上 下
30 / 89
第一章

30.女伯爵からの提案

しおりを挟む
「そんなに固くならないでくれ。ルアルディ殿とはぜひ個別で取引をしたいと思っていたんだ」

 硬くならないなんて無理な話だ。
 心の中で叫び声を上げつつ、フレイヤは引き攣りそうな頬で笑顔を取り繕った。

「こ、個別で……ですか?」
「ああ、シルヴェリオの動向を探って私に報告してほしい。もちろん、シルヴェリオには知らせず内密にね?」
「……っ」

 明らかに不穏な取引の予感がしたフレイヤは固唾を飲んだ。

 ドクリと自分の心臓が大きく脈を打つのを感じる。
 
「探るなんて……どうしてシルヴェリオ様に直接聞かないのですか……?」
「私たち姉弟は血の繋がりはあってもさほど交流がないからね。物心がついた頃からお互いに腹の内を探り合っているんだ。シルヴェリオがこの屋敷を出て魔導士団の寮に入ってからはあの子の動向が掴めないから、不穏な動きをしているのではないかと気が気でないのだよ」

 ヴェーラはシルヴェリオを警戒しているから監視役がほしいのだろうか。

 たしかに先ほどはシルヴェリオとヴェーラの間に微妙な空気が流れていたが、少なくともシルヴェリオがヴェーラを敵対視しているようには見えなかった。

(それにシルヴェリオ様は責任感の強い人だから……家門に泥を塗るようなことはしないと思うけど……)

 シルヴェリオとはまだ会って間もないから知らない面があるものの、監視されないといけないような人物だとは思えない。
 
「用心深いあの子がルアルディ殿には心を開いているようだから適役だと思ったんだ。あの子が人に微笑みを向けることはそうそうないというのに、先ほどは微笑みを浮かべてルアルディ殿を見つめていた。それだけ君を大切に思っているのだろう」
「それは……私が部下だから見守ってくださっているのだと思います。シルヴェリオ様は部下想いの理想的な上司そのものですから!」

 なんせアベラルドとは比べ物にならないくらい気遣ってくれている。
 シルヴェリオと契約してから今まで、彼の言動に何度感動したのかわからないほどだ。

「あの子と正面から向き合って笑い合えるなんて……本当に羨ましいよ」
「え……?」

 ともすると聞き取れないほどの小さな声で紡がれた言葉は、先ほどまでのヴェーラらしくない、気弱さを感じられた。

(もしかしてコルティノーヴィス伯爵は……本当にシルヴェリオ様の動向を知りたいだけ?)

 だとすれば回りくどいことをしなくてもいいだろうに。
 
「気にしないでくれ――さて、話が脱線したね。取引のことだが、もちろん報酬を出す。望むならカルディナーレ香水工房への復讐に手を貸すし、調香師として名を馳せる手伝いもしてあげよう。――どうかな?」
「報酬だなんて……」
「私は無給で働かせたくはないからね。成果に見合った報酬を出すよ」
「……僭越ながら、お断りさせていただきます」
「なんだって?」
 
 ヴェーラの声と眼差しに非難の色が滲もうと、フレイヤは毅然と見つめ返す。
 
 実のところ貴族を相手に言い返しているこの状況に不安が募るし、ヴェーラの圧に押されて喉に鉛がつっかえているような感覚がするけれど、それでも崩せなかった。
 
「恩人であるシルヴェリオ様を裏切るようなことはしたくありませんのでお受けできません」
「義理堅いのだね。しかしシルヴェリオはこれまでに商売をした経験がないから、香水事業が上手くいかないかもしれない。ともすると、また調香師の道を諦めることになるかもしれないよ? だけど私と手を組むのであれば、もしもの時は君が調香師でいられるように助けると約束しよう」

 ヴェーラの言う通り、シルヴェリオは今までに一度も商売をした経験がない。
 一方でヴェーラの商売における手腕は評価されているし、伝手もたくさんあるだろう。
 
(それでも、コルティノーヴィス伯爵の提案に乗ってシルヴェリオ様を監視するなんてできないよ)

