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第二章 妃選び

49.宰相ベレナングレン

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 夜が明けて間もない白い空は清涼な空気を湛えていた。ザルガンドの名も無き王都の中枢区はまだ静寂に支配されているが、耳をすませば遠くの方で使用人たちが動きはじめる物音がした。
 目の前の男は、見た目だけならこの白い空と似た雰囲気を持っている。その横顔から視線をそらし、旅行用の頑丈なブーツに包まれた足元にある荷物へと視線を向けた。

「そんな顔が通じるのは陛下くらいだ」

 男は言った。

「……そんな顔ってどんな顔です?」

 目の前の男にうらめしそうな視線を向けながらシトロンは口をとがらせた。

「鏡を見れば好きなだけ見られる」

 男はそっけなくそうつづけて、手に持っていた旅用の外套を羽織った。

「まあ、ある程度の問題ならお前の力でどうにかなるでしょう、シトロン。どうにもできない場合は陛下を引きずり出しなさい」
「はあ……」

 シトロンは不安だった。男の目は何の感情も無く目の前の魔獣族の青年を見つめている。

「シトロン、それから」

 しかしその声は注意深くシトロンの耳に響いた。

「これだけは気をつけろ――絶対に、」





***   ***





「どうされたのです?」

 忌々しい気持ちでドゥーイは目の前の人間の客人を見た。ドゥーイとの会談を申し込んできたイシルマリの伯爵――カルス伯ラファエルはドゥーイを心配するかのように声をかけたがその瞳は冷ややかだ。人間の国の爵位についてそれなりに知っているドゥーイは招待客としてイシルマリから伯爵が来ると聞いた時疑問に思ったのだが、蓋を開けてみれば今でこそ伯爵だが彼は王弟の嫡男でリリアナの従兄にあたり、いずれは公爵位を継ぐ身だった。

 もし下手なことを言えば、すぐにイシルマリの王家へ伝わるのだろう。

 彼との会談は最初、このザルガンドでのリリアナの様子についての話題からはじまった。ドゥーイとしては妃候補の本命はベライドのローズだが、リリアナを褒めちぎり、王妃の座は近いとほのめかした。
 ラファエルがそれを本気にしたかはわからない。ラファエルは特に目立った反応もせず、それから話題は国交を開いた場合、お互いの国にどんな利益があるかに移り、その流れでイシルマリのある商会――それはドゥーイの商売相手でもあった――が、イシルマリで法を犯したことをまるで世間話のように告げたのだ。

 ドゥーイはザルガンドの財務大臣であり、今は妃選びを気にしていることもあって普段よりは各国にある自分の商会に目をかけることができずにいた。と言っても、部下たちに定期連絡は必ずさせていた。イシルマリの取引相手に問題が起きたことも情報として入ってきてはいたが、詳細はまだ届いていない――そんな時だった。

 ドゥーイが表情を強ばらせたことを見逃さず、しかし何でもないようにラファエルは「どうしたのか」とドゥーイにたずねた。「何でもない」と答えると、ラファエルは世間話のつづきのようにその商会が何をしていたのか――人身売買を含めた違法な取引を行っていたこと、魔族も被害にあっていること――を語った。内容自体はざっくりとしていて噂話の域を出ないものだったが、ラファエルがそれ以上のことを知っているのだとドゥーイは判断した。

 この話題に、どう受け答えをするのが正解なのか……ドゥーイはもちろん、商売相手がしたことについて知っていた。彼らがどうやって違法な薬物の売買や人身売買を行っていたのか――そのやり方だってわかるだろう。
 ここで下手なことを言えば、彼も共犯だと思われイシルマリに糾弾される。しかしそれ以上に、ザルガンドに知られたら彼の立場はまずいものになる。

「顔色が優れないようですが?」

 追い詰めるようにラファエルが言った。

 冷たい手がじっとりと背中を撫でたような感触がした。脳がめまぐるしく動いているが、無難な答えを見つけることができない。しかし素知らぬフリをするには動揺を表に出しすぎてしまった。



