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伍、謝漣華は言い寄られる。
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結局漣華が目覚めたのがちょうど払暁に近い時間帯だったのもあって漣華と瑯炎は衣服をもとのお仕着せに着替えて蜃気楼を後にした。
返してもらったお仕着せも外套も、全て洗われて繕いが必要なものは補修が済んでいたし、武器の類は希望すれば手入れもしてもらえるが、それは自らの職務である技官の誇りがあるもので、そちらは断った。
他人の手に渡してしまえばそこに何らかの瑕疵を付けて返されることも考慮せねばならない。
花街では妓楼はそう言った客の預かりものに対して瑕疵をつけると言った不首尾は総じて嫌うから、預けたものは最初に預けた時以上に綺麗になってくるのがここの常識だった。
だが、不特定多数の人間がほぼ常に出入りする以上それを警戒するに越したことはなく、なおかつ内裏や近衛など国の中枢の近くで職を奉じる身である以上はどうしてもそこを気にしてしまう。
瑯炎と漣華は身支度をすっかり整えてしまうと後朝の別れを惜しむ蘭秀と莱玲、新造や禿たちを残して蜃気楼を後にする。
昨日使った馬車は律儀にも迎えに来ていた。
御者に聞くと蜃気楼からこのまま泊まるので明け方迎えに来てほしいと夕食などの差し入れと共に伝言があったそうだ。
至れり尽くせりである。
馬車内では瑯炎と漣華はななめ向かいに座った。
揃いのお仕着せを着てはいるが、そこはそれなりの地位とは言え技官と長、多少の刺繍や飾りなどの違いはある。
だが基本的には同じものなので二人はそれぞれに点検をなんとなく行う。
これはもう習い性のようなものだ。
妓楼で身に纏う時にも行うのだが、今やっているのは出勤前の最終確認を兼ねている。
瑯炎は自らの腰の物に目を落としつつ、何でもないように漣華に尋ねた。
「お前、身体はどうだ」
「身体?」
漣華は顔を上げて瑯炎を見るが、瑯炎はまだ点検の為か視線をおとしたままだ。
「さっきまで、莱玲に色々されてたろ。按摩だとは思うが、どうだ。」
疲れは取れたのかと聞かれて、漣華は自らの身体の感覚を確かめる。
莱玲に色々されてたと言われはしたが、漣華の感覚では普通に按摩を受けた後のように身体はほぐれ血の巡りが良くぽかぽかと温かい。
「特には。上手なのでしょうね、随分と身体がほぐれて楽です。肩が軽い」
ぐるん、と肩を回すと昨日までごきごきごりごりととても人体から聞こえるとは思えないような音を体内からさせていたというのに今日は一切聞こえない。
これならば、あの厄介な注文も今日は軽くこなせるだろう。
近衛から発注された内容を頭に巡らせながら、今日も仕事が順調に行きますように、と願う。
何せ今日は昨日仕事を手伝うから、と半ば拐うようにして花街に連れてきた目の前の師匠と言う心強い味方がいるのだ。
言質は取ってあることだし、厄介な注文なのだからさっさと押し付けてしまおう、と算段した。
師匠に押し付けてたまった書類仕事を片付けてしまおう、と漣華は今日の予定を決めてしまう。
面倒なのは師匠に限る。
そう漣華が内心決めたのを知ってか知らずか、瑯炎は今まさに漣華が考えていたことを口にした。
「昨日お前が近衛から取ってきた注文な、あれ朝議が終わったら見せてみろ」
延唐ははるか昔から連綿と続く朝議を未だに行っている。
それも諸外国との兼ね合いから新しい形にし直してはどうかと言う意見も出てはいるが、それも時間の問題だろう。
遥か砂漠の向こうに広がる国々は高貴なる方々は朝が遅く、その習慣に従うと内裏の奥の畏きところがお目覚めになるのが日が遥か高く昇ってからと言うことになる。
それが続くとなると未だ旧い習慣に縛られるこの国では昆君とされ、良ければ譲位させられて蟄居となるだろうが悪ければ暗殺されるだろう。
