謝漣華は誘惑する。

飴谷きなこ

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瑯炎、現る。

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 瑯炎はさらに一歩、歩みを進めた。

これ・・に手を出したのか、と聞いている」

 瑯炎の周りで雪が舞っているように見えるのは気のせいだろうか。
辺りには紅葉した葉が木々を染め上げ、まだそこまで葉は落ちていない。
椿などは深くしっとりとした色の緑をつるりとした葉の上に落とし込んだような色味で、赤や黄色に変化した木々にそこだけが変わらぬ緑を差し出している。

 瑯炎の発する気、と言うべきだろうか。
そう言ったもので辺りの空気の温度が奪われているような気がしはするが、これはいったいどうしたことか。

 目の前でつい今しがた漣華の身体に手を触れようとしていた汚臭の肉塊たる男は戦慄した。
季節はまだ秋で、冬にはまだ間があるというのに自らの身体のあちこちに氷片が付き始めている。
目の前の男はそう鍛え上げられた肉体でもなく、そこまで背も高くはない。
せいぜい中肉中背といったところか。
普段であれば、男も気にせず捨て置く程度のもの。
顔のつくりとて男からしてみれば、そこまで目を惹くものではない。

 だが、今は別だ。
男の目の前に立つ瑯炎の碧の瞳は金色に底光りして見える。
そしてその光が強くなるにつれ、自分の身体が凍り付いていくのだ。
その異常は明らかに瑯炎が目の前に現れてから起こり始めたもので、男は怯えた。
故に、身体に付いた氷片をそのままにその場から逃走しようとする。

 瑯炎はそれを見て、懐から何かを取り出して男に向かってぽん、と投げた。
小さな歯車や金属を組み合わせて作られたその塊は、男の身体に当たるとキチキチと小さな音を立てながらその体積が増えるかのように巻きつけられた細い糸を伸ばしていく。
金属を鍛え伸ばして作られたような光沢を持つそれは、瞬時に塊からほどけて・・・・男に巻き付いた。

「どちらにしても見逃すわけがないがな」

 細い金属の光沢を持つ糸は、その主の意思をそのまま伝えるかのように、その身を肥え太らせた男の贅肉に食い込んでいく。
それを横目に、瑯炎は三人のもとに歩みを進めた。
そして金属糸にからめとられ、転倒した男を蹴り飛ばして異臭が届かないように距離を取らせる。

「大丈夫か」

 瑯炎は三人の許にしゃがみこんで声を掛けるが、すでに崩れ折れて床に這いつくばりそうになっていた三人にはまだ答えられる力がない。

「奥庭を散策していて、話し声がすると思ってきてみればこれか。三人とも無事でよかった」

 優しく漣華たちを見降ろす碧の瞳には先ほどまであったように思えた底光りする金の色は見えない。
あれは、先ほどの異常が起こした幻だったのだろうか。
庭土の上に転がされてうごうごとうごめき、ぎゃあぎゃあと騒ぎ立てる男の身に貼りついていたはずの氷片も消えている。

 きっと幻だったのだ、と漣華は自らの中で結論付けた。
新鮮な空気を十分に吸えなかったせいで、幻を見たのだろう。
漣華たちは息を調え、瑯炎の手を借りて立ち上がった。

「ありがとうございます、師匠。おかげで助かりました」

 漣華の言葉に続いて、義兄たちも次々と礼を口にするが、何かほかに言いたそうな顔をしているのを瑯炎は目で制する。


 まだ、その時期ではない。もう少し時間が欲しい。

 それは明らかに瑯炎の怯懦きょうだであったが、それも仕方のない事だ。
瑯炎は、自らの事を漣華に話してはいない。
彼らの関係は、師匠で、主人で、上司だった。
ようやく上司と言う枠が取れたが、基本的には師匠で、未だに瑯炎は漣華の主人でもあるのだ。

 それよりも今はあの慮外者りょがいものの始末が先だ。
後から追いかけてきたのであろう下人たちに、衛士を呼ぶように頼んでおく。
この謝家の祝い事に招かれたにしては、どうも不自然すぎるほどに時期が合い過ぎる・・・・・・・・・・・・・・・・気がするのだ。
それに、先ほど漣華に絡んできていた、同じ人とも思えぬほどに肥え太った女にしても同様だ。
調べねばなるまい。
幸いにして、既に祝われる当人や当主夫妻と言った面々には顔を合わせて挨拶も祝いの言葉なども交わし、贈り物についてもすでに渡してある。
宴席まで居られないのは心残りではあるが、と漣華のまげに挿した鴛鴦おしどりと柘榴石で作られたかんざしに目をやる。

 つくづく先んじられたのはふがいない。

 そう自らを自嘲しつつ、懐から錦に包まれた細長い包みを取り出して、漣華の目の前でそれをほどいてみせた。
そこから現れたのは、細かい透かし細工の鳳凰のつがい・・・と紅玉でできた簪。
これは瑯炎自らが執務・・の合間を縫って手づから作り上げたものだ。
漣華の髪に挿された簪よりも数段見事な出来だ、と自画自賛する。
実際、技官として腕を磨いてきた自負もある。
基本的には設計図を引いてからあとは職人たちに任せてはいたが、職人たちが多忙な折には自らが作ることもちょくちょくあったのだ。

 それにはこういった細かい仕事もよくあった。
技官であった自らの仕事に思いを馳せつつ、錦から簪を取り上げると、秋晴れの陽光が鳳凰と紅玉をきらめかせる。
それを、漣華の髷にすっと挿しこんだ。

「漣華。これをお前にやろう」

「……師匠?」

 漣華は驚きを隠せない。
簪を贈るのは、求婚の証。
もしくは婚約のしるし。
礼記に続き、瑯炎までが、と漣華は困惑する。
きちんと言葉にして求愛してきた礼記と違い、瑯炎からはそういった甘やかなものを一切受けたことはない。
それでいて、簪を贈られるのはどうにも合点がいかない。
これはいったいどういうことなのか。

 困惑するばかりの漣華に、瑯炎はにやりと笑った。

「良く似合う」

 漣華の頬をひと撫でして、そっとその額に口づける。
簪を挿した漣華はより一層艶やかに見える。
漣華の薄い金茶の髪に黄金の色が映えて、更に紅玉が鮮やかに色を添える。
柘榴石の少し沈んだ暗めな色に対して、紅玉は血のような紅を選んだ。
すこし桃色よりの綺麗な紅だ。
それが漣華の髪に挿した簪の中で陽光を反射してきらめいて、黄金づくりの透かし彫りの中でより美しい。
漣華の青狼湖を映したような鮮やかで澄んだ瞳には血のような紅が良く似合う。
 瑯炎はひとり、満足げに笑みを浮かべた。
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