 どうしたら――



 更に問いつめようとラファエルが口を開いたその時だった。





 王宮が、揺れた。





***





 そのことにガーディアが気づかないはずがなかった。





 心臓と、のどの奥がざわめくのを感じ、ガーディアは思わず立ち上がった。目の前にはザルガンドの地方から来た客人二人と宰相府の役人がいるが、彼の視界にはもう誰も入ることはできなかった。同席している者たちもとても咎められなかっただろう。

 夜に浮かぶ月を思わせる金色の瞳が怒りで赤く燃えている。その強大な魔力が膨らんだかと思うと、その応接室のガラスというガラスが軋んだ叫び声をあげた。部屋にいた三人は魔族だったからこそ、その場に凍り付いたようにじっと身を固めていることしかできなかった。動くことなど、できるわけがない。ガラスの軋む音は限界を迎え、耳を裂くような音を立てて辺り一面にその破片が飛び散った。

 その怒りと飛び散るガラスの欠片から逃れるように三人は咄嗟にそれぞれ自身の腕で自身をかばったが、次に顔を上げた時、その怒りの発生源だったガーディアの姿は消え失せ、夜の深い闇の気配だけが残っていた。





 その夜の闇の気配を、このザルガンドの名も無き王都にいる魔族たちは誰もが感じ取っていた。





 それはミモザも、シトロンも同じだった。



 しかしミモザは目の前の男に向ける自分自身の怒りでいっぱいで、その恐ろしいまでの夜の闇に気づいてもそちらを気にすることはできなかった。

 一方でシトロンはより速く動ける獣の姿で、血の気配がする方へ風のように廊下を駆け抜けていたが、その脳内には以前言われた言葉が警鐘のように鳴り響いていた。



――シトロン、これだけは気をつけろ。絶対に、



 シトロンがその場に着いたのは、ガーディアがその場に着いたのとほぼ同時だった。

 目の前で、シシー・バラガンの父親に角をつかまれたミモザが罵られ、暴力を振るわれている。その顔の殴られた痕はもちろん、つかまれた角の付け根から滲む鮮血にシトロンは一瞬脳内に響く警鐘を忘れ、その黄金色の毛を逆立てた。

 そう、ほんの一瞬だ。

 シトロンとは反対側から現われたガーディアの姿を視界に入れた瞬間、シトロンはその身を縮めて、ただその場に立ち止まることしかできなかった。警鐘が、鳴る。



――絶対に、ガーディアを怒らせてはならない



 夜の闇が、強まる気配がした。



「貴様――!!!」

 吠えるような声がその場に響くと同時に、王宮が――いや、この名も無き王都が揺れ、何かが爆発するような音が空にこだました。闇が辺りを呑み込み、その中でガーディアだけが燃えるような存在感でその場に立っていた。

 シトロンさえも動くことができない中、ミモザは自分の角をつかんでいた手が離れるのを感じた。悲鳴すら上げられず、恐怖から逃げるために気絶することさえできないラングドールが尻もちをついた音にミモザはハッとして咄嗟に身を翻した。

 伸ばした腕の中、自分よりもずっと大きくたくましい体がぶつかってくる。

 心臓に何か鋭利なものを突き刺されたような恐怖が走ったが、それをこらえてミモザはしっかりとその体を抱きしめた。しかしその咆哮を止めることはできなかった。吹き飛ばされたラングドールの体が床に何度かぶつかり、その場に倒れ伏しても、ミモザは抱きしめた体を放すことはできなかった。

 そうしなければ、ガーディアの鋭い爪が留めとばかりにラングドールを貫いていただろう。

「ミモザ……!!」

 なぜ止めるのだと、ガーディアの目が訴えていた。ミモザだってラングドールに怒りを覚えているが、だからと言ってガーディアが手を下すのをそのままにするわけにはいかない。彼を恨んでいるのは、ミモザだけではないからだ。

