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視線の先にいるのは
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「アイザック、もう目を開けてもいいよ」
「ん」
ゆっくりと瞼を開けたアイザックは、顔を微かに動かして、玲の姿を探す。
さっきまで彼の目の前にいて、化粧を落としていた彼女は、今は少し離れた場所で、化粧落としの道具をてきぱきと片付けている。
その横顔は普段通りで、昨夜は大泣きしていたなんて信じられないくらい元気そうにしている。
これまでの玲は、いつ壊れてもおかしくないほど張り詰めた状態だった。
がむしゃらに働いて、信じたくない現実を見ないようにしているような、そんな危うさがあった。
(絶望して――乗り越えたのか)
故郷に帰れないとは、どれほどの絶望なのだろうか。
想像してみたところで、玲と全く同じ感情を感じることも、傷の痛みを知ることはできない。
しかし、ハンカチを持って涙を零していた彼女の姿を見ると、深く傷ついていることだけは確かにわかった。
(レイはまだ……元の世界に帰るつもりなのかな?)
彼女がそう考えているかもしれないことが、なぜかひどく気がかりで。
さりとて本人に聞くのは無粋だから、ただじっと、彼女の様子を観察した。
玲は手際が良く、彼女の手の動きは迷いないから見ていて気持ちがいい。
おまけに些細なことにも気がつくから、人の心を読むのではないかと思ったことがある。
玲にそのことを話すと、元の世界での仕事の経験が役に立っているのかもしれないと言って、淡く笑みを浮かべるのだった。
――レイに出会うまで、彼岸の客人なんて架空の生き物だと思っていた。
神殿や王族が、なにかしらの不都合な出来事を誤魔化すための作り話なのだと。
しかし初めて玲を目にした時、彼女が明らかに異世界の住人であるのだと理解した。
彼女の容姿も、服装も、そして身に纏う気配でさえも、この世界とは明らかに異質で。
そんな彼女の姿が、今も鮮烈に脳裏に焼きついている。
(悪夢を見なくなったのは恐らく、レイが俺に影響を与えたからに違いない)
家族に命を狙われ、生死の狭間を彷徨ったあの日から、毎日アイザックを苦しめてきた悪夢。
それを、昨夜は見なかったのだ。
まだ断定するのは早いが、玲から彼女が元いた世界の話を聞いたから、あの悪夢を見なかったのではないかと予想している。
(今夜も玲から話を聞いてみたら、わかるだろう)
検証して、そしてこの呪いを解く方法を見つけ出したい。
もしも完全に悪夢から解放されたら、どんなにいいだろうか。
アイザックはこれまで、悪夢をから逃れるために、本を読んで夜明けを待つ日々を送ってきた。
いつの間にか体が慣れ、夜も起きていられるようになったが、久しぶりに朝まで眠れると、やはり体の調子がいい。
(元の世界の話をしてくれると、玲が提案してくれて良かった)
悪夢を逃れる云々以前に、玲の話には興味がある。
こことは違う世界――それも、カルディア王国よりかなり発達している国の話は、アイザックの心を震わせた。
「アイザック、これから衣装を洗うから、話すのは少し待ってくれる?」
「わかった。物置で道具の手入れをして待っているよ」
「ありがとう。それじゃあ、また後でね」
「うん」
天幕を出たアイザックは、物置用の天幕へと向かう。
そこには公演に使う道具が置かれており、アイザックは毎日そこに訪れては、道具の手入れをしている。
他の団員たちは世話係に任せているのだが、アイザックは自分で手入れをしたがった。
自分が扱う物は自分で手入れをしたいということも理由の一つだが、無心になって磨いていると、雑念が紛れるからありがたいのだ。
天幕の入り口に足をかけたアイザックは、先客を見つけて唇で弧を描いた。
「お疲れ。団長様が物置に来るなんて珍しいね」
天幕の裏に並ぶ木箱のうちの一つの上に、エヴァンダーがどっかりと座って、腕を組んでいる。
道具を手入れするわけではなく、瞑想しているわけでもないようだ。
となれば、自分に用があるのだろう。
