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第三章
1.新しい仲間
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エイレーネ王国王都の貴族区画の北部にあるコルティノーヴィス香水工房。
一カ月ほど前に開業したその工房は、この短期間で二度も王族に香水を献上したことや、専属調香師が第二王子を目覚めさせたことで話題になっている。
そして副工房長で調香師のフレイヤ・ルアルディが二日前に開かれた王族主催の競技会で優勝したこともあり、工房には連日、香水を求める客が後を絶たない。
その香水工房の二階にある調香室で、フレイヤが建国祭に向けて王族から依頼された香水を一人で作っている。
いつもは空いている調香台でオルフェンが魔法の研究をしているが、今日はいない。久しぶりに人間界の本を読みたいということで、朝から王宮図書館へ向かったのだ。
フレイヤが精油を入れて調香した香水瓶の中に試香紙を入れて香りを嗅いでいると、部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。
作業する手を止めたフレイヤが返事をすると、扉が開いて書類を持った女性が部屋の中に入ってきた。
彼女の名前はエレナ・ストラーニ。
銀縁眼鏡をかけており、几帳面に結い上げられた水色の髪と冷たい印象を与える切れ長の紫色の目が印象的な美人で、年はフレイヤより上の二十五歳。淡々とした性格だが接客は手慣れており、仕事をそつなくこなしている。
エレナはもともとシルヴェリオの姉のヴェーラが所有する商団の団員のため、初めは手伝いとして販売員と事務員を兼任してくれていたが、競技会の優勝後に彼女が自ら志願して正式にコルティノーヴィス香水工房の一員となった。
冷静沈着で淡々とした口調のエレナに、フレイヤはやや近寄り難さを感じている。
「副工房長、失礼します。店頭に出している香水が全て売り切れましたので、本日は閉店とします」
「昼前なのに、もう売り切れたのですね。追加でもっとたくさん作らないと、せっかく工房に来てくださったお客様がガッカリしてしまいますね……」
コルティノーヴィス香水工房では二種の香水を販売している。
一つは『太陽の微笑み』という名で、甘く爽やかな香りだ。
トップノートにマンダリン、ハートノートにイランイラン、ベースノートは黄金の実という魔法植物から採取できる柑橘系の香りのする精油だ。
二つ目は『月の微笑み』と名付けられ、ラベンダーを中心とした、どこか神秘的で落ち着いた香りに仕上げている。
トップノートにベルガモット、ハートノートにラベンダー、ベースノートは白銀の木と、こちらもまた魔法植物由来の精油を使用している。
どちらも競技会が始まる前に予め作り置きしていたが、あっという間に売り切れてしまった。
しゅんと項垂れるフレイヤとは対照的に、エレナは唇を微かに持ち上げ、どこか嬉しそうだ。
「いいえ、これでいいのです。すぐに売り切れて入手困難な方が商品の価値はさらに上がり、お客様はこぞって買い求めようとするものですから」
「そうなんですか?」
フレイヤの問いに、エレナはこくりと頷く。彼女のメガネがキラリと光を反射した。
「ええ、敢えて少ない数しか売らない商会もあるのです。ですのでご心配なさらないでください。そもそも副工房長はヴェーラ様とシルヴェリオ様が計画なさった数量をきっちりと作られたのですから、副工房長が負い目を感じる必要はありません」
それに、とエレナが付け加える。
「私は目先の利益のために副工房長がさらなる挑戦をする時間を奪ってはいけないと思うのです。私は副工房長が競技会で貴族が好みそうな香りではなく国花を使った香水を出品して挑戦したという話を聞いて、胸が熱くなったのです。副工房長はきっと、香水の可能性を広げていく開拓者だと思っております。それに副工房長が作る香りはただ華やかなだけではなく心を落ち着かせたり、気分を上げる作用もあって――」
いつもの冷静な様子はどこへ行ったのやら、エレナは拳を握り熱く語り始めた。あまりの変貌にフレイヤはついていけず、茫然とその様子を見守っている。
「だから私は、そんな副工房長をお支えしたく、コルティノーヴィス香水工房の正規事務員兼販売員となる決意をしたのですから!」
力強く言い切ったエレナは、目を点にして自分を見ているフレイヤと視線がぶつかるや否や、やや気恥ずかしそうに拳をそっと下ろした。
「――と、とにかく。私は副工房長が無理なさらず、そして新しい挑戦ができる今の生産量が一番だと思っておりますので、思いつめないでくださいね?」
まだ頬を赤く染めているエレナから念を押されたフレイヤは、思わずふふっと笑みを零す。
「はい、エレナさんのおかげで心が軽くなりました。ありがとうございます」
「わ、私は別に……本当の事を言っただけですからお礼なんて……と、とにかく用件を伝え終えましたので、失礼します」
エレナは早口で喋ると、まだ言い終わらぬうちに調香室から出て行ってしまった。
「エレナさんって、あんなにも沢山話す人だったんだ……私、見た目で勝手に物静かなで無駄な会話を嫌う人だと決めつけてしまっていたのかも……」
人にはそれぞれ、対話を通してでしか知り得ない一面がある。近寄り難いと感じていたエレナの意外と熱い一面を知って、接しやすくなった気がした。
再び香水作りに着手しようとフレイヤが調香台に向き合ったその時、一階から大きな声が聞こえてきた。
「頼むよ! 一度だけルアルディに会わせてくれ! せめて話だけでもさせてほしいんだ!」
聞き覚えがある声に身が竦む。カルディナーレ香水工房で働いていた時、アベラルドに便乗してフレイヤを虐めていた先輩調香師の男性の声だ。
(いったい、どうして……?)
