謝漣華は誘惑する。

飴谷きなこ

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瑯炎、蜃気楼にて謎の紳士と邂逅する。

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 きしみも立てずに観音開きの扉の片方が開く。
それを、ちょうど扉側に身体を向けていた蘭秀だけが見ていた。
禿かむろ新造しんぞうたちはその扉を使うことはない。
そこは客だけが使う扉で、禿や新造たちが用を足す時には、別のこぢんまりとした出入り口が用意されているから、そこを使う。
客の出入りだけはそこを使うが、基本的にともに出入りするのはその部屋の主と客、あとは女将くらいなものだ。

 その扉が、前触れもなく開く。
通常の客であれば、階下から小女なりが客を連れて上がってくる。
その先触れすら使わない、使う必要のない客。
蘭秀にはそういった客は一人しかいない。
他の客がいるのに鉢合わせると言うことをしたくないが為に、そういう特定の客は作ることはなかった。


 蘭秀の目が、見開かれていく。
たった今、おとこと口づけを交わそうとして、他のことに気を取られた敵娼あいかたに、当の客が不思議そうに声を掛けた。

「太夫?」

 そこではっとして慌てて取り繕う。

「な、なんでもございません。風で扉が開いたのでしょう。誰か、閉めてきてちょうだい」

 そう言い付けると、禿が慌てて扉を閉めに行く。
しかし、そこで大きく扉が開く。

「蘭秀! 太夫は居るか!」

 耳に飛び込んできたのは、蘭秀が誰よりも聞きたかった声。
扉の向こうには誰よりも見たかった姿。
けれど、なぜ今なのか。
妓女の身の上であることを、今よりも憎んだことはない。

「ろう……えん……さま」

 吐息に紛れた微かな声にすらならない声で、心の奥に丁寧にしまい込んだ存在の名を呼ぶ。
それを聞いて、今まさに口づけようとしていたこの時に。
妓女としてのをしていたに。

 まったくなんと言う日なんだろう。

 思わずほう、と息を吐いた。
そして、目の前のおとこの頬に手を添わせ、ほほ笑む。

「ちょっと、お待ちくださいませね。他のが待ちきれなかったご様子ですから」

 外国の衣装を着こなした紳士の胸に手を当てて、近くにいた新造に命じる。

「本日はこちらのお客様のお相手をしますから、今日はあなたがお話相手をして差し上げて。後で見にいきますから」

 命じられた新造はそれも妓女のならいだからか、さしたる疑問もなく了解の会釈えしゃくをして下がり、扉を開けた無粋な訪問客の相手をしにいく。
しかし、その間に扉を開けたおとこは、ずかずかと室内に入ってきた。

「蘭秀! しばらく連絡もしなくて悪かったな。顔を見に来たんだが……客か?」

 もしかしたらもうじき寝台のある部屋へ移動を開始したかもしれないし、ここで衣服を乱れさせ始めたかもしれない。
そんなわずかな淫靡いんびな雰囲気を漂わせる男女が、初めて視界に入ったようだ。

「ああ、すまん。仕事中だったか。ええと」

 目を泳がせ、顔を赤くして立ちすくむ男が、蘭秀と客を見ていた。

「お見限りでございますなあ、瑯炎さま」

 そこは蜃気楼の看板を背負う太夫である。
蘭秀は一瞬、動揺したものの立ち直り、瑯炎に声を掛ける。
だが、その視線にも声にも、瑯炎を慕う気持ちがにじむのを隠せはしなかった。

「今はほかのお客様のお相手をしておりますから、別室で新造にお相手させましょう。どうぞそちらへ」

おとこから離れて立ち上がろうとした時に、蘭秀の腰におとこがしっかりと腕を回し、抱き込む。

「お客さま?」
「お客さま、などとは無粋な。今日の貴女は私のもののはずだ」

 片眼鏡モノクルに行燈の灯りを反射させて、蘭秀の頬に口づけをする。

「そこの貴女、さっさとそちらのお客を別室に連れて行ってください。今日の太夫の恋人は私だ」

 決して離しはしないとばかりに、蘭秀の身体を抱きしめ、瑯炎を迎えに出た新造に命じ、こめかみに口づけた。

「太夫。今日は私に愛させてくださいね。貴女をこの腕に抱く日が待ち遠しかった。」

 こめかみに。
頬に。
首筋に。
そして、徐々に胸もとに、口づけの雨を降らせるようにして蘭秀を翻弄し始める。

「お客さま」

 客の腕の中から胸を押すようにするが、女の細腕では全く効果がない。

「私はエグバード。どうか、バードと読んでください。可愛いひと
「エグバード? まさか、エグバード・リード卿か? 琶国大使の?」

 思わず、と言った風情で呟いた瑯炎の声が聞こえたのか、エグバードと名乗った客は目を光らせて瑯炎を睨みつけた。

「私の名をご存じなのですか」
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