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拾参、瑯炎は嗚咽する。
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その日、瑯炎は普段は工房の傍にある執務室に詰めていたが、緊急にという事で内裏の奥にある東宮にある人物から呼び出されていた。
その人物は、今瑯炎の目の前で死の床に就いている。
本来なら、まだ若く今が男盛りだと言うのに、肌は土気色になり水分を失い枯れ木の如く細い。
その髪は前に会った時には黒々としていたのに、今ではすべてが真っ白になって枕の上に散っている。
眼窩は落ち窪み、目ばかりがぎょろぎょろとしてはいるが、唇はかさついている。
寝衣は綺麗なものを着せられているし、病室と化した寝室は清潔に保たれているが、どこか病室特有の雰囲気と臭いを漂わせている。
そのなんとも言えないねっとりとしたような甘いような、それでいてすえたような臭いは、目の前に仰臥する人物から漂ってきている。
おそらくだが、死臭なのだろう。
瑯炎は唇を噛み締める。
瑯炎が技官として内裏の外側、外宮で働く間にこの寝台に横たわる人物はそのうちに登極し、帝冠を頂く予定だったのだ。
これは余りにも予定外だ。
瑯炎は天を呪いたくなった。
細く枯れ木のようになった指が、瑯炎に差し出される。
瑯炎はその手を折れないように慎重に自らの手に載せた。
上から、もう一方の手を優しく被せる。
「瑯炎。お前に、頼みがある」
ひゅうひゅう、と喘鳴が聞こえる。
苦しいのだろう、短い言葉の間に頻繁に息継ぎをしている。
これでは、あの父よりも老いて見えるではないか。
彼はまだ、30になったばかりだったはずだ。
それが、今では老いさらばえた老爺にしか見えない。
「お前が、次の東宮になれ」
瑯炎は目を見開いた。
「なりませぬ」
「瑯炎」
「なりませぬ、東宮。それだけは」
瑯炎は寝台の上の住人の手をそっと丁寧に敷布の上に戻し、その場に平伏する。
「そのような情けなき事を仰せあそばしますな、東宮。当今の後継としてお定めになられましたのは、まさしく当今の御命に拠りますもの。それを違えてはなりませぬ」
「瑯炎。我が、弟よ」
再び瑯炎の目の前に手が差し伸べられる。
ふるふると震えが止まらず、皺だらけの、男の手。
張りは既に失われ、水分も足らないのだろう、かさかさとして手触りが悪い。
噂に聞く木乃伊とはこのようなものであろうか。
その手を、また手に載せるとぎゅっと掴まれた。
思った以上に力が強く、瑯炎は驚く。
まだ、逝かないでほしい。
心底そう思う。
「東宮」
「兄だ。兄と呼べ、弟よ」
「兄上」
「そうだ。ようやく、呼んでくれたな、瑯炎」
その角度によっては黄金に見える瑯炎と同じ碧の瞳は、涙をこぼした。
「弟よ、瑯炎よ。東宮である私が命じる。次の東宮となり、皇帝に仕えよ。その後は延唐の皇帝となれ」
「兄上!」
瑯炎は声を上げる。
これはまずい。
もし、皇帝の耳に入れば、簒奪を疑われ反逆罪に問われかねないほどのものだ。
目の前の人物が戴く東宮と言う位は、次の皇帝として定められた人物が戴くもの。
これは皇帝の裁可がなければ、今横たわる人物以外の人間が占めていいものではない。
ましてや、それを誰かに譲るなどあってはならないのだ。
だが、寝台に横たわる瑯炎の兄は飄々としている。
「なりませぬ、兄上。東宮の座は当今がお決めあそばしましたもの」
「すでに根回しはしてある。当今もご承知のことだ」
瑯炎は再び、手を握られる。
肉を失い、ほとんど骨と皮だけになった指は瑯炎の痛点を突いて痛みを伝えてくる。
「聴け、瑯炎。私は長くはない」
