謝漣華は誘惑する。

飴谷きなこ

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拾弐、謝漣華は忘却する。

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 ここ数日の記憶が、非常に曖昧だ。

 そう漣華れんげが認識しているのは、無理からぬことである。
たまたま上司兼師匠に手の荒れを見とがめられ、引きずられるように連れていかれた妓楼で、もてなしを受けた。
そこまではいい。

 特に妓女おんなを抱く気もなかったし、普通はどれだけ金を積んでも滅多に会えない太夫にも会えたし。
そこで受けた手足の手入れも、按摩も非常に良かった。
食事も酒も美味だったし、太夫はとても綺麗だったし。

 本来、花魁程の妓女に会うには、色々と複雑な手順を踏み、相当な金子を積まねば会ってももらえないらしい。
それが瑯炎ろうえん敵娼あいかただからと言って、特に手順を踏むわけでもなく贈り物などを用意するわけでもなく。
正直、金銭の類は一銭も払っていない。

 先日だって師匠の執務室の仮眠室で横になって以降、記憶が全くない。
気が付いたら、師匠の屋敷内にある自分の部屋で寝ていたのだ。
起きたらあちこちに何だか虫刺されのような痕が残っていたり、腰や何故か尻の辺りが痛んだりしていて、知り合いの医官に湿布薬を融通してもらって未だにお世話になっている。
医官からは非常に哀れなものを見る目で両肩をぽんぽん、と叩かれて漣華が何か言う前に薬をくれた。

 とてもありがたい。

 こちらが症状を伝える前に診断を終えるとは、あの医官もそろそろ腕が上がったのだろう。
昇進も近いかもしれないし、薬の礼に何か贈っておいた方がいいだろうか。

 そうつらつらと考えながら、目の前に大量に積まれた書類をさばいていく。
今日は師匠兼上司の執務室で書類整理だ。
未処理と処理済みとが混ざって山をなしているのを、少しずつ整理して処理していく。
本来のこの部屋の主は、先日受けてきた注文の中身を詰めるべく近衛府に行っている。
結構めんどくさい注文内容だったし、自分が行くと言っていたからこの際丸投げにしてしまった。
それを言うと、一瞬引きつった顔をしていたが結局は引き受けてくれたのだ。

 いい人だ。

 弟子の事をきちんと考えてくれるいい師匠だと思う。
あれはとってもめんどくさかったので、正直なところやりたくなかったのだ。
それを自ら進んでやると言ってくれた。
それだけでいい師匠だと思う。
 漣華は機嫌よくふんふん、と鼻歌を歌いながら書類をさばく。

 ああ、今日はなんていい気分なのだろう。
なんだかとても歌いたい。

 本音としては踊ってもいいくらいだが、先日痛めた腰がまだ痛むので無理をしてはいけないと自制する。
そう言えば、昨日だったか揮将軍が来ていたが、何かあったのだろうか。
注文品は全て師匠が一手に引き受けているから、今回は関わることはない。
そういうと顔を真っ赤にしたり真っ青にしたりと忙しく色を変えながら帰って行った。
だいぶふらふらしてたりあちこちぶつかったりしたりしていたけれど、大丈夫だろうか?
今度お見舞いの品を贈っておこう。

 何がいいかな、と頭の中で見繕う。
様子がおかしかったから、やはり薬の方がいいだろうか。
体調がすぐれないのなら、ここは滋養強壮の薬酒にしておこうか。
あとで家に帰ったら執事に頼んで手配をしておいてもらおう。
こういう時に弟子と言うのは大変楽ができる。
ありがたいことだ、と漣華は思っていた。

 それはそうと、師匠もなんだか最近おかしなことが多い。
じっと見つめてきたと思ったら、顔を背けて「なんでもない」と言うのだ。
その際に大抵顔を真っ赤にしている。
自分の周りではたちの悪い病でも流行っているのだろうか?
今日は師匠をさっさと家に引きずって帰って、さっさと寝台に放り込んでおかねばならぬ。
健康は規則正しい生活が作るものだ。
酒も控えてもらわねば。
そんな事を考えている漣華は二人の心の内なんて全く気付くわけがなかった。



 礼記はそれを聞いて、呆然自失におちいった。

 まさか、まさかまさか。

 記憶にないとは思わなかったのだ。
先日の妓楼での一件で、一応漣華に抱いてほしいと言われた事でもあったわけだが。
自らの気持ちはちゃんと伝えたはずだ。
妓楼に行く前に。
なし崩しに抱いてしまう前に。

 それを、まったく覚えていないとは!