上に残る頭の固い老臣たちがまず許しはすまい。
様々な旧い習慣にもそれぞれに意味があったりするので、一新するには少しずつ変えてまずは慣らしていかねばならない。
急激に変えてしまえば反動も大きいのだ。
その後に起こるだろう帝位継承を中心とした、場合によっては人の命の価値も紙ほどに軽くなるだろう政争にまで瑯炎は考えが及んで溜息をついた。
改革はゆっくりと確実な方が好ましい。
老臣たちが退いていく間に若く有能な人材を確保して、頭の柔らかいうちに新しい知識を放り込んでやらねばならぬ。
それから外国との交渉など重要な仕事を任せられるよう育てていけばいい。
瑯炎は軽く眉根を寄せた。
そう言えば、内裏の奥に坐わす畏きところもそれなりのご年齢。
そろそろ世代交代も現実味を帯びてくる頃合いだ。
瑯炎もいずれまた別の役職に異動となる可能性だってある。
幸いにして政争には興味がないから、どこの派閥にも属していない。
適度にそういったお誘いはあるが、のらりくらりと適当にかわしてどこの派閥にも属さない無所属を貫いている。
下手に派閥に関わると勢いのある時の庇護はありがたいが、そうでない時には一蓮托生で首を物理的に斬られかねない損失が生じるのだ。
瑯炎はそこまで頭を巡らすと、軽く頭を振って考えを追い出した。
今やるべきことは注文をいかにうまく捌くかと言う事。
政争の事ではない。
「取りあえずどういう注文内容なのか見てみないことにはどうしようもないからな」
「わかりました。書きつけは工房の鍵付きの書棚に入れてありますので、朝議が終わり次第取りかかりましょう」
漣華はこくりとうなずいて見せた。
しばらく馬車を走らせて、花街と外界をへだてる大門が開くのを待って大通りへと抜ける。
朝早い豆腐屋などは既に店を開けて仕込み作業などをしているが、街はまだ眠りから覚めるかどうかだ。
それでもあちこちから瑯炎たちが乗っているのと同じような馬車が集まってくる。
官街へ入るとそういった馬車ばかりになって来て、内裏に入る為の天蓋門は混雑し始めた。
馬の歩みを調整してゆっくりと進むと程なくして中に入る。
そこで馬車を前方から降りて、御者に先に帰してしまう。
馬もしばらくは休息を取らせなければならないので、瑯炎の自宅で御者が世話をした後に休むのだろう。
漣華たちを下ろしたあと、御者が馬を操って馬車が遠ざかっていくのを何とはなしに視界に入れながら、朝議の場へと急ぐ。
延唐の朝議は百官が揃う大規模なものだ。
上は畏きところから、下は漣華のような技官まで駆りだされる。
瑯炎は仮にも技官の長なので当然出席せねばならない。
基本的に欠席は認められず、欠席するとしても相応の理由がなければならないし、もし偽りで休んでしまってそれが発覚した場合はそれ相応の罰則があるのでずる休みは割に合わない。
それでも休むに値すると認められる理由はそれなりにあり、届を出せば休みを貰える。
例えば病であったり、何らかの理由で負傷したり、両親の介護であったり葬式など。
変わったところでは物忌みなどがあったりする。
物忌みと言うものが諸外国からの使節や商人に聞いても特にそう言った習慣はないらしく、代わりにひと月を七日ごとに区切り曜日というものに当てはめた暦で、七日目に休むと言うことをするらしい。
それだと一日は丸々休息にあてられるため、疲れがたまりすぎて仕事にならないと言うことはないだろうな、と漣華はちらりと思った。
旧態依然とした習慣が蔓延る延唐でもそれはいずれ廃れ、新しい習慣や価値観が根付いていくだろうと思う。
その最たるものが漣華たち技官の扱う技術だ。
遥か西方の国々から海を越えてやってきた技術は、漣華たちが培ってきた技術とは一線を画す非常に画期的な優れた技術が多い。
特に冶金分野や科学技術分野と言ったものには目を見張る。