そこで一旦口を閉じて呼吸を整える。
瑯炎はすっかり肉が落ちて軽くなった身体を支えて、吸い挿しで水を飲ませてやった。
「長くないのだ、瑯炎。私が儚くなった後は、お前が東宮となるのだ。決してあの女の、子に渡すわけには、いかぬ」
東宮、と呼ばれていた人物は苦しい息の下からぎらりと落ち窪んだ眼を光らせる。
「見よ、瑯炎。私のこの姿。すべてはあの女狐親子の、奸計に拠るものだ。情けないと思わないか」
瑯炎は眼を伏せる。
思い出すのはほんの一年前。
まだまだその記憶は新しく、その中で今は病を得て老いた兄は力強く快活に笑っていた。
筋肉も隆々として、蒲柳の質でもなく政務の合間に護衛や近衛たちと剣を交えて身体を鍛え、時には馬に乗って野山を駆けるのを楽しみにしていた。
時には碁を打ち、酒を飲んで語らい時には女に対する悩みを愚痴る。
兄の妻は優しく細く儚げで、これでよく兄の嫁になったものだ、まるで美女と野獣ではないかと良くからかったものだ。
だが、その嫂も先年、出産の肥立ちが悪く儚くなってしまった。
産まれた子も早産だったせいか、産声を上げることも乳を含むこともなく、嫂と時を同じくして天へ召されてしまった。
一気に妻と子を失った兄は荒れた。
酒を好まなかったが飲むようになり、飲みながら嗚咽する。
暴れたりすることはなかったが、見ていて痛々しく、父である皇帝自らしばらく政務から離れて静養するよう申し付けたほどだ。
その頃からだ、兄が体調を崩したのは。
酒を飲むようになって、まず熱を出した。
元来丈夫な質で風邪ひとつ引いたことのなかった兄が寝付いたのは、子供の時以来だ。
瑯炎は見舞いとして兄を訪い、早く熱が下がるように祈った。
優しかった妻を亡くして心を痛めた為だろう、と誰もがそう思っていた。
いずれは本復して政務にも復帰するだろう、と楽観視していた。
特におかしなところは見受けられず、兄は侍医の処方する薬を飲んで養生していた。
それが一変したのは、父帝の妻の一人である、梅貴人が見舞いと称して送ってきた菓子を口にしてからだ。
常ならば警戒して贈られてきた菓子など、決して口にすることはない。
だが、父帝からの寵愛を盾にその菓子を口にすることを強要されたのだと言う。
梅貴人は父に仕える後宮に納められた妻の一人で、通常ならば次期皇帝位を頂く東宮に対してその様な高圧的な態度に出ることは決して許される身分ではない。
この梅貴人の属する派閥としては、旺妃派に属する。
旺妃は官僚の1人である夏と言う者の娘の三女だ。
先年、選定を受けて後宮入りし皇帝のお手が付いた。
それだけでも名誉だが、たった一度のお渡りで見事にその腹に子を授かったのだ。
皇帝はそれを殊の外喜び、成人を迎えたばかりの若く美しい妻と生まれたばかりの我が子を可愛がっているが、ここで旺妃とその父である夏に欲が出た。
東宮として父帝の政務を手伝い、自らも国政に意欲的に取り組む東宮の排除に乗り出した、と瑯炎は見ている。
瑯炎は先だっての故東宮妃であった蔡妃の死に、この旺妃と夏が関わっているのではないかと内心疑っている。
蔡妃の妊娠は、順調であったと聞く。
悪阻も軽く、無事安定期を迎えて出産まであとひと月となった頃の事であった。
見舞いと称して訪ねてきた旺妃やその取り巻き達とお茶を愉しんだことがあった。
その時に持ち込まれた菓子を口にしたらしい。
その夜から、蔡妃は夢にうなされるようになった。
そして見る間にげっそりとやつれていったのだ。
あとひと月で我が子と対面が叶うとそれは嬉しそうにふっくらと膨れた腹を撫で、夫である東宮と顔を見合わせつつ幸せそうに微笑っていたのだ。
それが見る間にどんどん痩せていき、東宮が食べるように勧めても食べ物も口にせず、そのうち水すらも拒否するようになった。
