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7.オルブライト侯爵の祝福

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 アンブローズはオルブライト侯爵家のタウンハウスでパトリスが寝泊まりしていた使用人部屋を見渡す。
 元貴族令嬢が住むには質素で狭い部屋だ。本当ならもっと彼女のためにしてあげられたのではないか。そんな思いに苛まれる。 

「まさか、グランヴィル伯爵がパトリスを追い出すとは思わなかった」

 グランヴィル伯爵から名付け親になってほしいと頼まれたとき、彼は娘の誕生を喜んでいた。
 彼の妻がこの世を去るまでは、折に触れてはアンブローズにパトリスの話を聞かせてきた。それほどパトリスを大切に想っているようだった。
 
 グランヴィル伯爵はパトリスに冷たく接しているようで、実は温かく見守っているのだと思っていた。よもや突き放すように手放すことになるとは、思いも寄らなかった。

 アンブローズはパトリスが実家を追い出されたあの日、グランヴィル伯爵家から来た侍従に手渡された手紙により、パトリスが追い出されることを知った。
 グランヴィル伯爵はパトリスの名付け親であるアンブローズには伝えておくべきだとして、パトリスを勘当することを伝えたのだ。

 手紙を見たアンブローズは、グランヴィル伯爵を説得するために赴いたのだが、着いた時にはすでにパトリスが追い出されていた。
 
「知っていれば、他の道を歩ませてあげられたのかもしれないのに」 
 
 もしもの可能性に想いを馳せたところで、今は変わらない。アンブローズは、パトリスが不運に陥るのを防げなかった。その結果が今の状況だ。

「魔法使いとは、傲慢で愚かな生き物だよ。威張り散らしているくせに、肝心なものを守れやしない。……私は、その最たるものだ」

 アンブローズは乾いた笑い声を上げた。自分で言っておきながら惨めになる。
 己の不甲斐なさに気持ちが沈むアンブローズの耳元に、パタパタと元気よく走る足音が聞こえてきた。振り向くと、青と黄と白の花の組み合わせが美しい花束を持つパトリスが戻ってきているところだった。レイチェルへの見舞いの花束を用意してきたのだ。
 
「旦那様、お待たせしました!」
 
 パトリスはアンブローズに花束を渡すと、机の上に置いていた紙にペンを走らせて手紙を書く。それもまた、アンブローズに託した。

「どちらも必ずレイチェルに渡すよ」

 アンブローズは手紙と花束を片手でまとめて持つと、空いている方の手でパトリスのトランクを持つ。

「さあ、そろそろ行こうか。後悔のない日々を送りなさい」
「――っ、ありがとうございます」

 パトリスの水色の瞳が潤む。期限付きとはいえ、三年も住んだこの場所をいざ発つとなると、寂しさに襲われる。
 アンブローズは身を屈めると、しょんぼりとしているパトリスの頭に別れの挨拶と祝福を込めたキスをした。
 
 パトリスはアンブローズとともに玄関ホールへ行くと、仲間たちと挨拶を交わし、ブラッドとシレンスとともに馬車に乗る。そうして、オルブライト侯爵家のタウンハウスを発った。
 
「きっかけを作ったから、あとは君次第だよ」

 アンブローズは小さくなっていく馬車を見送る。
 太陽を覆っていた雲が風に流され、春の陽光が一筋、パトリスの乗る馬車を照らした。
 
     ***
 
 ブラッドが国王陛下から賜った屋敷は、アンブローズのタウンハウスから馬車で二十分ほどかかる場所に位置する。王都にある貴族の居住区画では、財力や身分が中位ほどの貴族のタウンハウスが並んでいる場所だ。
 パトリスは馬車の窓に顔を近づけ、外の景色を堪能した。生まれてからずっと高位貴族が住まう区画にいたパトリスにとっては新鮮な眺めだった。
 
「着きましたよ。門を開けますね」

 馬車が停まると、御者が扉を開けてくれる。パトリスが先に下り、ブラッドから預かっていた鍵で門を開く。その間、シレンスがブラッドの体を支えて彼を馬車から下ろしていた。

