向きな別れであったと、そう折り合いをつけている。
 では今後、現在の恋人との関係が終わるきっかけになるものがあるとすれば、これから社会的、あるいは金銭的な問題が浮上するとは考えにくい。やはりβの自分ではαの彼を満足させられないという身体的、精神的な要因が大きく出るだろう。

 αは「孕ませる性」と称されるだけあって精力が非常に旺盛だ。普通のβではとても太刀打ちできるものではない。
 Ωもまた腕力こそβに劣るが、性的欲求の強さ、長時間の性行為を続けられるスタミナに関してはβの何倍も優れた人種だ。いわゆる絶倫である。
 そのうえ彼らは感染症にもかかりにくく、傷の治りも早いため無茶なプレイをしても肉体が壊れにくい。
 精神面においてもΩであれば、βには恐怖や苦痛となるような酷い仕打ちを受けても、相手がαならば快感や幸福として享受できるという特性を持つ。αのフェロモン中にはΩにセロトニン、ドーパミン、オキシトシン、エンドルフィン、といった俗に言う幸せホルモンを多量に分泌させる物質が含まれているらしい。βの体内では産生されない、彼ら特有の快楽をもたらすホルモンや神経伝達物質もあるそうだ。
 だがαやΩがいくらフェロモンを放出しても、フェロモン物質の受容体のないβにはまったく効き目がない。彼らのフェロモンなどβにとって無駄なのだ。
 
 αの性的欲求を受け止め切れるのはΩだけだし、その逆もまた然りだ。
 良太も例外ではない。
 βのこの脆い肉体と精神にΩと同等の関係を要求されようものなら、命がいくつあっても足りない。
 弄ばれて、壊されて、死ぬのはごめんだ。
 あいつがΩと番になるまでの慰み者となるなら尚更、たかがそんな関係で重傷を負ってたまるか。
 「悪役」だからとて自分の体と心を無下に扱わせる気は毛頭ない。
 こっちが深入りする前に手放す、これに尽きる。
 我ながら──臆病なことだな。

 榊は、いずれβの心身では物足りないと気づいた良太を〔白幻〕に連れて行こうか、と恋人同伴で婚活に参加するような滑稽な絵面を想像して軽く笑った。
 この人をどうかよろしく、Ωさん。とでも紹介してめでたく番の予約が交わされたなら、そこで「良太がΩと番になるまでは恋人」の条件は達成とし、別れようと思った。
 良太がつがいを得てαとしての幸福を手にしたその後は、ひっそりと彼との思い出に酔いながら酒を嗜む日々も悪くないなと、独りの身の上を想像する榊だった。
 

 〔コーポ館花〕のある賀萼町ががくちょうから桧村自動車のある芳羅町かぐらちょうへ至る交差点。
 横断歩道前で停車中の良太は、紺色の夜空に浮かぶ赤信号を眺めて少し先のことを考えていた。
 
 榊さんは俺がΩとつがいになるまで、っていう条件で付き合ってくれてるけど──
 万が一、発情したΩとヤっちまったとして必ず番になるとは限らないよな?
 Ωってのは首輪でうなじをガードしてるから、その場合噛んでも番になってないんだからセーフ!
 榊さんと別れる必要はない。
 でもジョーが言うにはΩってのは性欲が強いから、誰にでも股開いてるかもしれねえんだよな、ってことは色んな病気にかかってる危険性があるんだ。
 もしそんなΩに病気を移されて、俺を介して榊さんに感染しちまったら──
 それは絶対に避けるべきだ!
 検査だけじゃなくて予防も考えねえとな、検査のとき医者に聞いてみるか。
 
 良太は帰宅して早速、榊からのメールに目を通した。返信不要と書かれてあるのでそれに従う。
 スマホの画面を位置情報共有アプリに切り替え、榊がアパートに留まっていることを確認する。今頃きっと入浴をして身を清めていることだろう。
 良太は今夜初めて見た、榊の酔い姿を思い出す。我ながらよく正気を保てたと感心するほど、彼は艶やかだった。
 しかし結構酔っていたようだが大丈夫だろうか。気分が悪くなっていたりしないか、入浴は普段通り済ませることができたか、髪の毛をちゃんと乾かすことができたか、下着や寝間着は?歯磨きは?トイレは?ベッドまで歩けるか?性処理は必要か?明日の朝起きられるか?気になることは山ほどある。
 もし俺がずっと榊さんのそばにいることが出来たなら全部やってあげるのに、としばし彼への世話を想像する。脳内の榊は過剰な奉仕を喜んで受け入れるが、やはり所詮は妄念の産物で、エロ漫画みたいに都合がいい。
 こんなことしてる場合じゃない、と良太は欲望の虚像を振り払い、現実にやらなくてはならないことに取り掛かった。
 検査を受ける病院の検索だ。
 これまで泌尿器科の世話になどなったこともないので、調べるだけでもなんだか緊張してしまう。雪城ゆきしろ地区にあるメンズクリニックの紹介文に注目した。
 性感染症検査、HIV予防薬処方、ワクチン接種、各種相談……当院は男性型βとαのお客様のみを対象としており……
 よしここなら、とあたりをつける。幸いネットでの予約受付も可能であったので、次の水曜日、空いている時間に予約を入れた。連休前には結果がわかるだろう。

 互いに健康であることが証明されたならいよいよ──!

 と胸を高鳴らせる良太だった。


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