あとは坂を転がるように体調を崩して、出産を迎えた頃には到底その大業に耐えられるものではなかったらしい。
陣痛が始まって産屋に蔡妃が籠った頃、東宮はもしかすると蔡妃が出産に耐えられないかもしれないから、覚悟しておくようにと言われたと言う。
東宮はそれを奏上した侍医の胸倉をつかんで妻子の命を助けてくれるよう懇願したと言うが、結局蔡妃は出産を終えた後意識は戻らず儚くなった。
産まれた子は産声すら上げることなく冷たくなっていったという。
誕生を待ち望んだ子とそれを共に楽しみにしていた妻の死で、東宮は荒れた。
東宮が得た病は隙を突かれたとも言える。
だが、東宮や亡くなった蔡妃、誕生して産声を上げることなく亡くなった子の身体を侍医が調べても不審な点は一切出てこなかった。
それが、最近花街で出回っているという違法な薬物はどうも東宮一家を襲った病とその摂取した者たちとの症状と非常に良く似ているのだと言う。
瑯炎は今の身分が多少、その位は高くとも職分を超えて調べて回るのはためらわれる。
兄が東宮位に封じられた時点で、帝位への野心はないという事を示す為、敢えてそれまで住んでいた内裏から外へと住いを移し、一介の技官としての職を奉じるようになった。
生来の器用さから割ととんとん拍子に出世はしたが、それ以上のものは望んでもいない。
それを兄も知っていたはずだ。
いつも東宮に遊びに行くたびに内裏へ戻るよう言われていたのをやんわり断っていた。
その時に、いつも苦い笑いを浮かべて己の我儘を許してくれていたのだ。
その兄が、今は変わり果てた姿で死の床にある。
瑯炎は知らず涙が頬を伝った。
「兄上。どうか」
「瑯炎」
熱い呼気と喘鳴の下から、兄は瑯炎に願うような声を出した。
「この国を、父帝を頼む。頼む」
そう言うと、瑯炎が了承の意を返すのも見ずにその目の焦点は曖昧になり、呼吸は浅く細くなり。
少し痙攣をしたかと思うとやがて、その瞳から光を失った。
身体はまだ温かみを失わず、その手は柔らかく瑯炎の手に載せられたままだ。
「兄上?」
そっと細くやつれ切ったその身体を揺さぶるが、何の反応もない。
声をかけ続ける瑯炎の声に不審を抱いた侍従が様子を見に来て、侍医がそれを止めるまで続いた。
「ご臨終です」
侍医が虹彩の反応と脈、呼気の確認をして臨終を告げる。
瑯炎の目から涙があふれた。
母を同じくした、唯一の兄弟だった。
母の異なる兄弟姉妹ならいくらも居るが、皇后位にあった母の血を継ぐたった二人の兄弟だったのだ。
いつも二人で遊び、二人で学んだ。
家臣たちから送り込まれたり乳兄弟もいて、それなりに仲良くはしたけれど一番お互いを理解できる最も親しい友であったのだ。
それが、たった今失われた。
これから誰を友とすればいいのか。
誰を兄と呼べばいいのか。
誰を信頼したらいいのか。
瑯炎は嗚咽を堪え、ひたすら泣き続けた。
そのうちに、兄の顔に白い布が掛けられ、室内の設えが白を基調としたものに変わっていく。
そこで椅子に腰かけ、両手で頭を抱えて涙をこぼす。
瑯炎は誰かの気配を感じた。
「誰だ」
「皇帝陛下よりの勅命にございます」
見ると、父帝の秘書をつとめる宦官の泰現であった。
両手に禁色に染めた絹を巻いたものを捧げ持っている。
瑯炎は裾を捌いて片膝を突き、拳と手を合わせて拱手を行う。
「謹んで拝命いたします」
それを見て、泰現は勅命を書いた巻物を広げた。
「下す。瑯炎はただ今より延唐国東宮の位を授ける。来るべき時に皇帝位を継承せよ。それまでは身を慎み、勉学に励み政務を行い、軍を統括せしむるべし。東宮位に就いた後は速やかに東宮妃を迎えるべし。天意に則ってこれを命ず。急ぎそのようにせよ」
瑯炎はそれを聞いて叩頭し、言上する。