延唐には古くから伝わる火槍と言うものがあったが、二百年ほど昔に入ってきた鳥銃や更にそれを改良して作られたと言う銃身の中に螺旋を切ってあるものは、弾道も安定していて命中率も高い。
最近は外国勢力からの圧力も高く、政情不安も続いているせいか漣華たち技官にまで護身用の短銃が支給されているほどなのだ。
天下泰平を謳歌していたのも今や昔、延唐は諸外国から狙われる皿の上に置かれた肉のようなものだ、と漣華たちは思っている。
だからと言ってそれを口にすれば敵方に通じる間諜だと疑われても仕方がないので、絶対に口にはしないが。
先を行く瑯炎に付いて朝議の場へ歩みを進めていると、漣華に近寄ってきた男が居た。
漣華もそれなりに背が高いが、男はもっと高い。
身長は二公尺は軽く超えるだろう。
更に鍛え上げられた筋肉は男を更に大きく見せる。
そんな男が漣華にずんずん近づいてきて、やがて漣華の隣に並び、歩みの速さを揃えて共に朝議へと向かう。
「漣華どの、おはよう」
男の身分は高く、それ故に漣華は身分の高い方から声を掛けられるのを待たねばならない。
男の身体から発せられる圧力は非常に高く、遠くからでも男だと言うことがわかるくらいなのだ。
筋肉量もさることながら、その消費する熱量も膨大なのか、男の傍に居るだけで熱を感じる。
冬はいいだろうが夏場はできる限り近寄りたくはない。
「おはようございます、揮将軍」
歩く速度はそのままに、拱手をして見せて身分も職位も上の人間に挨拶をする。
揮亮暁、字を礼記と言う人間は漣華に注文してきた近衛府の重鎮だ。
将軍、と呼ばれた男はその答えに破顔し、人好きのする笑みを浮かべて見せる。
「揮将軍とは他人行儀な。是非、礼記と呼んでもらえないだろうか。」
そう言うと更に漣華との距離を詰めてきた。
漣華がそれに戸惑っていると、漣華の前方から礼記に声を掛けてきた人間が居る。
「これはこれは、揮将軍。おはようございます」
そうして歩みを漣華に揃え、漣華を挟んで礼記と並んで歩きだした。
そして漣華にちらり、と一瞬視線をやりじろりと上から下まで見聞するようにながめてから礼記に視線を戻した。
「で、うちの技官がどうかしましたかね」
瑯炎が占める技官の長の地位は非常に高い。
将軍位である礼記と同等もしくはその上位にあるとされるくらいの職位にはなるのだ。
「これは、瑯炎様。おはようございます」
そう声を掛けられて礼記は慌てて拱手を組み、目の前に掲げて腰を折る。
それを横目に瑯炎は漣華の腕をつかんでさっさか歩き出した。
漣華は引きずられるようにして歩みを早めるが、既に小走りになっている。
「一体何なんですか?」
朝の空気は非常に冷たい。
それが一気に鼻の中に入って来て、漣華の鼻腔の奥がツンとした痛みを訴える。
それでわずかに涙が浮かぶが、特に目立つものではなかった。
「気に入らん」
「は?」
漣華は聞こえてきた瑯炎の答えに思わず応えを返す。
上司の言葉は空耳だったのだろうか。
やはり疲れがたまっているのだろう、今度の休みにでも郊外にできたという温泉宿にでも行こうか。
そう瞬時に頭の中に考えを巡らせていると、瑯炎の視線を感じて慌てて目の前の男に意識を戻した。
「気に入らん、と言ったんだ」
瑯炎はそれだけを漣華の目を見て区切るように言うと、そのまましっかりと漣華の手を握り直し更に歩みを進める。
人の波を掻き分け掻き分け、前方へ身体をねじ入れるようにして漣華を引きずって歩く。
漣華はその手を振り切るわけにも行かず、されるがままにして付いていく。
そこに礼記がようやく追いついてきた。
「漣華どの!」
相当な速度で歩みを進めてきたと思うのだが、脚の長さに救われてかはたまた鍛え上げられた心肺能力のおかげか礼記は息さえも乱してはいない。
「昨日の注文ですが、できるだけ急いでいただきたい。付きましてはのちほど近衛府においでいただきたく」
話しかけてくる礼記の言葉を瑯炎がぶった切るように言葉を投げた。
「そのお話だが、弟子はまだ未熟ゆえ私が請けることに致しました」
