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春Ⅰ:春始の月
しおりを挟むおそるおそるという様子で、フィアは寝室の窓を開けた。まだ冷たさの残る朝の澄んだ空気が寝室に足を踏み入れたのを感じながら、ほっと息を吐く。
一年の三番目の月がはじまると、日中の寒さはやわらぎ、これから庭を彩りはじめるであろう新芽が産声を上げはじめた。フィアがこの王都で暮らしはじめてひと月が過ぎ、穏やかな、それでいて心のどこかがいつもそわそわしているような、そんな日々を送っていた。
朝の空気をゆっくりと吸い窓からそっと離れると、ベッドサイドにある小さなテーブルにあるトレイを持って、寝室からつながる浴室へと向かう。トレイの上にある水差しと小さなボウルはフィアが起きた時に使用人が持ってきてくれたものだ。
寝起きの口をすすぐためのそれを、ゼアマッセルにいた頃は自分で用意していた――それ以外も大抵のものは自分で用意しなければいけなかったが――当然片づけるのも自分でやらなければならなかった。
しかしここはゼアマッセルではない。本来なら片づけるところまで持ってきた使用人の仕事のはずだった。が、この部屋にはフィアしかおらず、持ってきた使用人も、その後の身じたくを手伝ってくれるような侍女もいない。しかしフィアはそのことに疑問も抱かず、当たり前のように水差しとボウルを片づけ、顔を洗い、髪を整え、自分でも着られる衣装を選んで着替えると、あっさりと朝のしたくを終わらせた。
「また一人で朝のしたくをしたのね」
朝のしたくを終えた直後、白銀宮のフィアの部屋を訪れたのはリラトゥアスの妹である王女、マリアローゼの侍女だった。フィアに今日の予定が特にないことを知っていたのだろう。午前中であるが話し相手になって欲しいという申し出に、フィアは了承の返事を出したのだ。
フォルトマジアの王族が住む瑠璃宮――その一階にある応接室の一つからつづくコンサバトリーは六角形の屋根を持つガラス張りの一室で、まだ少し空気が冷たいこともあるこの季節を過ごすにはぴったりの部屋だった。木目が美しい白い床の上に敷かれたやわらかな絨毯の上には猫足のかわいらしい家具が揃えられ、庭が見渡せるガラスの壁際には、その庭園を風景画に切り取る額縁のように、鮮やかな緑色の植物が飾られている。
空色の長椅子にゆったりと腰かけているマリアローゼは豊かな金髪と、リラトゥアスよりも少し色合いの薄い青の瞳を持つ気の強そうな女性で、未来の義妹ではあるがフィアよりも二つ年上だった。
冬の間、時間を持て余しがちだったフィアにリラトゥアスが紹介して以来、マリアローゼの誘いでよくこうしてゆったりとお茶をしながらおしゃべりをするようになった。もっとも、フィアはそれほどしゃべらないので口を開くのはもっぱらマリアローゼの方だったが。
「早くからごめんなさいね。午後から予定があるのだけれど、その前にあなたに紹介したい人がいるの」
向かい側の長椅子にフィアが腰を下ろすのを見ながら、マリアローゼはそう言った。それからフィアの今日の姿を確かめて、彼女が朝のしたくを一人でしたことを言い当てたのだ。
「またお兄様が頭を抱えそうだわ」
マリアローゼはからかうように言った。
「わたしたちくらいの身分の者が自分のことを自分でするのはあまりよくないのよ。他人の仕事を奪ってしまうし……」
「申し訳ありません」
「まあ、でも、あなたに付けられた使用人たちにも問題があるのよね」
マリアローゼの指摘はもっともだ。フィアは不安になって眉を下げたが、マリアローゼは何でもないように「これから気をつければいいわ」と告げた。
「それで、フィア様、あなたに紹介したい人がいるの」
マリアローゼの視線を追い、彼女が座る長椅子のとなりに置かれた一人がけの肘掛け椅子に姿勢よく座る女性を視界に入れた。涼しげな目元ときゅっと結ばれた口元の女性は同年代だが雰囲気だけすれば気難しい家庭教師のようだった。
「カリン・ヘリツェンよ。わたしの傍仕えをしてくれているの」
「ニーアーライヒ旗手、ノースキルト伯爵家のカリンと申します」
ハキハキとした口調でカリンがあいさつをした。
