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Find a Way
1・榊龍時が帰ってくる
しおりを挟む「榊くん、こっちに帰ってくるってねえ」
桧村良太は、実家の車屋の事務所で母親からそう伝えられて反射的に立ちすくんだ。
「さっき麗子ちゃんに聞いたわよ」
整備工場のほうへ向かうはずだった足を切り返し、親が事務をしているデスクへ歩み寄る。
「榊さん?」
「そうそう、ケーキ買いに行ったとき、榊くん学校の先生になって花園高校に戻ってくるんだって」
「花園に……」
「偉いわよねえ、あんな不良の溜まり場にいたのに頑張って勉強して大学に行って、おまけに学費も自分で稼いで」
「……榊さん、いつ来るって言ってた?」
肺腑の奥から絞り出すような声で訊ねる良太に、知らないわよそこまでは、とあっけらかんとした調子でいう母は、タヌキケーキを頬張りはじめた。
事務所を後にした良太は、作業着のポケットからスマホを取り出し、黒いバイクを停めてある車庫へと急ぐ。
榊 龍時──その人は、桧村良太の想い人である。良太が十六歳で花園高校の定時制に入学してから今日まで、七年間にわたりずっと心の中を埋め尽くしてやまない男だ。
面白みのないデジタル時計の画面をスライドさせ、暗証番号を打ち込むと、ぱっとその人の姿が映し出される。
稀有な銀髪、白い肌、眼鏡に縁取られた切れ長の一重、すらりと通った鼻すじ、少し開いた唇は奥へ行くほど紅色が濃い。目線は何を捉えたものか、遠くに投げかけられている。
この写真は高校時代に本人に知られないように撮った、いわゆる隠し撮りだ。
榊の画像はこのほかにも沢山ある。それこそ良太を含む高校時代の仲間と一緒に肩を組んで笑っているものや、勇ましい喧嘩中のものまで無数に。良太は、中でもこちら側に視線を合わせていない、自然で穏やかな一瞬を切り取ったその写真をひどく気に入って待ち受けにしていた。
思わず画面の彼に魅入ってしまいそうになる意識を振り払い、良太が電話をしたのは幼馴染の桜庭譲二だ。桜庭も同じ花園高校の出身で、共通の知人が多い。
「もしもし俺だけど」
『あ、どした』
「榊さん、帰ってくるって」
『うっそ!マジで?!』
桜庭の反応からして、この件を知っている者はごく僅からしい。
「うちの母さんが麗子さんから聞いた、花園の教師になるって」
『麗子先輩か、なら信憑性は高えな』
「やっぱそうだよな。俺これから麗子さんに……」
愛しいあの人の情報を手にしたい、と胸がはげしく鼓動する。
すぐさま停めてある自分のバイクで駆け出しそうな勢いの良太をたしなめたのは、冷静な桜庭の言葉だった。
『ちょっと待て、お前まだ勤務時間中だろうが。半端に仕事放り出してオダカシ行っても、麗子さんは取り合ってくれねえぞ』
オダカシとは小田桐洋菓子店の略称で、麗子はそこで働いている。高校を卒業してもなお厳しい先輩であった。
『それに、地元で教師やるってんなら、いずれ会えるってことじゃねえか』
「そう……だな」
『とにかく、仕事終わったらまた電話くれ。そんで葵に集合な』
宵の口、御磨花市の芳羅町にある居酒屋〔葵〕に良太と桜庭の姿があった。
店主一人でやっているこぢんまりとした庶民的な店内。その奥まった座敷にガタイのいい青年二人が押し込まれるようにして座り、顔を突き合わせている。
「ま、なにはともあれ良かったじゃねえか、榊さん地元に戻ってくるかもしれないんだから」
桜庭は胡座を組み直してそう言った。
戻ってくるかも──まだ確定ではない。
きっちりとその日の仕事を終え桜庭に連絡をした後、良太は小田桐洋菓子店へも電話をかけた。
電話を取ったのは小田桐麗子だった。良太が何か聞くまでもなく彼女は、
「榊くんのことでしょ。あとで話すから、葵に来い」
と先手を打ったのである。
奇しくも麗子が指定したのはこの居酒屋で、二人は彼女の合流を待っていた。
玄関の引き戸に取り付けられた鈴が、ちりん、と鳴る。黒のライダースジャケットにジーンズといういでたちの女、麗子の来店である。
「チッス、お疲れ様です」
条件反射で胡座から正座へと姿勢を正し、良太と桜庭は同時に会釈をした。
「あたし、レモンサワーちょうだい」
麗子は座敷席とカウンター席に挟まれた細い通路を歩みながら、店主に注文をつけた。