「謹んで承ります」
頭を上げ、両手を捧げるように前に出すとそこに勅命を書いた巻物が載せられる。
それを待って、立ち上がった。
その人物は、今瑯炎の目の前で死の床に就いている。
本来なら、まだ若く今が男盛りだと言うのに、肌は土気色になり水分を失い枯れ木の如く細い。
その髪は前に会った時には黒々としていたのに、今ではすべてが真っ白になって枕の上に散っている。
眼窩は落ち窪み、目ばかりがぎょろぎょろとしてはいるが、唇はかさついている。
寝衣は綺麗なものを着せられているし、病室と化した寝室は清潔に保たれているが、どこか病室特有の雰囲気と臭いを漂わせている。
そのなんとも言えないねっとりとしたような甘いような、それでいてすえたような臭いは、目の前に仰臥する人物から漂ってきている。
おそらくだが、死臭なのだろう。
瑯炎は唇を噛み締める。
瑯炎が技官として内裏の外側、外宮で働く間にこの寝台に横たわる人物はそのうちに登極し、帝冠を頂く予定だったのだ。
これは余りにも予定外だ。
瑯炎は天を呪いたくなった。
細く枯れ木のようになった指が、瑯炎に差し出される。
瑯炎はその手を折れないように慎重に自らの手に載せた。
上から、もう一方の手を優しく被せる。
「瑯炎。お前に、頼みがある」
ひゅうひゅう、と喘鳴が聞こえる。
苦しいのだろう、短い言葉の間に頻繁に息継ぎをしている。
これでは、あの父よりも老いて見えるではないか。
彼はまだ、30になったばかりだったはずだ。
それが、今では老いさらばえた老爺にしか見えない。
「お前が、次の東宮になれ」
瑯炎は目を見開いた。
「なりませぬ」
「瑯炎」
「なりませぬ、東宮。それだけは」
瑯炎は寝台の上の住人の手をそっと丁寧に敷布の上に戻し、その場に平伏する。
「そのような情けなき事を仰せあそばしますな、東宮。当今の後継としてお定めになられましたのは、まさしく当今の御命に拠りますもの。それを違えてはなりませぬ」
「瑯炎。我が、弟よ」
再び瑯炎の目の前に手が差し伸べられる。
ふるふると震えが止まらず、皺だらけの、男の手。
張りは既に失われ、水分も足らないのだろう、かさかさとして手触りが悪い。
噂に聞く木乃伊とはこのようなものであろうか。
その手を、また手に載せるとぎゅっと掴まれた。
思った以上に力が強く、瑯炎は驚く。
まだ、逝かないでほしい。
心底そう思う。
「東宮」
「兄だ。兄と呼べ、弟よ」
「兄上」
「そうだ。ようやく、呼んでくれたな、瑯炎」
その角度によっては黄金に見える瑯炎と同じ碧の瞳は、涙をこぼした。
「弟よ、瑯炎よ。東宮である私が命じる。次の東宮となり、皇帝に仕えよ。その後は延唐の皇帝となれ」
「兄上!」
瑯炎は声を上げる。
これはまずい。
もし、皇帝の耳に入れば、簒奪を疑われ反逆罪に問われかねないほどのものだ。
目の前の人物が戴く東宮と言う位は、次の皇帝として定められた人物が戴くもの。
これは皇帝の裁可がなければ、今横たわる人物以外の人間が占めていいものではない。
ましてや、それを誰かに譲るなどあってはならないのだ。
だが、寝台に横たわる瑯炎の兄は飄々としている。
「なりませぬ、兄上。東宮の座は当今がお決めあそばしましたもの」
「すでに根回しはしてある。当今もご承知のことだ」
瑯炎は再び、手を握られる。
肉を失い、ほとんど骨と皮だけになった指は瑯炎の痛点を突いて痛みを伝えてくる。
「聴け、瑯炎。私は長くはない」
そこで一旦口を閉じて呼吸を整える。
瑯炎はすっかり肉が落ちて軽くなった身体を支えて、吸い挿しで水を飲ませてやった。
「長くないのだ、瑯炎。私が儚くなった後は、お前が東宮となるのだ。決してあの女の、子に渡すわけには、いかぬ」