アイザックは用件に目星をつけつつ、道具を手に取り、持ってきた布で拭き始める。
恐らくは、レイと自分の話を聞きに来たに違いない。
世話係として働き始めた彼女と上手くいっているのか、探りを入れに来たのだろう。
それは、いきなりこの世界に招かれてしまった、哀れな彼女をこちら側の事情に巻き込んだ後ろめたさがあるからに違いない。
(……全く、らしくないことをする)
普段の彼なら絶対にしないことだろう。
人のいいこの団長は、困っている人を見つけると、すぐに手を差し出す。
そんな彼が、異世界から迷い込んできたレイを、利用しようとしているのだ。
――本来ならば王族のもとに連れて行かなければならない<彼岸の客人>を、エヴァンダーは敢えて手元に残した。
表向きはレイの意思を尊重しているようにしているが、本当の理由は別にあるのだと、アイザックは訝しんでいる。
「どうしてレイを俺の世話係にしたんだ?」
「そりゃあ、お前に祝福を与えてもらいたいからさ」
「……レイを巻き込むな。ただでさえこの世界に連れて来られて、不安なのに頑張っているんだ。これ以上、負担をかけるべきではない」
アイザックの眼差しが冷気を帯びる。
冴えた声音に、エヴァンダーは一瞬だけ怯んだ。
「しかし……あの子は、女神様がお前のもとに遣わせたんだ。だからお前の隣にいるべきだろう」
「言い伝えを信じて、あいつを生贄にするつもりなのか?」
「――っ、人聞きが悪いな。俺はあの子に、お前の力になってほしいだけだ。あの子の安全はちゃんと守る」
両者は睨み合い、少しの間、沈黙が降りた。
根負けしたエヴァンダーが、片手で頭を掻きつつ溜息をつく。
「お前、最近変わったよな」
「そう? どこがどう変わったの?」
「なんかこう……優しくなった気がする。レイ限定で」
「ふ~ん? 自分ではわかんないや」
「いいや、変わった。レイが来てから確実に変わったよ」
「……さあ、どうなんだろうね?」
アイザックは道具を磨く手を止めて、視線を落として思案する。
初めは、世話係になった玲が鬱陶しかった。
もともとアイザックは自分のことは自分でしていたため、玲に世話を焼かれたくなかったのだ。
「アイザックにもようやく春が訪れたのかぁ。オジサン、嬉しくなってきちゃったなぁ」
「俺とレイは……そういうのじゃないよ」
「おいおい、照れ隠しするなよ。お前、今日はレイの姿をずっと目で追っているじゃないか。自分でもわかっているだろ?」
「見ていたのか……」
つい玲の姿を目で追ってしまっていたのは認める。
昨夜のあの一件以来、すっかり玲のことが気になってしまったのだ。
決まりが悪くて苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべるアイザックを見て、エヴァンダーは唇の片側を持ち上げる。
「ああ、お前が特定の誰かに興味を持つなんて珍しいからな。遠目から見守っているぞ」
「見守っていても、何も起こらないから」
「はあ? まさか、怖気づいて告白できないのか?」
「そういうことではないと言っているだろ。レイは、……俺が苦手なんだ」
玲と視線が会った時、彼女は少しだけ身構える。
その表情は固く、わずかながら拒絶の気配を感じた。
今日は少しだけ和らいだように思えるが、それでもやはり、彼女との間に見えない溝があるように思える。
「苦手なわけないだろ。お前たち、いつも仲良く話しているじゃないか」
「それは、レイが気を遣ってくれているからだよ。レイを見ていると、なんとなくわかる。本当は俺が苦手なんだ」
「違うと思うけどなぁ」
「大雑把なエヴァンダーにはわからないだろうね」
「なんだよ。せっかく人が心配しているのに、可愛げのないことばかり言いやがって」
――エヴァンダーにはわからないだろう。
アイザックは心の中でもう一度、そう呟く。
今日一日でどれほど臆病になったことだろうか。
玲の顔を見る度に、彼女の表情が強張る瞬間を恐れる気弱な自分と戦っていたのだ。
そんな自分を遠目から見ていても気づいていなかったのだから、これからもエヴァンダーがこの心の機微をわかってくれることはないはずだ。
(いったい、どうしてしまったんだ?)