「俺、そっち移動するんで。麗子さんこっちどうぞ」
良太はすかさず席を移動する。
狭い一角に身長百八十センチ以上ある成人男性二名が肩を並べる形となり、その向かいに麗子は悠然と腰を下ろした。
「いちおう確認するけど、良太くんまだΩの番とか恋人っていないんだよね」
やや深刻な面持ちで麗子が問う。
「はい、俺はそういう、Ωとかいうやつに興味ないっすから」
良太は正座した膝の上の拳を握りしめる。
「榊くんからΩ紹介所の住所もらってたでしょう?」
この世には、大別される〔男女〕の性に加え〔α〕〔Ω〕〔β〕という三つの性質が存在する。それぞれの人口割合は、男と女はほぼ半々だが、αは二割、Ωは一割、βは七割とかなり偏った比率になるのだ。
そして〔番〕とは、αとΩの組み合わせのみに成立する本能のシステムである。
番となったαとΩは、人口の大多数を占めるβがいうところの恋人、夫婦によく似た関係をもち、世間もそのように認識する。
たとえ事前にαとΩそれぞれにβの恋人や配偶者がいた場合でも、本能の導きによって番となった彼らの結び付きは強い。そうした場合βは恋人に、伴侶に、捨てられるのが常であった。
桧村良太と、幼馴染の桜庭譲二は、男性型のαだ。
高校時代に幾度となく榊へ恋心を打ち明けていた良太だったが、その度に、
『αはΩと一緒になるべきだ』
と諭され番の関係について説いて聞かせられたのだった。
番となったαとΩは、その瞬間から心身に変化があらわれる。
女性型Ωであれば膣内、男性型Ωであれば直腸内に挿入されたαの陰茎より排出される分泌液を受け、尚且つ項を噛まれるという両方の刺激を得ることによって、Ωの性フェロモンは変質する。番のα意外を遠ざける忌避フェロモンを分泌するようになり、他のαを誘引できなくなるのだ。
このΩフェロモンの変質を感知したαもまた、番の性フェロモン以外には、我を忘れて猛り狂うほどの興奮を覚えなくなるように体質が変化する。その後は、仮に他のΩの発情現場に遭遇したとしても自我を保ち、性交を回避することができる。
こうして互いに専用専属契約のような関係となり、発情期に怯えず社会生活を送ることが可能となるのだ。
『βはαを幸せにできない』
過去に何度も聞いた榊の声が、台詞が、良太の耳の奥によみがえる。
番を獲得したαはΩに対して、囲いこみ、束縛して支配下に置き、監禁に近い環境を作り上げようとする。実際、経済的に余裕のあるαは警備の厳しい広大な屋敷に、あるいは高層マンションの最上階にΩを閉じ込めて生活をさせているのである。金銭に余裕がなければないで、狭い部屋に座敷牢のごときスペースを作成し、そこにΩを置いておく者もいるという。
こうしたαの驚くべき執着と独占欲を、Ωは嬉々として受け入れるのだ。
Ωという性質は、肉体と精神を丸ごとαに管理してもらい、縋り付くことで安心と充実感を得る。ときに食事や排泄、睡眠といった生理的欲求に至るまで自らの肉体の主導権を受け渡し、思考を放棄し、発情すれば性欲のままに交わる生活こそがΩの幸せなのだという。
そんなΩの幸せこそがまた、αの幸福なのだ。
凡庸なβは彼らのような人生を送ることはできない。すぐに精神と身体が破壊されてしまうだろう。
榊龍時は、βの男性である。
『自分に相応しいΩを、ここで見つけろ』
ノートにすらすらと書き付けられた住所と電話番号。定規を当てて破り切られたその紙切れを、良太は今も大事にしまってある。榊に初めてもらったものだから。
いつの間にか手にしたレモンサワーのグラスを傾けながら、小田桐麗子がため息をつく。
「あ、正座崩していいよ、胡座かきな。でね、榊くんあんたのことやっぱ気にしててさ」
やはり麗子には直接、榊本人から連絡が来たものらしい。
「俺のこと気にしてくれてたんですか」
「良太くんに番はできたかって。まだいないみたいだって答えておいた」
「はい、実際いないっすね」
良太が頷く。
「番がいないってことは、まだ未練があるのかなって心配してた。βの自分に執着して、Ωと出会う機会を失っているのなら自分のせいなのかな、ってさ」
「ぶっちゃけ未練はありまくりです。今も、好きなんで」
「学校の授業なんかじゃヤバくて言えないようなαとΩの関係についても、ちゃんと教えてもらってたんでしょ。そろそろ覚悟決めてもいい頃合いじゃない。あの頃と違って、もう大人なんだから」