東宮、と呼ばれていた人物は苦しい息の下からぎらりと落ち窪んだ眼を光らせる。
「見よ、瑯炎。私のこの姿。すべてはあの女狐親子の、奸計に拠るものだ。情けないと思わないか」
瑯炎は眼を伏せる。
思い出すのはほんの一年前。
まだまだその記憶は新しく、その中で今は病を得て老いた兄は力強く快活に笑っていた。
筋肉も隆々として、蒲柳の質でもなく政務の合間に護衛や近衛たちと剣を交えて身体を鍛え、時には馬に乗って野山を駆けるのを楽しみにしていた。
時には碁を打ち、酒を飲んで語らい時には女に対する悩みを愚痴る。
兄の妻は優しく細く儚げで、これでよく兄の嫁になったものだ、まるで美女と野獣ではないかと良くからかったものだ。
だが、その嫂も先年、出産の肥立ちが悪く儚くなってしまった。
産まれた子も早産だったせいか、産声を上げることも乳を含むこともなく、嫂と時を同じくして天へ召されてしまった。
一気に妻と子を失った兄は荒れた。
酒を好まなかったが飲むようになり、飲みながら嗚咽する。
暴れたりすることはなかったが、見ていて痛々しく、父である皇帝自らしばらく政務から離れて静養するよう申し付けたほどだ。
その頃からだ、兄が体調を崩したのは。
酒を飲むようになって、まず熱を出した。
元来丈夫な質で風邪ひとつ引いたことのなかった兄が寝付いたのは、子供の時以来だ。
瑯炎は見舞いとして兄を訪い、早く熱が下がるように祈った。
優しかった妻を亡くして心を痛めた為だろう、と誰もがそう思っていた。
いずれは本復して政務にも復帰するだろう、と楽観視していた。
特におかしなところは見受けられず、兄は侍医の処方する薬を飲んで養生していた。
それが一変したのは、父帝の妻の一人である、梅貴人が見舞いと称して送ってきた菓子を口にしてからだ。
常ならば警戒して贈られてきた菓子など、決して口にすることはない。
だが、父帝からの寵愛を盾にその菓子を口にすることを強要されたのだと言う。
梅貴人は父に仕える後宮に納められた妻の一人で、通常ならば次期皇帝位を頂く東宮に対してその様な高圧的な態度に出ることは決して許される身分ではない。
この梅貴人の属する派閥としては、旺妃派に属する。
旺妃は官僚の1人である夏と言う者の娘の三女だ。
先年、選定を受けて後宮入りし皇帝のお手が付いた。
それだけでも名誉だが、たった一度のお渡りで見事にその腹に子を授かったのだ。
皇帝はそれを殊の外喜び、成人を迎えたばかりの若く美しい妻と生まれたばかりの我が子を可愛がっているが、ここで旺妃とその父である夏に欲が出た。
東宮として父帝の政務を手伝い、自らも国政に意欲的に取り組む東宮の排除に乗り出した、と瑯炎は見ている。
瑯炎は先だっての故東宮妃であった蔡妃の死に、この旺妃と夏が関わっているのではないかと内心疑っている。
蔡妃の妊娠は、順調であったと聞く。
悪阻も軽く、無事安定期を迎えて出産まであとひと月となった頃の事であった。
見舞いと称して訪ねてきた旺妃やその取り巻き達とお茶を愉しんだことがあった。
その時に持ち込まれた菓子を口にしたらしい。
その夜から、蔡妃は夢にうなされるようになった。
そして見る間にげっそりとやつれていったのだ。
あとひと月で我が子と対面が叶うとそれは嬉しそうにふっくらと膨れた腹を撫で、夫である東宮と顔を見合わせつつ幸せそうに微笑っていたのだ。
それが見る間にどんどん痩せていき、東宮が食べるように勧めても食べ物も口にせず、そのうち水すらも拒否するようになった。
あとは坂を転がるように体調を崩して、出産を迎えた頃には到底その大業に耐えられるものではなかったらしい。
陣痛が始まって産屋に蔡妃が籠った頃、東宮はもしかすると蔡妃が出産に耐えられないかもしれないから、覚悟しておくようにと言われたと言う。