 礼記は地団太を踏み、頭を抱え込みたかった。
それをしなかったのはただひたすらに自らが恋した人が目の前に居るからだ。
あんな一世一代とも言える告白が、綺麗さっぱり消えてしまった。
すっかりとなかったことになっていた。
こんな衝撃を受けたことは生まれてこの方、なかったことである。

 ああああ! と頭を抱え込んでしまいたい。
取るも取りあえず、漣華の前を辞してきてしまったがこれからどうすればいいのか。
ここは酒を飲んでしまおうか、それとも。

 そう思った時に、背中から声がかかる。
思い悩んでいる間に思い人はいつの間にか目の前から消えていて、声を掛けてきたのは誰かと思って振り返ると、同じ将軍位を奉じる李恵果りけいかであった。
それに内心呆然としながら目の前の見慣れた鎧姿を見る。
彼女とは付き合いも長く、それこそ子供の頃から泥んこになりながら日が暮れるまで遊んだものだ。

 一時期婚約と言う話もあったが、彼女とはお互いを知りすぎて今更そんな気になれない。
お互いに「それはないな」、と話して双方の親に断りを入れてもらうように頼んだのだ。
だから、お互いが今までどんな相手と付き合いをしてきたのか嫌と言うほど知っているし、どんな思考回路をしているのかだってよく知っている。
彼女なら、相談しても大丈夫だろう。

「なあ、花梨」

 花梨、と言うのは彼女のあざなだ。
重量級の大刀を己が得物として戦場で振るう彼女には、とても似合わない可憐な字だ。

 かつてそれを面と向かって言ったあいつは、今でも元気でいるだろうか。
股間を思い切り蹴飛ばされて暫く内股で生活していたものなあ。
そのうち自ら宦官を志望して後宮に入ったと聞く。
男として、ああはなりたくない。

 背中に走るぞくっとしたものを堪え、礼記は花梨に向き合った。

「何だ?」

「ああ、今度の演習の事なんだがな」

 冬に入る前に一度演習を、と言う話になっていた。
頭の中を仕事に切り替えていくつか話をしていく。
それを適当なところで切り上げて、礼記は花梨を酒に誘った。

「花梨、ちょっと聞いてほしいことがあってな」

「どうしたんだ?酒なら付き合うよ」

 目の前で豪快に笑う花梨はちっとも女らしいところがなくて、母親をいつも嘆かせている。
家こそ彼女の兄が継いできちんと嫁も貰い、子供も生まれて安泰なのだが目の前の幼馴染は何時まで経っても結婚のけ、の字にも縁がない。
一応家事一般はできるし、刺繍などもかなり上手い。
それなりに恋愛もしているようだから、そのうち嫁に行くのだろうか。
花梨の花嫁姿を想像してみようとしたのだが、さっぱり想像できなくて礼記はあっさりと諦めた。

 何故か土壇場で男の側が逃げ出したのを見たことがあるのだが、あれはきっと追及してはいけない類なんだろうな、と礼記は思っている。
そしてそれは多分正しい。

 礼記はその日の勤務が終わり次第、いつもの居酒屋で落ち合う約束を交わした。

 結婚するなら、この幼馴染には何を贈ろうかと考えながら。





 瑯炎は目の前の発注書を見ながら、近衛府の発注担当と喧々諤々の内容確認と言う名の喧嘩を終えてきたところだ。
正直向こうの副官が止めてくれなければ、もう少しで殴り合いに発展するところだった。