 フレイヤはゆるゆると首を横に振った。
 
「それでもお受けできません。私は義理堅いのではなく――くよくよと悩む性格なので、コルティノーヴィス伯爵の提案をお受けすると仕事をする間中ずっと後悔して、いずれ仕事に手がつかなくなるとわかっていますから。自ら破滅する道を選びたくないんです」

 ――そう、高尚な理由なんてない。

 フレイヤは心の中で苦笑する。
 
(私は自分が自分に失望するのが嫌なだけ……。誰かを見捨ててまで自分の地位に固執するような人間になりたくないだけだから……)
 
 アベラルドに解雇された時、フレイヤに手を差し伸べてくれる人は誰もいなかった。みんな保身に忙しくて、見向きもしなかったのだ。
 その時に感じた虚しさや胸の痛みは今でも覚えている。
 
 たとえ窮地に立たされようとも、自分はあのようにはなりたくない。
 その姿勢を貫き通すことが、フレイヤなりの意趣返しでもある。
 
「立派な動機ではありませんが、私はこれからもシルヴェリオ様についていきます。そのうえで、差し出がましいですがコルティノーヴィス伯爵に提案があります」
「提案?」
「シルヴェリオ様に、ありのままの気持ちを伝えてください」
 
 フレイヤはきっぱりと言い切ると、膝の上で両手を握りしめる。

「ありのままの気持ちを伝える……か。貴族の世界ではそのようなことをしているといつか足を掬われるのにできるわけがない」
「だけど、シルヴェリオ様は違いますよね? コルティノーヴィス伯爵にはそんなことしない人だって、本当はわかっているのに勇気がなくて言えないだけなんじゃないですか?」
「……っ」

 ヴェーラは息を呑んで赤い目を見開いた。
 
 耳が痛くなるほどの沈黙があった後、ヴェーラはふっと笑い声を零す。

「はははっ、私にここまで反論してくる者は初めてだ。気に入ったよ」
「……えっ?」
 
 戸惑うフレイヤをよそに、威厳のある伯爵家の当主としての仮面を完全に脱ぎ捨て、目にはうっすらと涙を浮かべて笑った。

「大人しそうなのに芯があって頼もしいし、努力家で真っ直ぐな性格――いいね。ルアルディ殿さえよければ、たまに私と茶を飲んでくれないだろうか?」
「お、お誘いいただいて嬉しいのですが、私のような平民でもいいのですか?」
「ルアルディ殿だから一緒に話してみたいんだよ」
「え、ええと……」
「美味しい菓子を用意して待っている」
「――!」

 フレイヤの耳が「菓子」に反応してぴくりと動いた。
 するとヴェーラはしめたと言わんばかりに赤い目を光らせる。

「私は商団を経由して異国の食材も手に入るから、外国の菓子を用意できる――どうかな?」
「わっ……私でよければ……!」
 
 フレイヤが一瞬にして目を輝かせると、ヴェーラはその反応の速さにまたもや笑いが込み上げてしまい、声を上げて笑ったのだった。
 
     ***
 
 客間に戻ってきたシルヴェリオは、目の前の状況に驚いて言葉を失った。
 
 いつもは貴族らしい読めない笑顔ばかり浮かべている姉のヴェーラが、声を上げて笑っているのだ。
 対して彼女の差し向かいに座っているフレイヤは、気恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてプルプルと震えている。
 
 どんな状況なのか教えてほしくてならない。
 
「シルヴェリオ、私もルアルディ殿が好きになったよ」
「……そうですか」
「これからは私の茶飲み友だちになってもらう。ルアルディ殿のためにとっておきの菓子を用意しよう」
「……っ」