気になったフレイヤは椅子から立ち上がると調香室を出た。
一カ月ほど前に開業したその工房は、この短期間で二度も王族に香水を献上したことや、専属調香師が第二王子を目覚めさせたことで話題になっている。
そして副工房長で調香師のフレイヤ・ルアルディが二日前に開かれた王族主催の競技会で優勝したこともあり、工房には連日、香水を求める客が後を絶たない。
その香水工房の二階にある調香室で、フレイヤが建国祭に向けて王族から依頼された香水を一人で作っている。
いつもは空いている調香台でオルフェンが魔法の研究をしているが、今日はいない。久しぶりに人間界の本を読みたいということで、朝から王宮図書館へ向かったのだ。
フレイヤが精油を入れて調香した香水瓶の中に試香紙を入れて香りを嗅いでいると、部屋の扉をノックする音が聞こえてきた。
作業する手を止めたフレイヤが返事をすると、扉が開いて書類を持った女性が部屋の中に入ってきた。
彼女の名前はエレナ・ストラーニ。
銀縁眼鏡をかけており、几帳面に結い上げられた水色の髪と冷たい印象を与える切れ長の紫色の目が印象的な美人で、年はフレイヤより上の二十五歳。淡々とした性格だが接客は手慣れており、仕事をそつなくこなしている。
エレナはもともとシルヴェリオの姉のヴェーラが所有する商団の団員のため、初めは手伝いとして販売員と事務員を兼任してくれていたが、競技会の優勝後に彼女が自ら志願して正式にコルティノーヴィス香水工房の一員となった。
冷静沈着で淡々とした口調のエレナに、フレイヤはやや近寄り難さを感じている。
「副工房長、失礼します。店頭に出している香水が全て売り切れましたので、本日は閉店とします」
「昼前なのに、もう売り切れたのですね。追加でもっとたくさん作らないと、せっかく工房に来てくださったお客様がガッカリしてしまいますね……」
コルティノーヴィス香水工房では二種の香水を販売している。
一つは『太陽の微笑み』という名で、甘く爽やかな香りだ。
トップノートにマンダリン、ハートノートにイランイラン、ベースノートは黄金の実という魔法植物から採取できる柑橘系の香りのする精油だ。
二つ目は『月の微笑み』と名付けられ、ラベンダーを中心とした、どこか神秘的で落ち着いた香りに仕上げている。
トップノートにベルガモット、ハートノートにラベンダー、ベースノートは白銀の木と、こちらもまた魔法植物由来の精油を使用している。
どちらも競技会が始まる前に予め作り置きしていたが、あっという間に売り切れてしまった。
しゅんと項垂れるフレイヤとは対照的に、エレナは唇を微かに持ち上げ、どこか嬉しそうだ。
「いいえ、これでいいのです。すぐに売り切れて入手困難な方が商品の価値はさらに上がり、お客様はこぞって買い求めようとするものですから」
「そうなんですか?」
フレイヤの問いに、エレナはこくりと頷く。彼女のメガネがキラリと光を反射した。
「ええ、敢えて少ない数しか売らない商会もあるのです。ですのでご心配なさらないでください。そもそも副工房長はヴェーラ様とシルヴェリオ様が計画なさった数量をきっちりと作られたのですから、副工房長が負い目を感じる必要はありません」
それに、とエレナが付け加える。
「私は目先の利益のために副工房長がさらなる挑戦をする時間を奪ってはいけないと思うのです。私は副工房長が競技会で貴族が好みそうな香りではなく国花を使った香水を出品して挑戦したという話を聞いて、胸が熱くなったのです。副工房長はきっと、香水の可能性を広げていく開拓者だと思っております。それに副工房長が作る香りはただ華やかなだけではなく心を落ち着かせたり、気分を上げる作用もあって――」
いつもの冷静な様子はどこへ行ったのやら、エレナは拳を握り熱く語り始めた。あまりの変貌にフレイヤはついていけず、茫然とその様子を見守っている。
「だから私は、そんな副工房長をお支えしたく、コルティノーヴィス香水工房の正規事務員兼販売員となる決意をしたのですから!」
力強く言い切ったエレナは、目を点にして自分を見ているフレイヤと視線がぶつかるや否や、やや気恥ずかしそうに拳をそっと下ろした。
「――と、とにかく。私は副工房長が無理なさらず、そして新しい挑戦ができる今の生産量が一番だと思っておりますので、思いつめないでくださいね?」
まだ頬を赤く染めているエレナから念を押されたフレイヤは、思わずふふっと笑みを零す。
「はい、エレナさんのおかげで心が軽くなりました。ありがとうございます」
「わ、私は別に……本当の事を言っただけですからお礼なんて……と、とにかく用件を伝え終えましたので、失礼します」
エレナは早口で喋ると、まだ言い終わらぬうちに調香室から出て行ってしまった。
「エレナさんって、あんなにも沢山話す人だったんだ……私、見た目で勝手に物静かなで無駄な会話を嫌う人だと決めつけてしまっていたのかも……」
人にはそれぞれ、対話を通してでしか知り得ない一面がある。近寄り難いと感じていたエレナの意外と熱い一面を知って、接しやすくなった気がした。
再び香水作りに着手しようとフレイヤが調香台に向き合ったその時、一階から大きな声が聞こえてきた。
「頼むよ! 一度だけルアルディに会わせてくれ! せめて話だけでもさせてほしいんだ!」
聞き覚えがある声に身が竦む。カルディナーレ香水工房で働いていた時、アベラルドに便乗してフレイヤを虐めていた先輩調香師の男性の声だ。
(いったい、どうして……?)
気になったフレイヤは椅子から立ち上がると調香室を出た。
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