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第二章 妃選び

52.ミモザの過去Ⅱ

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「まだ信じていたの?」

 まとわりつくような甘さを持った煙で、室内はかすんで見えた。硬い寝台の上で薄っぺらい毛布をかけられたミモザの母親はぐったりとしている。高熱のせいだ。額の汗をぬぐってやりながら、ミモザは声の方へと顔を向けた。派手な衣装と化粧をまとった女が、疲れた顔で立っている。片耳がちぎれた女だった。その耳は人間のものではなく獣のもので、ひと目で彼女が魔族だというのがわかった。この店にいるほとんどがそうだった。

「お嬢ちゃんはそうでもないみたいだけど」
「お嬢ちゃんじゃありません」
「そうね。でもここじゃそういうことにしといた方がいいよ」

 女はちぎれた片耳に触れながらそっと言った。ここでは子どもでいた方がいいと。





***





 教会で結婚式を挙げた後、ミモザと母は男が操る馬車に乗ってこれから暮らす家に向かった。母はしあわせそうだった。父が生きていた頃のようだった。御者台に座る男と穏やかに話す母をミモザは見守っていた。教会で感じた不快さはまだ胸に残っていたが、母のためにも気のせいだと思おうとした。

 しかし男の邸を見て、ミモザは眉をひそめずにはいられなかった。

 邸に着いた時はもう日も暮れていてその全貌は定かではなかったが、小さいが整えられた庭のあるその邸は広く、家令や執事、家政婦などの使用人もそれなりに抱えていた。「素敵なお屋敷ね」と母が素直に感心するのに対して、男は「これでもそれなりに稼いでいるんだ」とか「郊外だから安かったんだ」とか言っているのが聞こえたが、いくら実家が伯爵家で自身も商人としてそれなりに稼いでいると言ってもこんな屋敷に住めるものだろうか? それに、男は行商もしているのだから屋敷にいないことも多いはずだ……。

 男にエスコートされて屋敷に入っていく母のしあわせそうな背中を、ミモザは不安と警戒心を胸に秘めながら追いかけていった。



 ミモザの不安や警戒心を裏切るかのようにベライドでの新しい生活は穏やかに過ぎて行った。使用人たちが時折ミモザや母の角に不躾な視線を向けることはあったがそれ以上何かあるわけではなく、男が仕事で留守にしても屋敷の者たちが差別的な態度を取るようなこともなかった。
 男は行商もするがきちんとした店も持っていて、基本的にはそこで働いている。母は父が生きていた頃と同じくらい雰囲気が明るくなり、一方でミモザは捨て切れない不安と警戒心で、もう父が生きていた頃のようなただのミモザに自分は戻ることができないのだとあきらめていた。



 その日も、男はいつも通り店に仕事に出かけ、母娘は屋敷で穏やかな時間を過ごした。朝、男は出かける時に帰りが遅くなると言っていたので二人だけで食事をとり、早めにベッドに入った。どうしてかいつもより眠くなるのが早く、体調が悪いわけでもないのに体がだるく感じられた。ベッドに横になっても倦怠感は強まるばかりでミモザはあまり寝つけず、夢と現実があいまいになるような浅い眠りを繰り返していた。

 だから最初、部屋に誰かの気配がした時、ミモザはそれが夢なのだと思った。

 ぼんやりと目を開けると三、四人ほどの人影が部屋の中でこそこそと動いている。その内の一人がベッドにいるミモザをのぞきこみ、驚いたように声を上げたのを聞いて、ミモザはこれが現実のことだと気がついた。

「こいつ、起きているぞ!!」

 知らない男の声だった。すぐに別の人影が駆け寄ってきて、ミモザが重い体を起こそうとするのと同時に頭に強い衝撃が走った。ぐらりと頭の中が揺れ、薄暗い部屋の中でもはっきりとミモザは自分の視界が真っ黒に染まるのを感じた。





 次にミモザが気がついた時、体の下にガタガタと不愉快な振動があった。少しずつはっきりとしていく視界の中で、ミモザは自分がほろ付きの馬車の荷台に乗せられているのを察した。近くには母がぐったりと倒れている。ミモザも母もその手と足を拘束されていた。幸いただの縄だったため、ミモザは難なくそれをちぎってぐったりと意識を失っている母の傍へと体を寄せた。ゆすっても母は目を覚まさなかった。あの倦怠感は、もしかしたら何か一服盛られていたからかもしれない……。

 少しずつ馬車の揺れが大きくなり、道が悪くなっていく。外の様子はわからなかった。幌の隙間からのぞいても外は真っ暗だったからだ。もう夜も遅いのだろう。ガタガタと揺れる馬車の中、ミモザは母の体に手を添えたままじっとしていた。耳を澄まして外の気配に気をつけていると、やがて車輪が道を踏む音に混じってがやがやと雑然とした音が聞こえてきた。