 話さなければならないとミモザは心に決めた。

 その怒りの中で意識を手放すことさえ許されず、ラングドールは這ってでもその場から逃れようとしたが、動けるようになったシトロンが人の姿に戻りその前に立ちふさがった。牙をむく狼の前に情けない声を上げるラングドールを、彼は容赦なく拘束した。
 シトロンもまたラングドールに怒りを抱いていたが、それ以上にガーディアの様子に恐れを抱いた。ラングドールを拘束したことでこの男に向けられる怒りを真正面から受け、背中からごっそりと体温が抜け落ちてしまう感覚に襲われた。

「貴様、ミモザにこんなことをしてただで済むと思うなよ……!!」
「ガーディア」

 ミモザはできる限り穏やかに彼の名前を呼んだ。辺りは夜のように暗いままだ。ミモザの声もガーディアには届かないのだろうか? 抱きしめる腕に力をこめ、訴えかけるようにのどを鳴らしても夜の闇はますます深くなるばかりだった。



「一体なんの騒ぎです?」



 その時、その場を支配する怒りの空気をものともしない声が静かに落とされた。

 闇を照らすような金色がやわらかに揺れる。ミモザは紫色の瞳を丸くし、突然現れた男をマジマジと見た。そう、本当に突然現れたのだ。まるで最初からそこに存在していたかのように。

 ミモザに抱きつかれたままだったガーディアの怒りが薄まったのを感じた。見上げると彼は「しまった」というように顔をしかめていた。シトロンにいたっては先ほどまでのガーディアの怒りをぶつけられていた時よりも真っ青になっている。

「あれほど陛下を怒らせるなと言ったのに」

 向けられた冷たい視線にうなり声にも聞こえるため息をガーディアが吐くと、辺りを包んでいた夜の闇が消えてなくなり、午後の日差しが廊下を照らした。その日の光の下で、男の薄い色合いの金髪が輝いている。ハーフアップにされたそれは複雑な形で編みこまれ、植物を模した飾りがつけられていた。耳の先はとがっていて、やさしげな新緑色の瞳がその穏やかな風貌を際立たせている。

 ただし、やさしげなのも穏やかなのも見た目だけだ。

「ベ、ベレナングレン様……」

 怯えたシトロンの声が廊下の空気を震わせた。

「理解できていなかったのか? シトロン」

 かわいそうなくらいシトロンの肩が跳ね、ミモザは同情した。しかし口を挟めば矛先は自分に向くことをミモザはちゃんと知っていた。今世で彼に会うのははじめてだったが。





 このザルガンドが建国された時から、ベレナングレンは宰相という地位にいる。

 暗闇の森を領地とするザルガンドの中でも、星明けの山脈のふもとに位置する思考の森と呼ばれるエルフたちの地で生まれたこの冷徹なエルフはこのザルガンドが建国される以前からガーディアとは顔見知りだった。
 ザルガンドが建国される際に、国というものを作ることに興味を示していたのはむしろベレナングレンで、ガーディアは今は王都となった名も無き森で暮らすことをただ望んだだけだった。

 二人はザルガンドを作り、ガーディアが王となりベレナングレンは国を動かす宰相となったが、その役割を決めたのも彼だった。ベレナングレンはガーディアができる限り王都から出ないことを望み、ガーディアもそれを納得していた。



 国を離れるにあたって、ベレナングレンは自分がいなくても宰相府の者たちならばうまくやるだろうということはわかっていた。そういう風に彼は部下を育てて来たからだ。しかし宰相府でも軍部でもどうにもならないことが一つだけある――それがこの国の王であるガーディアのことだった。

 もしガーディアが怒り暴れるようなことがあればそれを止める術がない。

 それはベレナングレンがいても変わらないかもしれないが、いないよりはマシだろう。昼間の明るさを取り戻した窓から見える空をちらりと見上げ、ベレナングレンはこの状況を今一度視界に収めた。

 青ざめた顔のシトロンが取り押さえているのは人間らしい――なぜここに人間がいるのかはこれから聞くとして、それよりも気になるのはガーディアの傍にいる若いドラゴンの娘だった。彼女が何者か、ベレナングレンはひと目でわかった。ガーディアの怒りの原因も。





 このザルガンドの宰相であるベレナングレンは、エルフらしい美しくやさしげな顔の中でその瞳にはっきりと冷めた色を浮かべていた。


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