謝漣華は誘惑する。

飴谷きなこ

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男はいたずらをする。

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 矢を放つ際に音がしないように特殊な加工をされた短弓を折りたたんで、袖の中にしまい込む。
後宮の中の通りを見下ろす高楼の一つに、男は潜んでいる。
昼日中だと言うのに警備の衛士ひとり居ない。

 いや、いたことはいたのだが、その衛士は男とは少し離れた場所でこと切れていた。
男はその死体にちらりと目をやると、衛士から奪った制服を着こんで何食わぬ顔で通りに出る。
既に門を通る為の通行手形は手に入れていたので、特に気負うこともない。

 血の臭いがするだろうか?

 すん、と死体から奪った制服に鼻を近づけてみるが、鉄さびの臭いはごくごく薄い。
これならば、門衛も気づきはしないだろう。
そう思い、すたすたと高楼の階段をあっと言う間に降りると周囲の気配を探り、すっと弁柄色の塀に囲まれた通りに出る。

 古びた弁柄色はかつては鮮やかな色味をしていたに違いない。
上に載せた瑠璃瓦と美しい色の対比で内裏を飾っていたのだろう。
弁柄色は古くから、魔を祓う色だという。
内裏には皇帝を始めとした皇族や妃嬪たちが住まうから、少しでもその身の安全と健康を祈願して塗りこめた色なのだろう。
非情に高価なのだが、如何せん退色が早いのが難点だ。
長持ちするのは丹なのだが、あちらは内裏の中では使われていない。
理由は不明ではあるが、男にはそういった事情は全く無関係であった。

 男は年のころは三十に差し掛かるかどうかというころ合いだろうか。
顔を多少付け髭や僅かに化粧をして変えているが、あの大使館からの使いの少年が手紙を届けた穀物商であることは間違いがない。
いったいどうやってこの内裏内に入り込んだのか。
目的は先ほど男がしまい込んだ特殊な構造をした短弓を見れば、一つ向こうの通りで哀れにもこと切れた宦官の命を刈り取った武器であることには間違いはないだろう。
男は悪びれることもなく、堂々と後宮を抜け、端門から外へ出た。
警備をしていた衛士にも見とがめられることもない。
そのまましばらく官街を歩いていたが、すっと路地に入るとしばらくそのまま進む。
そして一軒の家に吸い込まれていった。

 程なくして、別の建物から男が出てくる。
髭も取り去り、化粧も落として更に先ほどとは違う衣装を着て髪型すら変えている。
先ほど通った門を守る衛士たちですら、同一人物であるとはそうそう見抜けまい。

 男はそのくらいに先ほど化けていた衛士とは姿を変えていた。
歩き方、顔つき、肌の色。
果ては体臭ですら自在に操るのだ。
男は玄人プロだ。
表向きは穀物を小商いする商売人だが、それだけで食っていくわけでもない。
裏では女衒や希少な動物、薬物、果ては殺しまで扱う。
裏稼業で食っている割に、その身に裏社会特有のどろりとしたような、どこか薄闇が付きまとったようなねっとりとしたような独特の空気はまとっていない。

 人ひとり殺してきたわりに、男は追っ手を警戒することもなく街中をするすると抜け、あちらこちらと建物に入っては別の建物から出てくる。
それを繰り返してたどり着いたのは、男がねぐらとしている穀物商の店である。
今日は外出するから、と通いの手代と小僧に店を任せて先日請け負ったをこなすべく、大内裏へと潜入したのだ。
正確には、仕事のための下準備だが。

 本来であれば、宮中の中に忍び込み、必要なものを仕込んだり中にいる仲間とつなぎを取ったりして段取りを進めていくのだが、今日は珍しく興が乗った。

 たまたま潜入した高楼にサボっていたのか下っ端と思われる武官がひとり、そこでうたた寝をしていたのだ。
何の良心の呵責を得ないまま、武官の耳の穴に細く長い釘のような刃物で迷いなく突き刺すと、武官はそのまま痙攣して弛緩する。
武官のと運動機能を奪ったことで、筋肉が緩んで排せつ物が垂れ流される前に素早く制服を奪って着こむ。
幸いにして、奪った制服は武官から流れ出た少量の血液にも排せつ物にも汚されていない。
転がされた武官は下着姿ではあるが、もうその意識もなくそのままこと切れてしまうだろう。
既に男の興味は武官から、たまたま下を通った輿に乗った貴人の一行へと移った。

 輿に乗った男は、まさしく貴人であろう。
何人ものおつきを従え、輿を担がせて宮中をゆるやかに移動していく。
男はその様子を見るうちに、先日の依頼にあった内容を思い出していた。

「延唐国の皇太子を始末せよ」

 男は延唐で生まれ育ったが、国に対して思い入れはない。
特に国に何かをしてもらったわけでもなく、何かを返してやろうと思うわけでもない。
表向きの仕事である穀物の商いで、少々儲けが上がる程度。
あれなら妻をもらって子供を数人儲けて、あとは贅沢をしないなら何とか生きていけるだろうと言うくらいだ。

 特に何かをしてもらったわけでもないし、特に恨みはない。
この時代であればむしろ奪われるものの比率が高いのはあるが、それも仕方のないこと。
それを埋める為に男は裏稼業に通じることになったのだ。

 それは本当にたまたま、であった。
ふと、興が乗ったのか男はじっと輿に乗った貴人に目を凝らす。
正確には、その服に縫い取られた龍の爪。
距離は高楼から相当にあるはずだが、男の目は確かにその四本の爪を捉えていた。
そして、輿を担ぐ人数。
皇帝と皇太后であれば、最もその人数を多く費やされるが、皇后以下の妃嬪、もしくは皇太子となるとその数は地位と身分に合わせて減らされる。
現在、後宮を自由に行き来できる男子皇族は、皇帝を除けばほぼたった一人である。
一人は実母である旺昭儀おうしょうぎとともに蟄居閉門の身。
しかも皇子本人はまだ赤子である。

 あれが、皇太子か。

 そう思った瞬間に、男はその行列へ向けて矢を放っていた。
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