 屋敷はオルブライト侯爵家のタウンハウスの三分の一ほどの大きさが、三人で住むには広すぎる。
 三階建ての屋敷の外壁は橙色の煉瓦で、白い窓枠との対比が美しい。
 黒色の屋根には煙突と窓があり、屋根裏部屋はかなり広そうだ。

 この屋敷の以前の所有者は、かつて大魔法使いとして名を馳せたオーレリア・エアルドレッド。
 彼女の死後、遺言によりこの屋敷を国王に献上した。王国に貢献した才ある者にこの屋敷を贈ってほしいとの条件をつけたのだった。

 屋敷は新築ではないが手入れが行き届いており、おまけに日当たりがいいため屋敷全体が明るい。
 調度品は決して多くはなく、豪華ではないが、どれも洗練された美しさがあるものばかりだ。
 
 パトリスとシレンスはそれぞれ寝室を割り当ててもらった。パトリスは屋根裏部屋、シレンスは一階の裏口近くにある部屋だ。どちらも使用人部屋として用意されており、各々の希望でその部屋に決めた。
 
「わあ! 素敵な部屋!」
 
 手荷物のトランクを置きに屋根裏部屋へ行ったパトリスは、新しい寝室を見回して歓声を上げる。

 白地に緑色の格子模様柄と薄紅色の薔薇の絵が組み合わされた壁紙と温かな色の木のパネリングが優しい印象を与える部屋だ。突き出し窓から入り込む光で室内は明るく、きちんと掃除されているため清潔感がある。
 この屋敷はオーレリアから国王に献上された後、王宮の使用人たちが日々掃除して美しさを維持してきたのだ。
 
 明るい色の木で作られたベッド、同じ色の木で作られた蓋つきの書記用机と椅子、それに植物の意匠が凝らされているクローゼット。
 どの家具も温かみがあり、パトリスを歓迎しているように見える。
  
「お休みの日に花瓶を買いに行こうかしら。窓辺に飾ったらきっと素敵!」
 
 パトリスは白い木で作られた突き出し窓にそっと触れる。
 まだこの部屋に足を踏み入れたばかりなのに、早くも好きになった。
 
 手荷物を置いたパトリスは一階にある厨房でお茶を淹れると、二階にあるブラッドの執務室へと向かう。椅子に座っているブラッドは、手元の書類に手をかざしており、なにやら魔法をかけているようだ。
 
「ホリングワース男爵、お茶をお持ちしました。砂糖はいりますか?」
「ありがとう。砂糖は一つだけお願いします」
「かしこまりました。ティーカップを二時の方角に置きますね。今のホリングワース男爵の手の場所から拳二つ分先です」
 
 目の見えないブラッドがティーカップの場所を把握しやすいよう、細かな位置を伝える。
 パトリスはカップを置くと、思いきってブラッドに問う。

「書類に魔法をかけていますよね? どのような魔法を使っているのですか?」
「インクに反応する魔法を使って文字に魔力を流し込んでいるんです。そうすると、魔力が文字の形になってくれるので目が見えなくても書類を読めるんですよ」
「そんな魔法があるんですね!」
「魔法兵団にいた時に編み出したんです。遠征中は共同生活なので、夜に書類を読むときに明かりをつけると部下たちを起こしてしまいますから。暗闇の中でも読める魔法が必要だと思ったんです」
 
 パトリスは暗闇の中で書類を読むブラッドの姿を頭の中で思い描くと、口元を綻ばせる。部下の安眠のために魔法を編み出すブラッドの優しさに、パトリスは心の中が温かくなるのを感じた。
 
 騎士となり隊長を任され、さらに男爵位を得ても、昔と変わらず思いやりに溢れている。パトリスが愛するブラッドのままでいてくれていることが嬉しくてならない。
 
「これから夕食の準備をしますね。食べられない物はありますか?」
「……空芋の入っている料理は、苦手です……」

 ブラッドは躊躇いがちに答えた。苦手な食べ物を言うことが子どものようで照れくさいのか、頬がやや赤くなっている。
 
 空芋とは、切った断面が青色の一風変わった芋だ。
 栄養満点で体にいいが、非常に苦みが強い。エスメラルダ王国では薄くスライスしてサラダに和えて食べることが一般的だが、薄くしても苦みは変わらない。そのため子どもの大半はこの芋が苦手で、大人も苦手とする人が多い。
 
