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第一章
30.女伯爵からの提案
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「そんなに固くならないでくれ。ルアルディ殿とはぜひ個別で取引をしたいと思っていたんだ」
硬くならないなんて無理な話だ。
心の中で叫び声を上げつつ、フレイヤは引き攣りそうな頬で笑顔を取り繕った。
「こ、個別で……ですか?」
「ああ、シルヴェリオの動向を探って私に報告してほしい。もちろん、シルヴェリオには知らせず内密にね?」
「……っ」
明らかに不穏な取引の予感がしたフレイヤは固唾を飲んだ。
ドクリと自分の心臓が大きく脈を打つのを感じる。
「探るなんて……どうしてシルヴェリオ様に直接聞かないのですか……?」
「私たち姉弟は血の繋がりはあってもさほど交流がないからね。物心がついた頃からお互いに腹の内を探り合っているんだ。シルヴェリオがこの屋敷を出て魔導士団の寮に入ってからはあの子の動向が掴めないから、不穏な動きをしているのではないかと気が気でないのだよ」
ヴェーラはシルヴェリオを警戒しているから監視役がほしいのだろうか。
たしかに先ほどはシルヴェリオとヴェーラの間に微妙な空気が流れていたが、少なくともシルヴェリオがヴェーラを敵対視しているようには見えなかった。
(それにシルヴェリオ様は責任感の強い人だから……家門に泥を塗るようなことはしないと思うけど……)
シルヴェリオとはまだ会って間もないから知らない面があるものの、監視されないといけないような人物だとは思えない。
「用心深いあの子がルアルディ殿には心を開いているようだから適役だと思ったんだ。あの子が人に微笑みを向けることはそうそうないというのに、先ほどは微笑みを浮かべてルアルディ殿を見つめていた。それだけ君を大切に思っているのだろう」
「それは……私が部下だから見守ってくださっているのだと思います。シルヴェリオ様は部下想いの理想的な上司そのものですから!」
なんせアベラルドとは比べ物にならないくらい気遣ってくれている。
シルヴェリオと契約してから今まで、彼の言動に何度感動したのかわからないほどだ。
「あの子と正面から向き合って笑い合えるなんて……本当に羨ましいよ」
「え……?」
ともすると聞き取れないほどの小さな声で紡がれた言葉は、先ほどまでのヴェーラらしくない、気弱さを感じられた。
(もしかしてコルティノーヴィス伯爵は……本当にシルヴェリオ様の動向を知りたいだけ?)
だとすれば回りくどいことをしなくてもいいだろうに。
「気にしないでくれ――さて、話が脱線したね。取引のことだが、もちろん報酬を出す。望むならカルディナーレ香水工房への復讐に手を貸すし、調香師として名を馳せる手伝いもしてあげよう。――どうかな?」
「報酬だなんて……」
「私は無給で働かせたくはないからね。成果に見合った報酬を出すよ」
「……僭越ながら、お断りさせていただきます」
「なんだって?」
ヴェーラの声と眼差しに非難の色が滲もうと、フレイヤは毅然と見つめ返す。
実のところ貴族を相手に言い返しているこの状況に不安が募るし、ヴェーラの圧に押されて喉に鉛がつっかえているような感覚がするけれど、それでも崩せなかった。
「恩人であるシルヴェリオ様を裏切るようなことはしたくありませんのでお受けできません」
「義理堅いのだね。しかしシルヴェリオはこれまでに商売をした経験がないから、香水事業が上手くいかないかもしれない。ともすると、また調香師の道を諦めることになるかもしれないよ? だけど私と手を組むのであれば、もしもの時は君が調香師でいられるように助けると約束しよう」
ヴェーラの言う通り、シルヴェリオは今までに一度も商売をした経験がない。
一方でヴェーラの商売における手腕は評価されているし、伝手もたくさんあるだろう。
(それでも、コルティノーヴィス伯爵の提案に乗ってシルヴェリオ様を監視するなんてできないよ)
フレイヤはゆるゆると首を横に振った。
「それでもお受けできません。私は義理堅いのではなく――くよくよと悩む性格なので、コルティノーヴィス伯爵の提案をお受けすると仕事をする間中ずっと後悔して、いずれ仕事に手がつかなくなるとわかっていますから。自ら破滅する道を選びたくないんです」
――そう、高尚な理由なんてない。
フレイヤは心の中で苦笑する。
(私は自分が自分に失望するのが嫌なだけ……。誰かを見捨ててまで自分の地位に固執するような人間になりたくないだけだから……)
アベラルドに解雇された時、フレイヤに手を差し伸べてくれる人は誰もいなかった。みんな保身に忙しくて、見向きもしなかったのだ。
その時に感じた虚しさや胸の痛みは今でも覚えている。
たとえ窮地に立たされようとも、自分はあのようにはなりたくない。
その姿勢を貫き通すことが、フレイヤなりの意趣返しでもある。
「立派な動機ではありませんが、私はこれからもシルヴェリオ様についていきます。そのうえで、差し出がましいですがコルティノーヴィス伯爵に提案があります」
「提案?」
「シルヴェリオ様に、ありのままの気持ちを伝えてください」
フレイヤはきっぱりと言い切ると、膝の上で両手を握りしめる。
「ありのままの気持ちを伝える……か。貴族の世界ではそのようなことをしているといつか足を掬われるのにできるわけがない」