 その馬車が止まった時、全てが音を立てて崩れ去って行った。



 たどり着いたその店は歓楽街の端っこにある娼館で、ミモザと母をここまで連れてきた男たちは二人をその店に放り込んだ。母はその時にはもう目を覚ましていて、怯えを隠しきれない瞳でミモザを庇うように抱きしめていた。でも実際は、ミモザの方が震える母を支えていた。

 端の方だとはいえ歓楽街なのにその娼館の周囲はやけにひっそりとしていて、客たちは人目を避けるように店を訪れていた。なぜならこの店の女たちのほとんどが、このベライドという国で蔑まれる存在である魔族だったからだ。その魔族を好むがこの店の上客だった。

 男たちはその店に雇われている者たちだった。ミモザと母にしたように魔族の女をさらって連れてきて、店から逃げ出さないようにするのが彼らの仕事だった。連れてこられた女たちはいつの間にかとても返せない金額の借金があったり、親しい相手を代わりに働かせると脅されたり、暴力を振るわれたりして逃げられない状況に陥っていた。
 それでも魔族なら成人男性とは言え相手がただの人間なら簡単に逃げ出せただろう。しかしその対策はきちんと立てられていた。この店で働く――というには給金もほとんどない――魔族にはみんな腕輪がつけられている。ミモザの母の腕にもあるそれは、一度つけると外すことができず、魔力を封じる力があった。
 子どもだからと思われたのかミモザにはその腕輪ははめられていなかったが、ミモザは母を置いて店から逃げ出すことはできなかった。幸いと言っていいのか、店の客には子どもを買う趣味の者はいないらしい。
 もしミモザの実年齢がバレたなら状況は悪くなるかもしれなかったが、母も、それから察しのいい店で働く魔族の女たちもミモザの年齢には決して触れなかったのでミモザはそのまま店の下働きとして雑用をこなすことになった。

 母はそうはいかなかった。そのために男たちは母をさらったのだから。母は娼婦として働かされることになったが、ふさぎこみ、心も体も弱くなっていった。しかし働かなければ店の男たちや客に暴力を振るわれ、ミモザを同じ目に合わせると脅されることになる。ミモザは抵抗しようとしたが、母はそれを許さなかった。弱い母だったが、それでも母なりにミモザを守ろうとしてくれた。

「薬は飲んだ?」

 耳のちぎれた女がたずね、ミモザはうなずいた。

「熱冷ましだけですけど……」
「飲まないよりマシよ――お嬢ちゃんは平気なの?」

 その視線がミモザの額あたりに向けられた。



 一昨日、男たちの元に普段は店にいない店主が訪れたらしい。店主が帰った後、男たちはミモザとミモザの母を呼び出すと、母娘には何の説明もなくその場にいたひときわ体格のいい男に命じて母娘の角を折ったのだ。

 宝石竜の角はどうやら人間には本物の宝石のように見えたらしい……。

 こういう者たちがいるから、宝石竜は身を隠しているのだとミモザは実感した。男たちはそれをどこかへ持っていき、ひそひそと折れた角はまた生えるのかどうかを予想しあっていた。ミモザは激痛に耐えながら、その会話が聞こえなかったフリをした。



 母の汗をぬぐい、折れてしまった角にそっと触れた。母は角が折られたことで精神的にも肉体的にもショックを受け、こうして高熱にうなされている。元々弱っていたせいもあっただろう。ミモザは元々体調面での問題がなかったことと、単純に母よりも強いためこうして平気でいられるが、調子がいいわけでもない。

「早く治した方がいいよ」

 心配そうに耳のちぎれた女は言った。彼女はミモザの傍に近づくと、床に膝をついて母娘に顔を近づけた。

「ここだけの話、この店で使いものにならなくなった子はどこかに連れ出されて、行方がわからなくなってるんだよ……」
「行方が?」
「この街ではどの店の娼婦も病気なんかすると店を追い出されて、はずれにあるゴミ溜めみたいな場所に行くの。どこの店にも入れてもらえない厄介者や貧乏人とかの相手をして食いつなぐしかなくなってね……」

 魔族だろうと誰だろうと本当ならそのゴミ溜めに行くという。

「でもこの店から出された子はそこにはいないんだよ……もっとタチの悪いところに売られてるんじゃないかって」
「タチの悪いところって?」
「この国はあたしらのことをバカにするヤツらばっかりだけど、そういうヤツらがマシだと思うくらい嫌な趣味のヤツらがいるんだよ。魔族をバラバラにしたり、他の生き物と番わせようとしたりね……そういうヤツらはみんな金を持ってるから、高く売れるらしいよ」