「もっと口径を大きくしろだと?そんな事したら火薬をもっと詰めねばならんし、そうなれば暴発の危険性が高くなる。怪我人を増やすだけだ」

 瑯炎は若い士官や兵に犠牲者が出かねないと運用上の危険性を重視してこれ以上の砲の口径拡大を止めた。
 そんな事をしてもそこまでデカい玉は遠くまでは飛ばないだろう。
むしろ口径を小さくして、玉も小さくした方が距離も稼げるだろうし、火薬の節約にもなる。

 冶金やきん技術や火薬の研究を進めた方がいいだろう。
発注については今まで通りの口径で、と折り合いがついたがあんな大きな玉をどれだけの距離飛ばすつもりでいたのかと思うと頭が痛い。

 ぐりぐりと眼窩がんか上にあるツボを刺激しながら、発注書やその他もろもろを持って工房に戻る。
工房で若い技官を捕まえて、冶金技術やら火薬やらの資料を集めるように指示を出す。
そして同時に職人長に模型の製作を依頼しておく。
後で計算式を出して設計図を引かねばならない。

 構造計算やらなんやらは昔は職人の勘ひとつだったのだが、最近は西方から入ってきた技術が役に立っていてある程度目途を付けやすくなった。
こればかりは交易の拡大に感謝せねばならぬ。
だが、一昔前までは絹や紙、最近は茶の交易が増えたがそれと共に違法な薬物の取引が横行し、花街でそれを商っている妓楼もあると言う。
瑯炎は技官ではあるが、それなりに身分は高い。
花街で仕入れた話を街を警備する隊に回しておこうと思う。
表立つと色々勘ぐってくる輩もいるので、匿名にしておいた方が無難だろう。

 さて、構造計算と設計図の作成をやっつけてしまおう、と設計室に入るとそこに漣華が居た。
瑯炎は扉を開けて固まる。
先日、妓楼で散々に漣華を抱いた。
妓楼で盛られた媚薬を抜く為だったのだが、長年漣華に抱いていた思いがあったのも拍車をかけたことは否めない。
結局自分だけではそれを抜ききれなくて、礼記と莱玲に頼んで自分は逃げた。
実際には礼記と莱玲が一度抱いてそれですっかり抜けてしまったようだったが、それで抱きつぶしてしまって数日目が覚めなくて慌てたのは瑯炎だ。
自宅に連れ帰り家人に世話を任せたものの、執事と今は家政婦長をやってくれている乳母からは非難がましい目を向けられた。
医者も手配してくれて色々処方してもらったらしいが、発熱もあるとかでしばらくは漣華の寝室がある棟に立ち入る事すら禁じられたのだ。

 おまけにここ最近は蜃気楼に行っても蘭秀は会ってくれさえもしない。
先日の礼と詫びにいくらかの贈り物もしたのだが、全て突き返されてしまい、手紙すら受け取ってもらえない始末だ。
どうしたものかと頭が痛い。

 肝心の漣華自体は媚薬に冒されていた時の記憶はすっかり無いようで、瑯炎が言った言葉も覚えていない様子だ。
瑯炎はあの時、漣華に対する恋心に向かい合いざるを得なかった。
長年押し込めて目を逸らしていた、養い子で弟子に対する恋心。
それをできれば知っていてほしい、でも忘れていてくれと同時に矛盾した願いを心に秘めて漣華を抱いたのだ。
あの時の記憶があるならば、きっと瑯炎は漣華に求婚していた。

 だが。
今は、記憶がないことに感謝している。
なし崩しで求婚したとしても、漣華はきっと受け入れるまい、と言う確信がある。
だから、記憶がない。
むしろ今まで通りなのだから、今まで通りふるまえばいい。
けれどいつかはこの恋心を知ってほしい。