「だけど、シルヴェリオ様は違いますよね? コルティノーヴィス伯爵にはそんなことしない人だって、本当はわかっているのに勇気がなくて言えないだけなんじゃないですか?」
「……っ」
ヴェーラは息を呑んで赤い目を見開いた。
耳が痛くなるほどの沈黙があった後、ヴェーラはふっと笑い声を零す。
「はははっ、私にここまで反論してくる者は初めてだ。気に入ったよ」
「……えっ?」
戸惑うフレイヤをよそに、威厳のある伯爵家の当主としての仮面を完全に脱ぎ捨て、目にはうっすらと涙を浮かべて笑った。
「大人しそうなのに芯があって頼もしいし、努力家で真っ直ぐな性格――いいね。ルアルディ殿さえよければ、たまに私と茶を飲んでくれないだろうか?」
「お、お誘いいただいて嬉しいのですが、私のような平民でもいいのですか?」
「ルアルディ殿だから一緒に話してみたいんだよ」
「え、ええと……」
「美味しい菓子を用意して待っている」
「――!」
フレイヤの耳が「菓子」に反応してぴくりと動いた。
するとヴェーラはしめたと言わんばかりに赤い目を光らせる。
「私は商団を経由して異国の食材も手に入るから、外国の菓子を用意できる――どうかな?」
「わっ……私でよければ……!」
フレイヤが一瞬にして目を輝かせると、ヴェーラはその反応の速さにまたもや笑いが込み上げてしまい、声を上げて笑ったのだった。
***
客間に戻ってきたシルヴェリオは、目の前の状況に驚いて言葉を失った。
いつもは貴族らしい読めない笑顔ばかり浮かべている姉のヴェーラが、声を上げて笑っているのだ。
対して彼女の差し向かいに座っているフレイヤは、気恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてプルプルと震えている。
どんな状況なのか教えてほしくてならない。
「シルヴェリオ、私もルアルディ殿が好きになったよ」
「……そうですか」
「これからは私の茶飲み友だちになってもらう。ルアルディ殿のためにとっておきの菓子を用意しよう」
「……っ」
シルヴェリオは深い青色の目を見開き、フレイヤに顔を向ける。
「……姉上に餌付けされ――いや、菓子で釣られたのか……」
「ううっ……」
フレイヤは気まずそうにそっと目を逸らし、シルヴェリオの視線から逃れた。
その時のシルヴェリオの表情が、まるで恋人に浮気されたかのようだったと、後にリベラトーレがコルティノーヴィス伯爵家の使用人たちに話すのだった。
「それと……シルヴェリオ、今日の夕食はここでとるのはどうだろうか? ……色々と、話したいことがある」
ヴェーラの声音にまたもや気弱さが混じる。
シルヴェリオもその変化に気づいたのか、探るようにヴェーラを見つめた。
「一緒に母上の話をしたいんだ」
「母上の話……?」
「ああ、……シルヴェリオの口からローデンのバラの話が出たから、懐かしく思ってな」
「……!」
シルヴェリオは当惑した表情になったものの、小さく頷いた。
「……わかりました」
「ありがとう。楽しみにしている」
二人のやり取りを見たフレイヤはホッとして胸をなでおろす。
(シルヴェリオ様とヴェーラ様が打ち解けられますように……)
そうして心の中で、二人を思って祈るのだった。
硬くならないなんて無理な話だ。
心の中で叫び声を上げつつ、フレイヤは引き攣りそうな頬で笑顔を取り繕った。
「こ、個別で……ですか?」
「ああ、シルヴェリオの動向を探って私に報告してほしい。もちろん、シルヴェリオには知らせず内密にね?」
「……っ」
明らかに不穏な取引の予感がしたフレイヤは固唾を飲んだ。
ドクリと自分の心臓が大きく脈を打つのを感じる。
「探るなんて……どうしてシルヴェリオ様に直接聞かないのですか……?」
「私たち姉弟は血の繋がりはあってもさほど交流がないからね。物心がついた頃からお互いに腹の内を探り合っているんだ。シルヴェリオがこの屋敷を出て魔導士団の寮に入ってからはあの子の動向が掴めないから、不穏な動きをしているのではないかと気が気でないのだよ」
ヴェーラはシルヴェリオを警戒しているから監視役がほしいのだろうか。
たしかに先ほどはシルヴェリオとヴェーラの間に微妙な空気が流れていたが、少なくともシルヴェリオがヴェーラを敵対視しているようには見えなかった。
(それにシルヴェリオ様は責任感の強い人だから……家門に泥を塗るようなことはしないと思うけど……)
シルヴェリオとはまだ会って間もないから知らない面があるものの、監視されないといけないような人物だとは思えない。
「用心深いあの子がルアルディ殿には心を開いているようだから適役だと思ったんだ。あの子が人に微笑みを向けることはそうそうないというのに、先ほどは微笑みを浮かべてルアルディ殿を見つめていた。それだけ君を大切に思っているのだろう」
「それは……私が部下だから見守ってくださっているのだと思います。シルヴェリオ様は部下想いの理想的な上司そのものですから!」
なんせアベラルドとは比べ物にならないくらい気遣ってくれている。
シルヴェリオと契約してから今まで、彼の言動に何度感動したのかわからないほどだ。
「あの子と正面から向き合って笑い合えるなんて……本当に羨ましいよ」
「え……?」
ともすると聞き取れないほどの小さな声で紡がれた言葉は、先ほどまでのヴェーラらしくない、気弱さを感じられた。
(もしかしてコルティノーヴィス伯爵は……本当にシルヴェリオ様の動向を知りたいだけ?)