礼記はその言葉にぽかんとした表情を見せたのち、まじまじと瑯炎の顔を見る。
「瑯炎様が?」
「ええ」
「あの注文を?」
「そうです」
しばらくまじまじと瑯炎と漣華の顔を見比べた後、礼記は破顔した。
「それは心強い。是非ともお願い申し上げます」
「打ち合わせとの話だったが」
「そうですね、もう少し話を詰めたく」
「わかりました。朝議の後伺いましょう」
漣華を挟んで、漣華抜きで話が進んでいく。
その状態に漣華が軽く息を付いていると、礼記が身をかがめて囁いてきた。
「漣華どのも是非ご一緒に」
礼記の吐息が耳に掛かり、ぞくりと背筋に何かが走る。
と、同時に昨夜見た淫夢と何故か後孔の奥に残る快楽の余韻を思い出して漣華は頬をほんのりと赤く染めた。
それを見て、礼記は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「その後、食事でも」
礼記が空いたもう片方の手を掴もうとした途端、瑯炎はぐいっと漣華を自らの方に引き寄せた。
「あいにくだが」
瑯炎は礼記を見る。
目の奥に炎が煌めくような輝きを見せた。
「漣華は今日は朝から忙しい。しばらくはたまった仕事などを片づけさせるので、残念だが礼記どのにお目には掛かれないだろう」
瑯炎が礼記と見えない火花を散らしているのを横目に、漣華は自らの胎内でじんわりと熱をもたげてきた快楽の小さな炎をどうしようかと悩み始めていた。
返してもらったお仕着せも外套も、全て洗われて繕いが必要なものは補修が済んでいたし、武器の類は希望すれば手入れもしてもらえるが、それは自らの職務である技官の誇りがあるもので、そちらは断った。
他人の手に渡してしまえばそこに何らかの瑕疵を付けて返されることも考慮せねばならない。
花街では妓楼はそう言った客の預かりものに対して瑕疵をつけると言った不首尾は総じて嫌うから、預けたものは最初に預けた時以上に綺麗になってくるのがここの常識だった。
だが、不特定多数の人間がほぼ常に出入りする以上それを警戒するに越したことはなく、なおかつ内裏や近衛など国の中枢の近くで職を奉じる身である以上はどうしてもそこを気にしてしまう。
瑯炎と漣華は身支度をすっかり整えてしまうと後朝の別れを惜しむ蘭秀と莱玲、新造や禿たちを残して蜃気楼を後にする。
昨日使った馬車は律儀にも迎えに来ていた。
御者に聞くと蜃気楼からこのまま泊まるので明け方迎えに来てほしいと夕食などの差し入れと共に伝言があったそうだ。
至れり尽くせりである。
馬車内では瑯炎と漣華はななめ向かいに座った。
揃いのお仕着せを着てはいるが、そこはそれなりの地位とは言え技官と長、多少の刺繍や飾りなどの違いはある。
だが基本的には同じものなので二人はそれぞれに点検をなんとなく行う。
これはもう習い性のようなものだ。
妓楼で身に纏う時にも行うのだが、今やっているのは出勤前の最終確認を兼ねている。
瑯炎は自らの腰の物に目を落としつつ、何でもないように漣華に尋ねた。
「お前、身体はどうだ」
「身体?」
漣華は顔を上げて瑯炎を見るが、瑯炎はまだ点検の為か視線をおとしたままだ。
「さっきまで、莱玲に色々されてたろ。按摩だとは思うが、どうだ。」
疲れは取れたのかと聞かれて、漣華は自らの身体の感覚を確かめる。
莱玲に色々されてたと言われはしたが、漣華の感覚では普通に按摩を受けた後のように身体はほぐれ血の巡りが良くぽかぽかと温かい。
「特には。上手なのでしょうね、随分と身体がほぐれて楽です。肩が軽い」
ぐるん、と肩を回すと昨日までごきごきごりごりととても人体から聞こえるとは思えないような音を体内からさせていたというのに今日は一切聞こえない。
これならば、あの厄介な注文も今日は軽くこなせるだろう。
近衛から発注された内容を頭に巡らせながら、今日も仕事が順調に行きますように、と願う。