「まあ、そうでしたか」
 
 パトリスは素直に驚きを口にしてしまった。ブラッドは好き嫌いがないと本人からの申告を聞いていたから、まさか苦手な物を答えるとは思ってもみなかったのだ。
 
(私の記憶では、実家で一緒に昼食をとっていた時は空芋のスライスを食べていたはずだけど……騎士団に入ってから好みが変わったのかもしれないわね。なんでも完璧に見えたブラッドにも、意外と苦手な食べ物があるのね。可愛い) 
 
 好きな人の新しい一面を見ることができて嬉しいパトリスは、上機嫌で部屋を後にした。
 ブラッドはパトリスが扉を閉める音を聞くと、机の上に肘をついて頭を抱える。

「はあ、リズさんはパトリスの声に似ているから……好きな人に嫌いな食べ物を告白しているようで、恥ずかしかったな……」

 ブラッドは昔から空芋が苦手だった。しかし兄弟子としてのプライドから、パトリスには見栄を張り、食べ物の好き嫌いがないと申告していたのだ。
 そのためグランヴィル伯爵家でパトリスとアンブローズと一緒に食事をとる際に空芋が出てくると、平静を装って食べた。正確に言うと、なるべく味を感じないように飲み込んでやり過ごしていた。

 オルブライト侯爵家では空芋が苦手と公言して残しがちだったブラッドが、パトリスの前では全くそのような素振りを見せずに一生懸命食べている。
 アンブローズは、弟子のいじらしい様子を密かに眺めてはニマニマと口元を歪めていたのだった。
 
     *** 
 
 パトリスは厨房に着くと、気合を入れて料理にとりかかった。
 オルブライト侯爵家での仕事は基本的には掃除だった。しかしたまに調理場を手伝っていたいたことや、パトリスが一人で暮らすことになった時のために料理長が料理を教えてくれていたおかげで、基本的な料理なら作ることができる。
 
 食材はシレンスが調達してくれていたため、厨房にある食材からメニューを考えることにした。その中には空芋もあったが、それは自分とシレンスのまかないにのみ入れることにするのだった。
 
「今日のご夕食は旬の野菜を使ったサラダと肉の香草焼きと白身魚とジャガイモのグラタン、それに野菜のスープです」
 
 夕食の準備を終えてブラッドを呼ぶと、すぐに来てくれた。まだ歩行は慣れていないようで、シレンスの助けが必要だ。
 ブラッドは椅子につくと、嬉しそうに表情を綻ばせる。

「食欲をそそる香りでとても美味しそうです。早速いただきます」
「私がお食事をお手伝いいたしますので、食べたい物を仰ってくださいね」
「それでは、まずはスープをお願いします」
「かしこまりました!」
 
 パトリスはブラッドの隣に立つと、スープが入っている器を片手に持つ。反対側の手に持っている銀の匙でスープを掬うと、ふうふうと息を吹きかけた。

「ホリングワース男爵、口元に匙を当てますので、少し口を開けてください」
「え、ええと! お手伝いとは、そう言うことだったんですね?!」
 
 ブラッドは慌てた様子で身じろぐ。両手を前に出し、それとなく拒んだ。
 
「あの、自分で食べられますので皿と匙をください。見えなくても食べられるよう練習したので、食器とカトラリーを渡していただけたら、あとは自分で食べられます」
「そ、そうでしたか。私ったら確認もせず……申し訳ございませんでした」
「いえ、気を遣ってくれてありがとう」

 パトリスは顔を真っ赤にし、眉尻を下げて情けない表情のままブラッドにスープの器と銀の匙を手渡す。
 穴があったら入りたい。気恥ずかしさのあまり、涙目になりながらブラッドの食事を手伝う。

 失敗で落ち込んでいたパトリスだが、ブラッドがいい食べっぷりで夕食を食べている様子を見ていると、元気を取り戻すのだった。ブラッドが「美味しいです」と褒めると口元に手をあてて感激するのだが、声が弾まないように気を付けて、努めてメイドらしい態度で感謝の言葉を口にするのだった。
  