 シルヴェリオは深い青色の目を見開き、フレイヤに顔を向ける。
 
「……姉上に餌付けされ――いや、菓子で釣られたのか……」
「ううっ……」

 フレイヤは気まずそうにそっと目を逸らし、シルヴェリオの視線から逃れた。

 その時のシルヴェリオの表情が、まるで恋人に浮気されたかのようだったと、後にリベラトーレがコルティノーヴィス伯爵家の使用人たちに話すのだった。

「それと……シルヴェリオ、今日の夕食はここでとるのはどうだろうか? ……色々と、話したいことがある」

 ヴェーラの声音にまたもや気弱さが混じる。
 シルヴェリオもその変化に気づいたのか、探るようにヴェーラを見つめた。

「一緒に母上の話をしたいんだ」
「母上の話……?」
「ああ、……シルヴェリオの口からローデンのバラの話が出たから、懐かしく思ってな」
「……!」
 
 シルヴェリオは当惑した表情になったものの、小さく頷いた。

「……わかりました」
「ありがとう。楽しみにしている」

 二人のやり取りを見たフレイヤはホッとして胸をなでおろす。

(シルヴェリオ様とヴェーラ様が打ち解けられますように……)

 そうして心の中で、二人を思って祈るのだった。
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

夫が私に魅了魔法をかけていたらしい

綺咲 潔
恋愛
公爵令嬢のエリーゼと公爵のラディリアスは2年前に結婚して以降、まるで絵に描いたように幸せな結婚生活を送っている。 そのはずなのだが……最近、何だかラディリアスの様子がおかしい。 気になったエリーゼがその原因を探ってみると、そこには女の影が――? そんな折、エリーゼはラディリアスに呼び出され、思いもよらぬ告白をされる。 「君が僕を好いてくれているのは、魅了魔法の効果だ。つまり……本当の君は僕のことを好きじゃない」   私が夫を愛するこの気持ちは偽り? それとも……。 *全17話で完結予定。

告白さえできずに失恋したので、酒場でやけ酒しています。目が覚めたら、なぜか夜会の前夜に戻っていました。

石河 翠
恋愛
ほんのり想いを寄せていたイケメン文官に、告白する間もなく失恋した主人公。その夜、彼女は親友の魔導士にくだを巻きながら、酒場でやけ酒をしていた。見事に酔いつぶれる彼女。 いつもならば二日酔いとともに目が覚めるはずが、不思議なほど爽やかな気持ちで起き上がる。なんと彼女は、失恋する前の日の晩に戻ってきていたのだ。 前回の失敗をすべて回避すれば、好きなひとと付き合うこともできるはず。そう考えて動き始める彼女だったが……。 ちょっとがさつだけれどまっすぐで優しいヒロインと、そんな彼女のことを一途に思っていた魔導士の恋物語。ハッピーエンドです。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタにも投稿しております。

姉の身代わりで冷酷な若公爵様に嫁ぐことになりましたが、初夜にも来ない彼なのに「このままでは妻に嫌われる……」と私に語りかけてきます。

恋愛
姉の身代わりとして冷酷な獣と蔑称される公爵に嫁いだラシェル。 初夜には顔を出さず、干渉は必要ないと公爵に言われてしまうが、ある晩の日「姿を変えた」ラシェルはばったり酔った彼に遭遇する。 「このままでは、妻に嫌われる……」 本人、目の前にいますけど!?

女官になるはずだった妃

夜空 筒
恋愛
女官になる。 そう聞いていたはずなのに。 あれよあれよという間に、着飾られた私は自国の皇帝の妃の一人になっていた。 しかし、皇帝のお迎えもなく 「忙しいから、もう後宮に入っていいよ」 そんなノリの言葉を彼の側近から賜って後宮入りした私。 秘書省監のならびに本の虫である父を持つ、そんな私も無類の読書好き。 朝議が始まる早朝に、私は父が働く文徳楼に通っている。 そこで好きな著者の本を借りては、殿舎に籠る毎日。 皇帝のお渡りもないし、既に皇后に一番近い妃もいる。 縁付くには程遠い私が、ある日を境に平穏だった日常を壊される羽目になる。 誰とも褥を共にしない皇帝と、女官になるつもりで入ってきた本の虫妃の話。 更新はまばらですが、完結させたいとは思っています。 多分…