アイザックはじくりと痛む胸を片手で押さえて、溜息をついたのだった。
彼を悩ますこの感情が恋と呼ばれていることに気づくのは、まだ先のこと。
「ん」
ゆっくりと瞼を開けたアイザックは、顔を微かに動かして、玲の姿を探す。
さっきまで彼の目の前にいて、化粧を落としていた彼女は、今は少し離れた場所で、化粧落としの道具をてきぱきと片付けている。
その横顔は普段通りで、昨夜は大泣きしていたなんて信じられないくらい元気そうにしている。
これまでの玲は、いつ壊れてもおかしくないほど張り詰めた状態だった。
がむしゃらに働いて、信じたくない現実を見ないようにしているような、そんな危うさがあった。
(絶望して――乗り越えたのか)
故郷に帰れないとは、どれほどの絶望なのだろうか。
想像してみたところで、玲と全く同じ感情を感じることも、傷の痛みを知ることはできない。
しかし、ハンカチを持って涙を零していた彼女の姿を見ると、深く傷ついていることだけは確かにわかった。
(レイはまだ……元の世界に帰るつもりなのかな?)
彼女がそう考えているかもしれないことが、なぜかひどく気がかりで。
さりとて本人に聞くのは無粋だから、ただじっと、彼女の様子を観察した。
玲は手際が良く、彼女の手の動きは迷いないから見ていて気持ちがいい。
おまけに些細なことにも気がつくから、人の心を読むのではないかと思ったことがある。
玲にそのことを話すと、元の世界での仕事の経験が役に立っているのかもしれないと言って、淡く笑みを浮かべるのだった。
――レイに出会うまで、彼岸の客人なんて架空の生き物だと思っていた。
神殿や王族が、なにかしらの不都合な出来事を誤魔化すための作り話なのだと。
しかし初めて玲を目にした時、彼女が明らかに異世界の住人であるのだと理解した。
彼女の容姿も、服装も、そして身に纏う気配でさえも、この世界とは明らかに異質で。
そんな彼女の姿が、今も鮮烈に脳裏に焼きついている。
(悪夢を見なくなったのは恐らく、レイが俺に影響を与えたからに違いない)
家族に命を狙われ、生死の狭間を彷徨ったあの日から、毎日アイザックを苦しめてきた悪夢。
それを、昨夜は見なかったのだ。
まだ断定するのは早いが、玲から彼女が元いた世界の話を聞いたから、あの悪夢を見なかったのではないかと予想している。
(今夜も玲から話を聞いてみたら、わかるだろう)
検証して、そしてこの呪いを解く方法を見つけ出したい。
もしも完全に悪夢から解放されたら、どんなにいいだろうか。
アイザックはこれまで、悪夢をから逃れるために、本を読んで夜明けを待つ日々を送ってきた。
いつの間にか体が慣れ、夜も起きていられるようになったが、久しぶりに朝まで眠れると、やはり体の調子がいい。
(元の世界の話をしてくれると、玲が提案してくれて良かった)
悪夢を逃れる云々以前に、玲の話には興味がある。
こことは違う世界――それも、カルディア王国よりかなり発達している国の話は、アイザックの心を震わせた。
「アイザック、これから衣装を洗うから、話すのは少し待ってくれる?」
「わかった。物置で道具の手入れをして待っているよ」
「ありがとう。それじゃあ、また後でね」
「うん」
天幕を出たアイザックは、物置用の天幕へと向かう。
そこには公演に使う道具が置かれており、アイザックは毎日そこに訪れては、道具の手入れをしている。
他の団員たちは世話係に任せているのだが、アイザックは自分で手入れをしたがった。
自分が扱う物は自分で手入れをしたいということも理由の一つだが、無心になって磨いていると、雑念が紛れるからありがたいのだ。
天幕の入り口に足をかけたアイザックは、先客を見つけて唇で弧を描いた。
「お疲れ。団長様が物置に来るなんて珍しいね」
天幕の裏に並ぶ木箱のうちの一つの上に、エヴァンダーがどっかりと座って、腕を組んでいる。
道具を手入れするわけではなく、瞑想しているわけでもないようだ。
となれば、自分に用があるのだろう。
アイザックは用件に目星をつけつつ、道具を手に取り、持ってきた布で拭き始める。
恐らくは、レイと自分の話を聞きに来たに違いない。
世話係として働き始めた彼女と上手くいっているのか、探りを入れに来たのだろう。