 食堂の戸口に立って二人のやり取りを見守っていたシレンスは、やれやれと呆れたような表情で首を横に振る。

「はあ、健気過ぎて涙腺を刺激してくるから困る」

 ぶっきらぼうな口調だが、パトリスを見つめる眼差しは優しかった。

     *** 

 初日は張り切り過ぎて過剰なお手伝いをしそうになったパトリスだが、以降はオールワークスメイドの仕事をこなしつつ、さりげなくブラッドを手伝っている。しかしパトリスがブラッドの手伝いができないかと見つめていると、すぐにブラッドに気づかれてしまうのだった。
 ブラッドは騎士として訓練したためか、人の視線や気配をよく感じ取るのだ。 
 
 パトリスがブラッドの屋敷に引っ越してから三日後の夜。ブラッドが執務室で仕事をしているそのそばで、パトリスはひっそりと控えていた。
 ブラッドの手伝いをするために控えているが、ブラッドは文字を書くのも魔法でこなしてしまうため、パトリスの出番がなかなかないのだ。

 初めは手伝えることがなくて落ち込んでいたパトリスだが、次第に気を取り直し、ブラッドを観察する時間にしている。
 今日もこっそりとブラッドの横顔を眺めていると、不意にブラッドが顔を動かしてパトリスのいる方を向いた。
 
「リズさん、どうしましたか?」
「えっ……?」

 急に呼びかけられたパトリスは返事に臆した。
 
「視線を感じたので、もしかすると何か言おうとしていることがあるのかと思いまして……」 
「いえ、そのようなことは……じっと見つめてしまい、申し訳ございません」
「謝らないでください。俺に不便がないよう気にかけてくれているんですよね?」

 ブラッドの声音は優しい。パトリスの好きな、低く落ち着いた声だ。

「は……はい」

 パトリスはまごつきながら返事をする。よもやブラッドの横顔に見惚れていたなんて言えない。
 誤魔化すように、机の上に置いていたティーカップを手に取る。

「あの、お茶が冷めてしまいましたので、淹れ直しますね」
「お願いします。せっかく淹れてくれたのに、冷ましてしまってすみません」
「いいえ、お茶のことは気にせず、ぜひお仕事に集中なさってください。ホリングワース男爵が常に美味しいお茶を飲めるようにするのが私の務めですから」
 
 パトリスはお茶を淹れ直したティーカップを机の上に置く。

「二時の方角に置きました。カップが熱くなっているのでお気をつけください」
「ありがとう。こちらですね?」

 そう言い、ブラッドが手を伸ばすものの、なかなかティーカップに触れられない。
 パトリスが伝えた場所にあるティーカップに辿り着くことができる時もあれば、なかなか到達できない時もある。まだ目の見えない生活に慣れていないため、置かれた物の位置を把握するのは困難らしい。
 
「リズさん、すみませんがティーカップを持たせてくれませんか?」 
「かしこまりました」

 ブラッドの手に触れたパトリスは、彼の手が記憶のものより大きく、そしてその掌が騎士らしく固くなっていることに気づいた。彼の手から感じる熱がパトリスの頬に伝播する。
 鼓動がとくとくと駆け足になり、その振動が指先から伝わってしまいそうな気がした。
 
「ど、どうぞ。こちらです」

 内心焦りながらも両手でブラッドの手を動かし、ティーカップの持ち手に指をかけさせる。

「ありがとう。助かりました」

 ブラッドからお礼の言葉を聞くや否や、逃げるように彼の手を離した。
 すっかり真っ赤になった頬に両手を当てる。頬の熱が掌を温めた。
 
(ブラッドが、今の私の姿を見られることがなくて良かった……) 
 
 両手を頬から外すと、胸の前でぎゅっと握りしめる。ブラッドの手に触れた時の感覚がまだ残っており、パトリスの心をかき乱す。
 愛する人の前から消えようとしているのに、ちょっとしたきっかけでその決意が覆りそうになる。その葛藤で胸が苦しい。

 パトリスは握った両手を胸に当てると、心が落ち着くまでそうしていた。
 
 その翌日、パトリスとブラッドの様子が気になったアンブローズが屋敷を訪ね、二人の前に現れた。
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