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春Ⅴ:大使館へ
しおりを挟む「お時間をいただき、ありがとうございます。殿下、フィア様」
王都のはずれにあるナインディア大使館は高い塀に囲まれた、青い屋根が印象的な美しい屋敷で、決して広くはないがこぢんまりとよく整えられた中庭があった。その風景を見渡せる応接室に、リラトゥアスはフィアを伴って訪れていた。
護衛は部屋の外にいるため、室内には最低限の人数しかいない。テーブルを挟んだ向かい側には大使夫妻が座っていた。侍従はローガンだけを連れてきたが、ナインディア側も給仕をするために男女一人ずつ使用人を控えさせているだけだった。
応接室と言っても形としては小さな食堂といった風で、中央に置かれたテーブルには端に小さな野花をあしらった刺繍がされたクロスがかけられている。
テーブルの上で整列したカトラリーは晩餐ほどの量ではなく必要最低限しかないが、クロスと同じ植物がモチーフとして使われていた。使用人が給仕するのは野菜をメインにした軽食で、色鮮やかなテリーヌやスープ、スライスしたパンの上にソースに絡めた肉や魚が乗ったものなどから選んだ何品かを少しずつ、目の前の皿に並べていく。それを濃いめの茶と共に楽しむのが一日四度の食事をする習慣のあるナインディアの、二回目の食事風景だった。
「それにご足労もおかけしてしまい、申し訳ありません」
「かまいません。王宮ではない方がいい理由があったのでしょう」
給仕係の使用人がそれぞれの皿に料理を乗せ、ソースや付け合わせの野菜で彩っているのを見ながらあいさつをすませると、ナインディア大使が口を開いた。
大使は丸顔の穏やかな風貌の男で、薄茶色の癖のある髪がその雰囲気をより柔和にさせていた。そのとなりに座る大使夫人は皇帝の姪で、ナインディア皇家によく見られる美しい黒髪と、緑色の瞳を持つ艶やかな美女だ。彼女がふっくらとした夫と並ぶとお世辞にもお似合いとは言えない夫婦ではあったが実際は仲睦まじかった。
「フィア様は我がナインディア帝国の者としてフォルトマジア王家に嫁ぐのです。一度、きちんと親睦を深めたいと思っておりました。そのためには腹を割って話すのが一番だと思ったのです」
「王宮ではそれが難しいと?」
「フィア様がどのように噂されているか我々は知っています」
大使は変わらぬ口調で告げた。この席はある程度無礼講でということにしてあるが、さすがにリラトゥアスは片眉を上げた。
「もちろん、そもそもの問題はゼアマッセル辺境伯にありますが……あまり多くの耳がある場所で話さない方がいいこともあるでしょう」
「ナインディアとしてもわたくしども個人としてもフィア様と殿下の婚約が問題なく結ばれることを祈っておりますわ」
大使夫人はフィアへと視線を向けた。
「冬にこちらにいらしていただいた際は、ごあいさつができずに申し訳ありません」
「いいえ、わたくしの方こそ色々と準備をしていただきありがとうございました。本当に助かりました」
「気になさらないで。選んだのはわたくしですが、わたくしたちのおじい様が協力してくださったのです」
大使夫人であるティフェーヌ・カスタニエは皇帝の姪――つまりフィアの従姉で、彼女の父親がフィアの母の兄だった。ナインディアの前皇帝である二人の祖父は祖母と共に王領の避暑地で悠々と隠居生活を楽しんでいるらしい。
「おじい様――前皇帝陛下はフィア様のことを心配されていました。しかし、身分としてはこちらの国の辺境伯令嬢ですし、父君であるゼアマッセル辺境伯が問題ないとナインディアに報告していたので口を出すのも難しく……」
「ですが、フィッツ゠グリン子爵夫人がきちんと詳細を報告し、援助を求めてくださったので教育などできる限りで手助けはしていましたの。冬にゼアマッセル辺境伯が勝手に予定を変えたこともすぐに報告してくれて――フィア様が何事もなく王都に到着して本当に安心しました」
フィアが浮かべた愛想笑いにどこか困った様子があるのをリラトゥアスは見逃さなかった。だがナインディアがフィアの育った環境についてあれこれ口を出すのが難しかったのはわかる。フォルトマジア王家だって同じだ。リラトゥアスの婚約者になることが決まっていたとはいえ、彼女はあくまで辺境伯家の令嬢なのだ。