 扉を開けて、固まった瑯炎を邪険にしつつ、そこをどくように言う漣華を見ながら瑯炎は思う。
いつか、この心を伝えたい。





 蘭秀は客を断って寝台の垂れ絹カーテンも引いて、ひとり横になっていた。
つい先だっての事を思い出す。

 瑯炎が弟子だ、と言う若い男を連れて蜃気楼を訪れたのは七日程前の話だ。
そこで、手が荒れるのは技官としてはいけないことなのだ、と言う瑯炎の持論に従い、蘭秀は禿かむろ新造しんぞたちにその手入れをするように手配をさせた。
その後、風呂から上がったその漣華とやら言う若い弟子に、ちょうど客が切れて暇だと訴えてきた莱玲に按摩をするようにと言って送り出したのだ。

 そこで、間違いが起こった。
基本的にこの蜃気楼では按摩は普通の按摩ではない。
希望すれば通常の按摩のみも受けられるのだが、ここは花街でも最上位に位置する蜃気楼、いわばここの顔だ。
値段も値段なだけあるしそもそもそんなもの決まっていないと言うのもある。
だから、それだけで済むわけがない。

 ある意味暗黙の了解というヤツで、莱玲は按摩で血行が良くなって寝入ってしまった漣華に性感を刺激する方の按摩で奉仕を行ったのだ。
そこで使った潤滑剤が不味かった。
ここで使われる通常の潤滑剤は、僅かに掻痒感かゆみを生み出す海藻から抽出した成分が使われている。
それだけなら、気のせいかで済むのだが莱玲はそれに加えて、少し刺激の強いものを独自に配合したものを好んで使う。
そうするとその特別製の潤滑剤を使った客は、ほぼ必ずと言っていいほど莱玲に裏を返し、常連の顧客となっていくのだ。

 今回もそれを狙ったのだろう。
だが、聞けばあの漣華は童貞だったのだと言う。
その翌日に再度訪れた時には瑯炎に引き続いて共に来ていた礼記、そして莱玲が抱いたので童貞はもう卒業したらしいのだが、その後からずっと蘭秀はほったらかしにされたのだ。
これで拗ねるなと言う方が無理だ。

 瑯炎は蘭秀が成人して髪を上げ、水揚げもしてくれて今では一番蘭秀に金を落としてくれる最上の顧客だ。
今まで、ずっと面倒を見てくれて蘭秀を抱いてくれて、蘭秀は他の客では絶対にやらない気を瑯炎が相手なら安心してやれてしまう。
瑯炎とのねやならば、なにをしても許してくれると言う安心感がある。
今までは、この花街の中では瑯炎は一番に蘭秀のいう事を聞いてくれたのだ。
それが、先日はずっと蘭秀を無視した。
弟子だと言う若い男にかかりっきりで、蘭秀を一晩放置したのだ。
その後も弟子が熱を出したとかで、全然会いにも来てくれなくて、蘭秀は不安だったのだ。
三日間全然連絡すらくれなくて、蘭秀がご機嫌伺いの手紙を送っても返事すら来ない。
他の客の相手をしても気もそぞろで、途中で客も呆れて帰ってしまった。

 こんな失敗は初めてだった。
最上位の花魁、太夫の名が泣く。
今日も客からの指名を断って寝台に籠り、寝そべる。

 先日の礼だとか詫びだとかで瑯炎から手紙や贈り物が届いたが、全て突き返してしまった。
昨日、ようやく来てくれたと思ったのだが、弟子の名前が出たので何だかむかついて部屋に引っ込んでしまい、結局瑯炎は帰ってしまった。

 蘭秀は自分の心がわからない。
それもそのはず、彼女は花魁で太夫なのだ。
客は全て蘭秀の恋人であり、本気の恋など野暮な花街。
太夫が客の一人に恋をしたなどと、笑い話にしかならない。
だから、蘭秀は自分の心のその小さなものは心の奥に仕舞ってしまうことにした。
いつか、忘れてしまうかもしれない。
でも時々取り出してひとりでひっそり眺めていようと思う、小さな小さな宝玉。
嘘だらけの花街の中できっとこれは、真実だと思うから。
誰にも知られないように、大切に大切に。
そう思って蘭秀は心の奥に鍵を掛けた。
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