フォルトマジアや近隣国の貴人に仕える者の中で“傍仕え”は、使用人である侍女や侍従のように貴人の身の回りの世話などをするわけではなく、主人の傍に控え、話し相手になったりちょっとした相談事をしたり、出かける時のお供をしたりすることが仕事だった。
この国で言えば、主家の人間の傍仕えはカリンのように旗手と呼ばれる一部の伯爵家か旗下と呼ばれる子爵家――この国では旗下ではない子爵家は存在しない――の者が選ばれることが多い。
“旗手”伯爵家は主家の直接の臣下で、主家が治める地方に領地を持っていた。国の貴族ではあるが、旗手ではない伯爵家と違ってその任命などの権限は主家が持っており、旗手の意識もまた主家の臣下であるということの方が強い。
王家にとっては辺境伯家が旗手にあたるが、現王家であるデュアエルがほぼ永続的にフォルトマジア王家を務めることになった際に領地の見直しが行われ、デュアエルの膝元ではなくフォルトマジアの辺境に領地を与え辺境伯となった経緯があった。
「ニーアーライヒというと、マリアローゼさまの……」
「ええ、わたしの嫁ぎ先よ。でも彼女は婚約が決まる前に選んだ“学友”で、学院を卒業してからそのまま傍仕えをお願いしているの」
学友は王族が王都にあるアーケアネス王立学院に通うために選ばれるご友人だ。
「傍仕えは他にも何人かいるけれど、とりあえずカリンだけは紹介しておこうと思って」
つまりその何人かいる傍仕えの中でもマリアローゼはカリンを特に信頼しているということだろう。
「あとは機会があったら紹介するわ。暖かくなってきて、貴族たちが王都に集まって来たし……わたしの婚約者も到着したら会って欲しいわ」
「はい、ぜひ」
「お兄様も一緒に四人でお茶をするのもいいかもしれないわね。観劇に出かけるとか」
「観劇……」
「劇場へ行ったことがないの?」
フィアはうなずいた。ゼアマッセルにも劇場はあるが、閉じ込められて育ったフィアには当然無縁のものだった。
「今はどんなお芝居をしているのかしら?」
「春になったばかりですから、まだ新作はあまりはじまっていませんわ」
カリンが答えた。王都の劇場は貴族が集まる春や秋に新作を公演するのだが、まだ春がはじまったばかりなのもあって去年の演目をやっている場所が多かった。
「フィア様はお芝居を観たことがないなら、新作でなくてもいいかもしれないわね」
「マリアローゼ様は観たことがあるものばかりなのでしょう? わたくしにとっては新作でもそうでなくてもはじめて観るお芝居ですから、マリアローゼ様に選んでいただければ……」
「そうね……でもはじめての観劇なら、いい作品を観て欲しいわ。フィア様はどんな物語がお好き?」
「えっ」と出かかった声をフィアは飲み込んだ。
「好き、ですか……?」
「ええ、今まで読んだ小説とか、何かあるでしょう? お芝居になっている小説もあるし」
「いえ、小説はほとんど読む機会がなくて……」
口ごもることしかできなかった。従姉からすすめられたり言語学の授業の一環だったりでだが、全く読んだことがないわけではない。ただ、思い出せてもタイトルやあらすじくらいで、好きな物語や印象に残った物語を聞かれてもフィアには答えることが難しかった。
「子どもの頃に絵物語を読んだりとかは?」
「絵物語の方が全く……教本や、図鑑くらいしか……」
その植物図鑑は授業のためのものではなかったが、フィアの教師も務めていた子爵夫人に与えられたものではあった。それでもフォルトマジア王国の植物が季節ごとに緻密な絵を添えて説明されていて、何もすることがない日など、よく眺めていたのだ。ゼアマッセルに置いてきたので、もう処分されてしまったかもしれないが……持ってきても役に立つものではないのに、思い出すとどうして持ってこなかったのだろうとばかり考えてしまう。
視線を伏せるフィアに、マリアローゼとカリンは顔を見合わせた。
「お母様にもおすすめを聞いてみようかしら」
「それか、古くから上演されているような演目から触れてみるのもいいかもしれませんね」
二人の言葉にフィアは力なくうなずいた。社交がはじまればそういう話題も必要になるだろう。教材以外の本もちゃんと読んでおいた方がいいかもしれない……白銀宮内にある図書室はよく利用しているが物語の類は手に取っていなかった。リラトゥアスが付けてくれた司書がいるから、おすすめを聞いたら答えてくれるだろうか?