「まあ、何を言っても言い訳ですわね」
きっぱりと大使夫人は言った。
「それのお詫びも兼ねて、皇帝陛下から婚約祝いを預かっております」
大使が言葉をつづけ、上着の内ポケットから一通の手紙を取り出した。ナインディアの国章が入ったそれは皇帝からの手紙で間違いない。リラトゥアスは驚いて大使を見たが、彼はにこりと笑ってうなずくと手紙を読むよう二人に勧めた。リラトゥアスとフィアに宛てた手紙だった。
「……これは……」
困惑したようにフィアはつぶやいて大使夫妻を見た。リラトゥアスも難しい顔で手紙を読み直している。
「内容のことは、私どもも聞いております」
大使は言った。
「殿下とフィア様には必要なものかと思いますが、いかがでしょう?」
「……私たちだけでは判断がつかない。陛下に相談しなければ」
「返事はいつでも構いません」
「わたくしは皇帝陛下にお会いしたことがないのに、どうしてここまでしてくださるのでしょう?」
「かわいい姪っ子ですもの」
「姪も甥も多いと聞きます。それに、皇子殿下や皇女殿下もいらっしゃいます」
「陛下は妹君――フィア様のお母上がゼアマッセルへ嫁いだことで一番被害を受けたのは両国ではなくフィア様だとお考えです」
答えたのは大使だった。フィアは釈然とせず、どこか不安げにリラトゥアスを見上げた。
「それほど気にすることじゃない」
フィアの肩に手を置くと、彼女は不安をこぼすようにそっと息を吐いた。
「単純にこの方がナインディアにも都合がいいのだろう」
「はっきりと言いますね」
「腹を割って話す場なのでしょう?」
リラトゥアスの言葉に「そうでしたね」と大使は笑った。
「元々あった同盟をより強固なものにしようと持ちかけたのはナインディアだったのはお二人ともご存知でしょうか?」
「ええ――ナインディア帝国の隣国ドルトゥムナを牽制するために元々同盟関係にあった我が国との関係がより強固になったことを示す必要があった。婚姻は、その手段だ」
「こちらの国の爵位のことを考えると、婚姻を結ぶのは王家でなければ意味がない。せめて他の公侯爵家か――しかし、そうはならなかった。だからこそ、殿下とフィア様の婚姻は問題なく結ばれていただきたいし、我々はフィア様を大切にしているということを他国に示さなければならないのです」
「もちろん、親戚ですもの。そういう建前を抜きにしてフィア様と親しくしたいとも思っていますわ」
夫人がそうつけ足すとなりで大使はお茶を飲み、のどを潤した。
「春始の夜会ですが――」
大使は言った。
「皇帝陛下の名代として第二皇子殿下が来られるそうです」
「第二皇子殿下が?」
春か秋の夜会のどちらかにナインディア皇帝の名代が訪れることは今までもあったが――もちろん、ナインディアの主要な夜会にフォルトマジア国王の名代が赴くこともある――そこまで皇帝に近い者が来ることは少なかった。
「ええ、妃殿下は身重なのでお一人で――それで、ぜひ従妹殿のはじめての夜会をエスコートをしたいと」
フィアは思わずリラトゥアスを見た。
「私は正式にはエスコートできないんだ。私たちの婚約はまだ主家会議の承認を得ていない……君が社交界にデビューしてから会議に通すことになっているから」
「そうなのですね……」
はじめての夜会に不安と緊張は当然あった。リラトゥアスが一緒にいてくれたら心強かったが、基本的にはじめての王宮の夜会は家族にエスコートされるものだというのはフィアも知っていたし、そういう理由もあるならば仕方ない。
「……ナインディアの皇子殿下がエスコートしてくれるならそれに越したことはない。それに、少しくらい私も傍にいられる時間があるはずだ」
フィアの表情にほっとした色が浮かび、リラトゥアスは何となく落ち着かない気分になった。「仲睦まじくてよろしいですわ」と大使夫人の楽しげな声にますますその気持ちは増して行った。
その後もいくつか話をし、リラトゥアスはフィアと帰路についた。いつも通りあまり表情の変わらない彼女だったが、従姉とその夫に対しては多少なりとも心を開いたようだ。従姉である大使夫人が見た目に反してさっぱりとした面倒見のいい性格で、フィアのことをよく気にかけてくれたのも大きいだろう。意外にもフィアはそういうタイプの女性に親しみを覚えるようだった。