 女は軽蔑しきった口調で吐き捨てた。そういうことに詳しいのは、客の一人がおしゃべり好きで女を怖がらせるためにそういう話をよくするかららしい。

「お嬢ちゃんも気をつけなよ。あたしらと違ってこれがないから、いざとなれば逃げ出せるだろうけど」

 腕輪に触れながらそう言った女の言葉をミモザは受け入れた。でも母を置いて行くことはできない。ミモザのそんな内心に気づいたのか、「何かあったらいつでも言って」と女は告げて部屋を去って行った。

 ドラゴンは強い種族だが、母はすっかり弱っている。母を連れて逃げ出すべきか……しかしベライドにいる限りは状況はよくならない気もした。ここがベライドのどこかわからない。星明けの山脈に向けて飛べばいずれは暗闇の森にたどり着き、魔族の国であるザルガンドに入ることができるが……。



 脳裏に、夜の闇を思わせる黒が過った。



 ザルガンドに行けば、彼が助けてくれるかもしれないと思わない日はなかった。でもできれば今世は、彼に出会わないようにしたい……事態が改善するのは間違いないけれど、彼の人生をもう縛りつけたくはないのだ。ミモザが彼に会えば、彼はきっとまたミモザを愛してくれるだろう――前世での、約束のために。

 ミモザは母の角に触れている手に力をこめた。角が生え変わらないように魔法をかけるためだ。母の許可なくやるのは気が引けたが、角が生えればまた折られてしまう以上きっと許してくれるはずだ。自分の角にも同じ魔法をかけておく。
 それに、母が寝込んでいる間はミモザが外から母の体が本来の姿――ミモザは生まれてから一度も見たことがないドラゴンの姿に戻らないようにしなければならない。母につけられた腕輪は魔力を抑える物だが、本来の姿が人間と全く違う魔族が本来の姿に戻ってしまわないようになっているらしい。人間がそんな物を作れる気がしないので、この店には魔族も関わっているのかもしれない……。

 それからしばらくして母は回復し、ミモザが角の生え代わりを防ぐために魔法をかけたことにも理解をしてくれた。しかしミモザが逃げ出すことを提案すると、数日つづいた高熱のせいで視力が落ちてしまったこともあって母はミモザに一人で逃げるように告げたのだった。



 結局、ミモザは母を残して逃げ出すことはできなかった。



 状況を打破する手がかりになればと店を抜け出して周囲を探ったり、耳のちぎれた女が話してくれた行方不明者の行先を探ったりはしたが、結局何もならなかった。そして五年近く時が過ぎ、ミモザはついに店を逃げ出す決意をすることになった。





 理由はたった一つ――母が亡くなったからだ。





 最期の一年、母は病気だった。母も行方不明者の噂のことを知っていたので、自分が病に倒れて店を連れ出されることになればその後のミモザがどうなるかわからないと考えたようだった。客を取らされるかもしれないし、もっと悪ければここより酷いところに売られるかもしれない。母は弱かったが、ミモザを愛してくれていたし、母なりにずっと守ろうとしてくれていた。
 母は病気を隠し通し、ある寒い日の朝とうとう息を引き取った。街がまだ静かな早朝のことで、ミモザは店の男たちに母が死んだことを知られる前に娼婦たちに協力してもらって母の遺体を火葬することにした。ミモザの魔力で遺体の姿が本来の姿にならないようにしているが、ずっとそれを保てるわけではない。遺体とはいえ本来の姿に戻れば、店の男たちに鱗や爪をはがされてしまうかも……そうなったら、耐えられないだろう。

 ミモザは魔法で母の角を折れる前の状態に戻し、殴られたり鞭で打たれたりした痕を綺麗にした。棺はなく、近くの汚れた水が流れる川にずっと前から捨てられていた穴の開いたボートを持ってきて母をそこに寝かし、店に飾られていた花を少しもらって一緒に入れた。すっかり痩せてしまった母はどこか穏やかな顔をしている。火は静かに燃え上がり、冷たい空気の間をゆっくりと煙が天へと昇って行った。母は、父に会えただろうか?



 不意に、彼に会いたくなった。でもそれは叶わない。



 燃えた遺体の灰は耳のちぎれた女がくれた綺麗な箱につめた。アルディモアに行こうと思った。生まれた村の、父のお墓のとなりに母を眠らせてあげたい。ミモザがそれを告げると、女たちはやさしくうなずいてくれた。

「あたしらのこと、忘れないでね」

 最後に耳のちぎれた女がそう言った。彼女はミモザが旅立つことを満足そうな顔で見送ってくれたのだった。


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