東宮はそれを奏上した侍医の胸倉をつかんで妻子の命を助けてくれるよう懇願したと言うが、結局蔡妃は出産を終えた後意識は戻らず儚くなった。
産まれた子は産声すら上げることなく冷たくなっていったという。
誕生を待ち望んだ子とそれを共に楽しみにしていた妻の死で、東宮は荒れた。
東宮が得た病は隙を突かれたとも言える。
だが、東宮や亡くなった蔡妃、誕生して産声を上げることなく亡くなった子の身体を侍医が調べても不審な点は一切出てこなかった。
それが、最近花街で出回っているという違法な薬物はどうも東宮一家を襲った病とその摂取した者たちとの症状と非常に良く似ているのだと言う。
瑯炎は今の身分が多少、その位は高くとも職分を超えて調べて回るのはためらわれる。
兄が東宮位に封じられた時点で、帝位への野心はないという事を示す為、敢えてそれまで住んでいた内裏から外へと住いを移し、一介の技官としての職を奉じるようになった。
生来の器用さから割ととんとん拍子に出世はしたが、それ以上のものは望んでもいない。
それを兄も知っていたはずだ。
いつも東宮に遊びに行くたびに内裏へ戻るよう言われていたのをやんわり断っていた。
その時に、いつも苦い笑いを浮かべて己の我儘を許してくれていたのだ。
その兄が、今は変わり果てた姿で死の床にある。
瑯炎は知らず涙が頬を伝った。
「兄上。どうか」
「瑯炎」
熱い呼気と喘鳴の下から、兄は瑯炎に願うような声を出した。
「この国を、父帝を頼む。頼む」
そう言うと、瑯炎が了承の意を返すのも見ずにその目の焦点は曖昧になり、呼吸は浅く細くなり。
少し痙攣をしたかと思うとやがて、その瞳から光を失った。
身体はまだ温かみを失わず、その手は柔らかく瑯炎の手に載せられたままだ。
「兄上?」
そっと細くやつれ切ったその身体を揺さぶるが、何の反応もない。
声をかけ続ける瑯炎の声に不審を抱いた侍従が様子を見に来て、侍医がそれを止めるまで続いた。
「ご臨終です」
侍医が虹彩の反応と脈、呼気の確認をして臨終を告げる。
瑯炎の目から涙があふれた。
母を同じくした、唯一の兄弟だった。
母の異なる兄弟姉妹ならいくらも居るが、皇后位にあった母の血を継ぐたった二人の兄弟だったのだ。
いつも二人で遊び、二人で学んだ。
家臣たちから送り込まれたり乳兄弟もいて、それなりに仲良くはしたけれど一番お互いを理解できる最も親しい友であったのだ。
それが、たった今失われた。
これから誰を友とすればいいのか。
誰を兄と呼べばいいのか。
誰を信頼したらいいのか。
瑯炎は嗚咽を堪え、ひたすら泣き続けた。
そのうちに、兄の顔に白い布が掛けられ、室内の設えが白を基調としたものに変わっていく。
そこで椅子に腰かけ、両手で頭を抱えて涙をこぼす。
瑯炎は誰かの気配を感じた。
「誰だ」
「皇帝陛下よりの勅命にございます」
見ると、父帝の秘書をつとめる宦官の泰現であった。
両手に禁色に染めた絹を巻いたものを捧げ持っている。
瑯炎は裾を捌いて片膝を突き、拳と手を合わせて拱手を行う。
「謹んで拝命いたします」
それを見て、泰現は勅命を書いた巻物を広げた。
「下す。瑯炎はただ今より延唐国東宮の位を授ける。来るべき時に皇帝位を継承せよ。それまでは身を慎み、勉学に励み政務を行い、軍を統括せしむるべし。東宮位に就いた後は速やかに東宮妃を迎えるべし。天意に則ってこれを命ず。急ぎそのようにせよ」
瑯炎はそれを聞いて叩頭し、言上する。
「謹んで承ります」
頭を上げ、両手を捧げるように前に出すとそこに勅命を書いた巻物が載せられる。
それを待って、立ち上がった。
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