何せ今日は昨日仕事を手伝うから、と半ば拐うようにして花街に連れてきた目の前の師匠と言う心強い味方がいるのだ。
言質は取ってあることだし、厄介な注文なのだからさっさと押し付けてしまおう、と算段した。
師匠に押し付けてたまった書類仕事を片付けてしまおう、と漣華は今日の予定を決めてしまう。
面倒なのは師匠に限る。
そう漣華が内心決めたのを知ってか知らずか、瑯炎は今まさに漣華が考えていたことを口にした。
「昨日お前が近衛から取ってきた注文な、あれ朝議が終わったら見せてみろ」
延唐ははるか昔から連綿と続く朝議を未だに行っている。
それも諸外国との兼ね合いから新しい形にし直してはどうかと言う意見も出てはいるが、それも時間の問題だろう。
遥か砂漠の向こうに広がる国々は高貴なる方々は朝が遅く、その習慣に従うと内裏の奥の畏きところがお目覚めになるのが日が遥か高く昇ってからと言うことになる。
それが続くとなると未だ旧い習慣に縛られるこの国では昆君とされ、良ければ譲位させられて蟄居となるだろうが悪ければ暗殺されるだろう。
上に残る頭の固い老臣たちがまず許しはすまい。
様々な旧い習慣にもそれぞれに意味があったりするので、一新するには少しずつ変えてまずは慣らしていかねばならない。
急激に変えてしまえば反動も大きいのだ。
その後に起こるだろう帝位継承を中心とした、場合によっては人の命の価値も紙ほどに軽くなるだろう政争にまで瑯炎は考えが及んで溜息をついた。
改革はゆっくりと確実な方が好ましい。
老臣たちが退いていく間に若く有能な人材を確保して、頭の柔らかいうちに新しい知識を放り込んでやらねばならぬ。
それから外国との交渉など重要な仕事を任せられるよう育てていけばいい。
瑯炎は軽く眉根を寄せた。
そう言えば、内裏の奥に坐わす畏きところもそれなりのご年齢。
そろそろ世代交代も現実味を帯びてくる頃合いだ。
瑯炎もいずれまた別の役職に異動となる可能性だってある。
幸いにして政争には興味がないから、どこの派閥にも属していない。
適度にそういったお誘いはあるが、のらりくらりと適当にかわしてどこの派閥にも属さない無所属を貫いている。
下手に派閥に関わると勢いのある時の庇護はありがたいが、そうでない時には一蓮托生で首を物理的に斬られかねない損失が生じるのだ。
瑯炎はそこまで頭を巡らすと、軽く頭を振って考えを追い出した。
今やるべきことは注文をいかにうまく捌くかと言う事。
政争の事ではない。
「取りあえずどういう注文内容なのか見てみないことにはどうしようもないからな」
「わかりました。書きつけは工房の鍵付きの書棚に入れてありますので、朝議が終わり次第取りかかりましょう」
漣華はこくりとうなずいて見せた。
しばらく馬車を走らせて、花街と外界をへだてる大門が開くのを待って大通りへと抜ける。
朝早い豆腐屋などは既に店を開けて仕込み作業などをしているが、街はまだ眠りから覚めるかどうかだ。
それでもあちこちから瑯炎たちが乗っているのと同じような馬車が集まってくる。
官街へ入るとそういった馬車ばかりになって来て、内裏に入る為の天蓋門は混雑し始めた。
馬の歩みを調整してゆっくりと進むと程なくして中に入る。
そこで馬車を前方から降りて、御者に先に帰してしまう。
馬もしばらくは休息を取らせなければならないので、瑯炎の自宅で御者が世話をした後に休むのだろう。
漣華たちを下ろしたあと、御者が馬を操って馬車が遠ざかっていくのを何とはなしに視界に入れながら、朝議の場へと急ぐ。
延唐の朝議は百官が揃う大規模なものだ。
上は畏きところから、下は漣華のような技官まで駆りだされる。
瑯炎は仮にも技官の長なので当然出席せねばならない。
基本的に欠席は認められず、欠席するとしても相応の理由がなければならないし、もし偽りで休んでしまってそれが発覚した場合はそれ相応の罰則があるのでずる休みは割に合わない。