それは、いきなりこの世界に招かれてしまった、哀れな彼女をこちら側の事情に巻き込んだ後ろめたさがあるからに違いない。
(……全く、らしくないことをする)
普段の彼なら絶対にしないことだろう。
人のいいこの団長は、困っている人を見つけると、すぐに手を差し出す。
そんな彼が、異世界から迷い込んできたレイを、利用しようとしているのだ。
――本来ならば王族のもとに連れて行かなければならない<彼岸の客人>を、エヴァンダーは敢えて手元に残した。
表向きはレイの意思を尊重しているようにしているが、本当の理由は別にあるのだと、アイザックは訝しんでいる。
「どうしてレイを俺の世話係にしたんだ?」
「そりゃあ、お前に祝福を与えてもらいたいからさ」
「……レイを巻き込むな。ただでさえこの世界に連れて来られて、不安なのに頑張っているんだ。これ以上、負担をかけるべきではない」
アイザックの眼差しが冷気を帯びる。
冴えた声音に、エヴァンダーは一瞬だけ怯んだ。
「しかし……あの子は、女神様がお前のもとに遣わせたんだ。だからお前の隣にいるべきだろう」
「言い伝えを信じて、あいつを生贄にするつもりなのか?」
「――っ、人聞きが悪いな。俺はあの子に、お前の力になってほしいだけだ。あの子の安全はちゃんと守る」
両者は睨み合い、少しの間、沈黙が降りた。
根負けしたエヴァンダーが、片手で頭を掻きつつ溜息をつく。
「お前、最近変わったよな」
「そう? どこがどう変わったの?」
「なんかこう……優しくなった気がする。レイ限定で」
「ふ~ん? 自分ではわかんないや」
「いいや、変わった。レイが来てから確実に変わったよ」
「……さあ、どうなんだろうね?」
アイザックは道具を磨く手を止めて、視線を落として思案する。
初めは、世話係になった玲が鬱陶しかった。
もともとアイザックは自分のことは自分でしていたため、玲に世話を焼かれたくなかったのだ。
「アイザックにもようやく春が訪れたのかぁ。オジサン、嬉しくなってきちゃったなぁ」
「俺とレイは……そういうのじゃないよ」
「おいおい、照れ隠しするなよ。お前、今日はレイの姿をずっと目で追っているじゃないか。自分でもわかっているだろ?」
「見ていたのか……」
つい玲の姿を目で追ってしまっていたのは認める。
昨夜のあの一件以来、すっかり玲のことが気になってしまったのだ。
決まりが悪くて苦虫を嚙み潰したような表情を浮かべるアイザックを見て、エヴァンダーは唇の片側を持ち上げる。
「ああ、お前が特定の誰かに興味を持つなんて珍しいからな。遠目から見守っているぞ」
「見守っていても、何も起こらないから」
「はあ? まさか、怖気づいて告白できないのか?」
「そういうことではないと言っているだろ。レイは、……俺が苦手なんだ」
玲と視線が会った時、彼女は少しだけ身構える。
その表情は固く、わずかながら拒絶の気配を感じた。
今日は少しだけ和らいだように思えるが、それでもやはり、彼女との間に見えない溝があるように思える。
「苦手なわけないだろ。お前たち、いつも仲良く話しているじゃないか」
「それは、レイが気を遣ってくれているからだよ。レイを見ていると、なんとなくわかる。本当は俺が苦手なんだ」
「違うと思うけどなぁ」
「大雑把なエヴァンダーにはわからないだろうね」
「なんだよ。せっかく人が心配しているのに、可愛げのないことばかり言いやがって」
――エヴァンダーにはわからないだろう。
アイザックは心の中でもう一度、そう呟く。
今日一日でどれほど臆病になったことだろうか。
玲の顔を見る度に、彼女の表情が強張る瞬間を恐れる気弱な自分と戦っていたのだ。
そんな自分を遠目から見ていても気づいていなかったのだから、これからもエヴァンダーがこの心の機微をわかってくれることはないはずだ。
(いったい、どうしてしまったんだ?)
アイザックはじくりと痛む胸を片手で押さえて、溜息をついたのだった。
彼を悩ますこの感情が恋と呼ばれていることに気づくのは、まだ先のこと。
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