馬車はゆっくりと王宮に向けて走り、斜向かいに座るフィアはぼんやりと外の風景を眺めていた。
「何か気になるものでもあったのか?」
その横顔を見ていると、どうしてか話しかけなければという気持ちになってくる。彼女が窓を開けるようになって以来、閉じられた場所にこうして一緒にいる時に彼女の表情に陰りが帯びるのがかえって気になるようになっていた。
リラトゥアスに不意に声をかけられ振り返ったフィアは、自分がどんな表情で外を見ていたのか知らないのだろう。リラトゥアスもまた、それを彼女自身に指摘していいのかわからなかった。ただ、こうして視線を自分に向ければ彼女の表情から冬の曇り空のような色はなくなるのだけはわかっていた。
「いえ――」
少し考えるように首を傾けてから、フィアは首を横に振った。ゼアマッセルにいた頃はもちろん、今も――実家のように軟禁されてはいないとはいえ外に出る機会は多くない。流れて行く街並みやそこに生きる人々の姿は、フィアの目にはいつだって新鮮に映った。
ただ今日は、その光景にいつもよりも引きつけられなかった。それがなぜなのかはわからないけれど……。
「それなら、何か考え事を?」
フィアは返事に迷っているようで、ほんのわずかに視線を下げてしまった。
「……夜会が不安か?」
リラトゥアスはもう一つたずねた。
「それは……たぶん、少し」
「君の家族も出席するからな……大使たちが気を遣ってくれると思うが」
「いえ、父たちのことは――その、気にはなるのですが……」
遠慮がちにフィアはつづけた。
「殿下が……エスコートをしてくださると思っていたので……」
思わぬ言葉にリラトゥアスは目を丸くした。大使館での落ち着かない気分がぶり返し、のどの奥がかゆいような気さえした。
「知らない方も多いですし、殿下がいてくださったら……」
「……できる限り、傍にいるようにする」
難しいことなのはわかっているはずなのに、気づけばそう答えていた。いや、周囲にきちんと根回しをしておけば意外と何とかなるかもしれない。フィアとの婚約は、まだ主家からの承認を得ていないというだけでほぼ確定事項なのだ。ナインディア皇帝からの婚約祝いのこともある。
「ナインディア皇帝からの婚約祝いのことだが」
落ち着かない気分を吹き飛ばすためにも、リラトゥアスは話題を変えた。
「父上――陛下には私から話すが、断る理由はないだろう。君の方からも皇帝陛下に一筆書いてもらうことになると思うから、心に留めておいて欲しい」
「はい」
「しかしそこまでするとなると、最近のドルトゥムナに警戒するべき動きでもあったのだろうか……?」
「ドルトゥムナの動きはあまり入ってこないのですか?」
「ナインディア帝国が間にある分、距離があるからな……定期的に情報は得ているが、そうすぐに最新の情報が届くわけでもない」
「そういう魔術があったらいいのですが……」
「そうだな――今度、魔術師団に提案してみるか……聞くまでもなく研究していそうだが」
「魔術師団……」
魔術師団はその名のとおり、国の優れた魔術師たちによって結成されている組織だ。騎士団と協力して国の防衛にあたることもあったが、日々の業務はどちらかと言えば新しい魔術――特に人々の生活の役に立ちそうなもの――を開発することが主だった。
「魔術師団に興味があるのか?」
そうたずねると、フィアは困ったように首を傾げた。彼女にとっては自分の感情を判断し、名前を付けることは難しいのかもしれない――リラトゥアスは空色の瞳の奥にある感情を少しでも見つけようと、静かに視線を合わせた。
「……時間をとって見学に行こう。騎士団も――一度自分の目で見ておいた方がいいだろう。春始の夜会の後になってしまうかもしれないが」
フィアは小さくうなずいた。
「その時は、私が案内をするから……」
空色の奥に喜びの色を見つけた気がして、リラトゥアスはそれをこぼさないようにそっと視線をそらしたのだった。
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