それでも休むに値すると認められる理由はそれなりにあり、届を出せば休みを貰える。
例えば病であったり、何らかの理由で負傷したり、両親の介護であったり葬式など。
変わったところでは物忌みなどがあったりする。
物忌みと言うものが諸外国からの使節や商人に聞いても特にそう言った習慣はないらしく、代わりにひと月を七日ごとに区切り曜日というものに当てはめた暦で、七日目に休むと言うことをするらしい。
それだと一日は丸々休息にあてられるため、疲れがたまりすぎて仕事にならないと言うことはないだろうな、と漣華はちらりと思った。
旧態依然とした習慣が蔓延る延唐でもそれはいずれ廃れ、新しい習慣や価値観が根付いていくだろうと思う。
その最たるものが漣華たち技官の扱う技術だ。
遥か西方の国々から海を越えてやってきた技術は、漣華たちが培ってきた技術とは一線を画す非常に画期的な優れた技術が多い。
特に冶金分野や科学技術分野と言ったものには目を見張る。
延唐には古くから伝わる火槍と言うものがあったが、二百年ほど昔に入ってきた鳥銃や更にそれを改良して作られたと言う銃身の中に螺旋を切ってあるものは、弾道も安定していて命中率も高い。
最近は外国勢力からの圧力も高く、政情不安も続いているせいか漣華たち技官にまで護身用の短銃が支給されているほどなのだ。
天下泰平を謳歌していたのも今や昔、延唐は諸外国から狙われる皿の上に置かれた肉のようなものだ、と漣華たちは思っている。
だからと言ってそれを口にすれば敵方に通じる間諜だと疑われても仕方がないので、絶対に口にはしないが。
先を行く瑯炎に付いて朝議の場へ歩みを進めていると、漣華に近寄ってきた男が居た。
漣華もそれなりに背が高いが、男はもっと高い。
身長は二公尺は軽く超えるだろう。
更に鍛え上げられた筋肉は男を更に大きく見せる。
そんな男が漣華にずんずん近づいてきて、やがて漣華の隣に並び、歩みの速さを揃えて共に朝議へと向かう。
「漣華どの、おはよう」
男の身分は高く、それ故に漣華は身分の高い方から声を掛けられるのを待たねばならない。
男の身体から発せられる圧力は非常に高く、遠くからでも男だと言うことがわかるくらいなのだ。
筋肉量もさることながら、その消費する熱量も膨大なのか、男の傍に居るだけで熱を感じる。
冬はいいだろうが夏場はできる限り近寄りたくはない。
「おはようございます、揮将軍」
歩く速度はそのままに、拱手をして見せて身分も職位も上の人間に挨拶をする。
揮亮暁、字を礼記と言う人間は漣華に注文してきた近衛府の重鎮だ。
将軍、と呼ばれた男はその答えに破顔し、人好きのする笑みを浮かべて見せる。
「揮将軍とは他人行儀な。是非、礼記と呼んでもらえないだろうか。」
そう言うと更に漣華との距離を詰めてきた。
漣華がそれに戸惑っていると、漣華の前方から礼記に声を掛けてきた人間が居る。
「これはこれは、揮将軍。おはようございます」
そうして歩みを漣華に揃え、漣華を挟んで礼記と並んで歩きだした。
そして漣華にちらり、と一瞬視線をやりじろりと上から下まで見聞するようにながめてから礼記に視線を戻した。
「で、うちの技官がどうかしましたかね」
瑯炎が占める技官の長の地位は非常に高い。
将軍位である礼記と同等もしくはその上位にあるとされるくらいの職位にはなるのだ。
「これは、瑯炎様。おはようございます」
そう声を掛けられて礼記は慌てて拱手を組み、目の前に掲げて腰を折る。
それを横目に瑯炎は漣華の腕をつかんでさっさか歩き出した。
漣華は引きずられるようにして歩みを早めるが、既に小走りになっている。
「一体何なんですか?」
朝の空気は非常に冷たい。
それが一気に鼻の中に入って来て、漣華の鼻腔の奥がツンとした痛みを訴える。
それでわずかに涙が浮かぶが、特に目立つものではなかった。
「気に入らん」
「は?」
漣華は聞こえてきた瑯炎の答えに思わず応えを返す。
上司の言葉は空耳だったのだろうか。