滅びた国の姫は元婚約者の幸せを願う

咲宮
恋愛
 世界で唯一魔法が使える国エルフィールドは他国の侵略により滅ぼされた。魔法使いをこの世から消そうと残党狩りを行った結果、国のほとんどが命を落としてしまう。  そんな中生き残ってしまった王女ロゼルヴィア。  数年の葛藤を経てシュイナ・アトリスタとして第二の人生を送ることを決意する。  平穏な日々に慣れていく中、自分以外にも生き残りがいることを知る。だが、どうやらもう一人の生き残りである女性は、元婚約者の新たな恋路を邪魔しているようで───。  これは、お世話になった上に恩がある元婚約者の幸せを叶えるために、シュイナが魔法を駆使して尽力する話。  本編完結。番外編更新中。 ※溺愛までがかなり長いです。 ※誤字脱字のご指摘や感想をよろしければお願いします。  

【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)

かのん
恋愛
 気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。  わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・  これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。 あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ! 本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。 完結しておりますので、安心してお読みください。

氷のメイドが辞職を伝えたらご主人様が何度も一緒にお出かけするようになりました

まさかの
恋愛
「結婚しようかと思います」 あまり表情に出ない氷のメイドとして噂されるサラサの一言が家族団欒としていた空気をぶち壊した。 ただそれは田舎に戻って結婚相手を探すというだけのことだった。 それに安心した伯爵の奥様が伯爵家の一人息子のオックスが成人するまでの一年間は残ってほしいという頼みを受け、いつものようにオックスのお世話をするサラサ。 するとどうしてかオックスは真面目に勉強を始め、社会勉強と評してサラサと一緒に何度もお出かけをするようになった。 好みの宝石を聞かれたり、ドレスを着せられたり、さらには何度も自分の好きな料理を食べさせてもらったりしながらも、あくまでも社会勉強と言い続けるオックス。 二人の甘酸っぱい日々と夫婦になるまでの物語。

【完結】アッシュフォード男爵夫人-愛されなかった令嬢は妹の代わりに辺境へ嫁ぐ-

七瀬菜々
恋愛
 ブランチェット伯爵家はずっと昔から、体の弱い末の娘ベアトリーチェを中心に回っている。   両親も使用人も、ベアトリーチェを何よりも優先する。そしてその次は跡取りの兄。中間子のアイシャは両親に気遣われることなく生きてきた。  もちろん、冷遇されていたわけではない。衣食住に困ることはなかったし、必要な教育も受けさせてもらえた。  ただずっと、両親の1番にはなれなかったというだけ。  ---愛されていないわけじゃない。  アイシャはずっと、自分にそう言い聞かせながら真面目に生きてきた。  しかし、その願いが届くことはなかった。  アイシャはある日突然、病弱なベアトリーチェの代わりに、『戦場の悪魔』の異名を持つ男爵の元へ嫁ぐことを命じられたのだ。  かの男は血も涙もない冷酷な男と噂の人物。  アイシャだってそんな男の元に嫁ぎたくないのに、両親は『ベアトリーチェがかわいそうだから』という理由だけでこの縁談をアイシャに押し付けてきた。 ーーーああ。やはり私は一番にはなれないのね。  アイシャはとうとう絶望した。どれだけ願っても、両親の一番は手に入ることなどないのだと、思い知ったから。  結局、アイシャは傷心のまま辺境へと向かった。  望まれないし、望まない結婚。アイシャはこのまま、誰かの一番になることもなく一生を終えるのだと思っていたのだが………? ※全部で3部です。話の進みはゆっくりとしていますが、最後までお付き合いくださると嬉しいです。    ※色々と、設定はふわっとしてますのでお気をつけください。 ※作者はザマァを描くのが苦手なので、ザマァ要素は薄いです。  

処理中です...