「ゆっくり色々触れて行けばいいわ」
そんなフィアの内心に気づいたのか、マリアローゼは軽い口調で言った。
「今月は春始の夜会もあるけれど、さすがに新作のお芝居の話なんて誰もしないもの。ねぇ? もちろん、お芝居とか小説とか、会話のきっかけになるのは確かだけれど――」
「そうですね。それよりはじめて夜会に顔を出す人たちのことが話題の中心になると思います」
「もちろん、これからはじまる議会のことなんかもあるけれど」と付け足しながらマリアローゼはその青い瞳にフィアを真っ直ぐ映した。
「今年は絶対にあなたが注目されるわ」
「そうだと思います……他の主家の方々には、わたくしの評判はどうなんでしょうか?」
「フィア様が、というよりもご両親のことでゼアマッセル辺境伯家に対して主家はあまりいい印象を抱いていないとは思います」
カリンがきっぱりと言った。
「ですが、春始の夜会ではナインディアの大使夫妻も招待されると思いますし、気にしすぎるのもかえって悪印象になってしまうのではないでしょうか?」
「そうね。お兄様と仲睦まじくしていれば主家の方々は何も言わないと思うわ。きちんとしているもの」
「がんばります」
「お兄様にも釘をさしておかなくっちゃ」
どこかウキウキとした様子でそう告げるマリアローゼのとなりでカリンが苦笑いをこぼした。
瑠璃宮から部屋に戻る際にフィアに付いてくれた護衛と侍女たちは、白銀宮につながる回廊に入るところで「それでは失礼いたします」と当たり前のようにフィアを残して立ち去ってしまった。
引き留め、注意した方がいいのはわかっているが、フィアにはなかなか難しいことだった。そんな風に誰かに意見を言うことなんて今までしたことがない――いや、子どもの頃にやってはいけないことを従姉がしようとして、注意したことはあったかもしれないけれど、それはまだ何も知らない子どもだったからできたことだ。
それに、フィアは彼女たちの主人ではない。注意したところで、聞き入れられない場合もある。リラトゥアスに訴える方がいいのかもしれない……それはそれで、告げ口のようになってしまいそうだ。
つらつらと考えながら、フィアは独りで回廊を白銀宮に向かって歩いた。ほんのりと冷たさも混ざった、しかし春を感じる風が回廊を横切り、フィアの焦げ茶色の前髪をくすぐっていく。
こうして外の空気を感じられるようになるなんて、ゼアマッセルにいた頃と比べたら信じられない思いだ。回廊から見える庭園では、春に向けて庭師たちが作業をしている。冬の間は曇りが多かったが、春らしい白い青空に浮かぶ太陽がやわらかな光を庭園にこぼし、過ごしやすそうだ。
笑い声と話し声に耳を傾け、フィアは足を止めた。
「それで、婚約者殿はどうなんですか?」
「別にどうもしない」
リラトゥアスはどこか不機嫌そうにも聞こえる口調でそう答えた。
真白の王宮では人々が活発に動きはじめる季節を迎えていた。使用人たちの表情さえ明るく見える。庭園は徐々に緑に染まり、穏やかな風に吹かれてやわらかく揺れるさまはどこか浮かれているようにも見えた。もうしばらくすれば、色とりどりの花がその緑の間から顔を出すようになるだろう。
常盤宮での仕事を終え、リラトゥアスは彼にとって兄のような存在でもあるトマス・ローラントと肩を並べて歩いていた。護衛や侍従たちは二人の会話の邪魔にならない距離でついて来ている。
今日は主に新しい人事の相談を受けていたのだが、それについて彼に意見を聞きたかったのだ。優秀な彼は今は宰相の補佐官をしている。いずれは宰相になるだろうと噂もされているが、侯爵家の嫡男であるためどうなるかはわからない。
あれこれと必要なことを話し終えると、いつの間にか話題はこの冬の間のことになっていた。そうなれば、自然と話題は辺境伯家から来たリラトゥアスの婚約者のことになる。少し目じりの垂れた紫色の瞳のやさしい顔立ちの男は、実の弟を見るような視線を王太子に向けていた。
「そんな態度はよくない」
くだけた口調でトマスはたしなめた。
「わかっている。公の場では仲睦まじくするさ」
「そちらの心配はしていないけれど。君はきちんと王太子という立場をわかっているからね――だけど君の婚約者殿は色々と噂があるだろう?」
「家族に冷遇されていたことか?」
「まあね。それに、王都ではお花畑の娘なんて言われている」
何でもないようにそう言ったトマスに、リラトゥアスは顔をしかめた。
「たしかにゼアマッセル辺境伯夫妻はお花畑かもしれないが彼女は……」
「彼女は?」
幼い頃の形式的な文面の手紙と、この冬に王都に来てからの彼女――あの日、「窓を開けてもいいのですね」とぽとりと落とされた彼女の声がふと脳裏を過った。
「彼女は……変わっている。でも、」
そう話すリラトゥアスの横顔があまり見たことのない感情を映し出しているようで、トマスは静かに彼を見つめた。が、彼は不自然に言葉を途切れさせたまま驚いたように固まってしまった。
「は?」
思わず漏れたというような声に、トマスもまた彼の瑠璃色の瞳が向けられた先に視線を向けた。春の訪れを喜ぶ風が木々のまだ若い葉を揺らしている。そしてその若者を抱えるゴツゴツとした太い幹にぴたりとくっついた一人の令嬢が――まさに今、話題にしていたばかりのリラトゥアスの婚約者、フィア・グリンの姿があったのだった。
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