やはり疲れがたまっているのだろう、今度の休みにでも郊外にできたという温泉宿にでも行こうか。
そう瞬時に頭の中に考えを巡らせていると、瑯炎の視線を感じて慌てて目の前の男に意識を戻した。
「気に入らん、と言ったんだ」
瑯炎はそれだけを漣華の目を見て区切るように言うと、そのまましっかりと漣華の手を握り直し更に歩みを進める。
人の波を掻き分け掻き分け、前方へ身体をねじ入れるようにして漣華を引きずって歩く。
漣華はその手を振り切るわけにも行かず、されるがままにして付いていく。
そこに礼記がようやく追いついてきた。
「漣華どの!」
相当な速度で歩みを進めてきたと思うのだが、脚の長さに救われてかはたまた鍛え上げられた心肺能力のおかげか礼記は息さえも乱してはいない。
「昨日の注文ですが、できるだけ急いでいただきたい。付きましてはのちほど近衛府においでいただきたく」
話しかけてくる礼記の言葉を瑯炎がぶった切るように言葉を投げた。
「そのお話だが、弟子はまだ未熟ゆえ私が請けることに致しました」
礼記はその言葉にぽかんとした表情を見せたのち、まじまじと瑯炎の顔を見る。
「瑯炎様が?」
「ええ」
「あの注文を?」
「そうです」
しばらくまじまじと瑯炎と漣華の顔を見比べた後、礼記は破顔した。
「それは心強い。是非ともお願い申し上げます」
「打ち合わせとの話だったが」
「そうですね、もう少し話を詰めたく」
「わかりました。朝議の後伺いましょう」
漣華を挟んで、漣華抜きで話が進んでいく。
その状態に漣華が軽く息を付いていると、礼記が身をかがめて囁いてきた。
「漣華どのも是非ご一緒に」
礼記の吐息が耳に掛かり、ぞくりと背筋に何かが走る。
と、同時に昨夜見た淫夢と何故か後孔の奥に残る快楽の余韻を思い出して漣華は頬をほんのりと赤く染めた。
それを見て、礼記は嬉しそうに笑みを浮かべる。
「その後、食事でも」
礼記が空いたもう片方の手を掴もうとした途端、瑯炎はぐいっと漣華を自らの方に引き寄せた。
「あいにくだが」
瑯炎は礼記を見る。
目の奥に炎が煌めくような輝きを見せた。
「漣華は今日は朝から忙しい。しばらくはたまった仕事などを片づけさせるので、残念だが礼記どのにお目には掛かれないだろう」
瑯炎が礼記と見えない火花を散らしているのを横目に、漣華は自らの胎内でじんわりと熱をもたげてきた快楽の小さな炎をどうしようかと悩み始めていた。
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キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
狩野岑信 元禄二刀流絵巻
仁獅寺永雪
歴史・時代
狩野岑信は、江戸中期の幕府御用絵師である。竹川町狩野家の次男に生まれながら、特に分家を許された上、父や兄を差し置いて江戸画壇の頂点となる狩野派総上席の地位を与えられた。さらに、狩野派最初の奥絵師ともなった。
特筆すべき代表作もないことから、従来、時の将軍に気に入られて出世しただけの男と見られてきた。
しかし、彼は、主君が将軍になったその年に死んでいるのである。これはどういうことなのか。
彼の特異な点は、「松本友盛」という主君から賜った別名(むしろ本名)があったことだ。この名前で、土圭之間詰め番士という武官職をも務めていた。
舞台は、赤穂事件のあった元禄時代、生類憐れみの令に支配された江戸の町。主人公は、様々な歴史上の事件や人物とも関りながら成長して行く。
これは、絵師と武士、二つの名前と二つの役職を持ち、張り巡らされた陰謀から主君を守り、遂に六代将軍に押し上げた謎の男・狩野岑信の一生を読み解く物語である。
投稿二作目、最後までお楽しみいただければ幸いです。
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