「大人だからとか、そういう問題じゃないっつうか……」
「榊くんはべつにあんたを嫌ってるわけじゃないんだよね。後輩に幸せんなってもらいたいのよ」
「好いてもいないΩっつう奴とヤったり、番とか、そういう関係になるのがαの幸せだってんなら、俺は幸せなんて絶対いらないですよ」
良太は頑なな態度を崩さない。うーん、と麗子がうなり、
「正直あたしの考えなんだけど、αは人口の二十パーセントで、Ωは十パーセントじゃない?そうすると番ができるαってほぼ半分ってことになるでしょ。じゃあ残り半分のαは、βと恋人や夫婦になれるってことだよね。なら榊くんとあんたもΩなんか関係なく付き合える可能性はある。でも、β側からすれば、いつΩに大事な人を取られるんだろうって、ずっと怯えてなきゃいけない。それならいっそお互い深い間柄になる前にさっさと番になってもらって、諦めた方が気が楽でしょ。αとΩはそれで幸せになれるし、βは傷が浅くて済む」
と意見を述べた。
αとΩが番うのは、βのためでもあるという。
「それって、榊さんが実は俺のこと好きだけど、Ωに取られんのが嫌だから最初から諦めてる、みたいに聞こえるんですけど」
「だから、あたしの考えでは、って言ったでしょ」
麗子は酒を飲み干した。グラスの中で氷が音を立てる。
置物のように黙っていた良太の幼馴染、桜庭がここにきてようやく口を開いた。
「あの、俺もαだからあんま迂闊なこと言えた立場じゃないんすけど、αのΩに対する本能的な欲求と、βの人に対する恋愛感情って違うような気がするんですよ。なので、こいつが番を手に入れても、きっぱり榊さんを忘れるかどうかは分からないじゃないですか」
さらに続けて言う。
「良太が仮にどっかのΩと番になったとしても、榊さんをまだ好きな気持ちが継続されたとしたら、もうドロ沼じゃないっすか。榊さんが遠くの大学行って、手の届かない距離だったらまだ良かったかもしれないっすけど……本当に帰ってくるんですよね?」
桜庭の質問によって、ようやくこの集まりの本題が提示された。
榊が花園高校の教師として赴任してくるのは本当なのか?
「戻ってくるのは本当。理科の先生だって」
麗子のスマホに榊龍時から着信があったのは、数日前の夕方であったという。
久しぶり、という挨拶から始まって互いの近況報告、今後の予定、昔の出来事、そして良太のことが話題にのぼった。
母校である花園高校に榊龍時が赴任してくるという確かな情報は、本人によって親しい友人知人たちにもたらされていたのだ。
当然ながら、「榊の親しい」の枠内に良太や桜庭は含まれていなかった。良太は榊のメールアドレスさえ教えてもらってはいないのである。
「また昔みたいに榊くんに告るつもりなの」
もうしょうがないか、みたいな態度で麗子が訊く。
はい、と良太は答えた。
いちおう言っとくけどさあ、と麗子が身を乗り出す。
「榊くんに迷惑かけたら、分かってるよな?」
もう一度、はい、と答えるしかない。
これまで彼女に敵対した輩がどうなってきたのか、知らぬ良太ではない。
かつて花園をはじめとする月輪、鳥居、これら三つの地区には、縄張り争いを繰り広げていた九つのレディースチームがあった。そんな荒っぽい女達の統合を成し遂げたチーム〔檸檬姐弩〕の元総長こそが、小田桐麗子なのである。
高校卒業と共に引退した麗子ではあったが、彼女の代で初めて九つのチームがひとつに纏まったとあって、今もなお現役世代と引退した世代に絶大な影響力を持っているらしい。
「あたしも人の恋路を邪魔したいわけじゃない。もし榊くんが絆されてあんたと付き合うってんなら、それはそれでいい。でもΩが現れた途端、そいつの尻を追いかけて恋人を蔑ろにするというのであれば……」
おそらく良太は、榊や仲間たちとの思い出のある慣れ親しんだこの町には、居場所がなくなるだろう。
最悪、この世にも居られなくなるかもしれない。
一人の青年として榊龍時を愛し、恋慕う心。
αとしてΩを求めてしまう本能的な欲求。
この二つの峻険の間で痛い目を見る日が来ることを、桧村良太はまだ知らない。
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