だとすれば回りくどいことをしなくてもいいだろうに。
「気にしないでくれ――さて、話が脱線したね。取引のことだが、もちろん報酬を出す。望むならカルディナーレ香水工房への復讐に手を貸すし、調香師として名を馳せる手伝いもしてあげよう。――どうかな?」
「報酬だなんて……」
「私は無給で働かせたくはないからね。成果に見合った報酬を出すよ」
「……僭越ながら、お断りさせていただきます」
「なんだって?」
ヴェーラの声と眼差しに非難の色が滲もうと、フレイヤは毅然と見つめ返す。
実のところ貴族を相手に言い返しているこの状況に不安が募るし、ヴェーラの圧に押されて喉に鉛がつっかえているような感覚がするけれど、それでも崩せなかった。
「恩人であるシルヴェリオ様を裏切るようなことはしたくありませんのでお受けできません」
「義理堅いのだね。しかしシルヴェリオはこれまでに商売をした経験がないから、香水事業が上手くいかないかもしれない。ともすると、また調香師の道を諦めることになるかもしれないよ? だけど私と手を組むのであれば、もしもの時は君が調香師でいられるように助けると約束しよう」
ヴェーラの言う通り、シルヴェリオは今までに一度も商売をした経験がない。
一方でヴェーラの商売における手腕は評価されているし、伝手もたくさんあるだろう。
(それでも、コルティノーヴィス伯爵の提案に乗ってシルヴェリオ様を監視するなんてできないよ)
フレイヤはゆるゆると首を横に振った。
「それでもお受けできません。私は義理堅いのではなく――くよくよと悩む性格なので、コルティノーヴィス伯爵の提案をお受けすると仕事をする間中ずっと後悔して、いずれ仕事に手がつかなくなるとわかっていますから。自ら破滅する道を選びたくないんです」
――そう、高尚な理由なんてない。
フレイヤは心の中で苦笑する。
(私は自分が自分に失望するのが嫌なだけ……。誰かを見捨ててまで自分の地位に固執するような人間になりたくないだけだから……)
アベラルドに解雇された時、フレイヤに手を差し伸べてくれる人は誰もいなかった。みんな保身に忙しくて、見向きもしなかったのだ。
その時に感じた虚しさや胸の痛みは今でも覚えている。
たとえ窮地に立たされようとも、自分はあのようにはなりたくない。
その姿勢を貫き通すことが、フレイヤなりの意趣返しでもある。
「立派な動機ではありませんが、私はこれからもシルヴェリオ様についていきます。そのうえで、差し出がましいですがコルティノーヴィス伯爵に提案があります」
「提案?」
「シルヴェリオ様に、ありのままの気持ちを伝えてください」
フレイヤはきっぱりと言い切ると、膝の上で両手を握りしめる。
「ありのままの気持ちを伝える……か。貴族の世界ではそのようなことをしているといつか足を掬われるのにできるわけがない」
「だけど、シルヴェリオ様は違いますよね? コルティノーヴィス伯爵にはそんなことしない人だって、本当はわかっているのに勇気がなくて言えないだけなんじゃないですか?」
「……っ」
ヴェーラは息を呑んで赤い目を見開いた。
耳が痛くなるほどの沈黙があった後、ヴェーラはふっと笑い声を零す。
「はははっ、私にここまで反論してくる者は初めてだ。気に入ったよ」
「……えっ?」
戸惑うフレイヤをよそに、威厳のある伯爵家の当主としての仮面を完全に脱ぎ捨て、目にはうっすらと涙を浮かべて笑った。
「大人しそうなのに芯があって頼もしいし、努力家で真っ直ぐな性格――いいね。ルアルディ殿さえよければ、たまに私と茶を飲んでくれないだろうか?」
「お、お誘いいただいて嬉しいのですが、私のような平民でもいいのですか?」
「ルアルディ殿だから一緒に話してみたいんだよ」
「え、ええと……」
「美味しい菓子を用意して待っている」
「――!」
フレイヤの耳が「菓子」に反応してぴくりと動いた。
するとヴェーラはしめたと言わんばかりに赤い目を光らせる。
「私は商団を経由して異国の食材も手に入るから、外国の菓子を用意できる――どうかな?」
「わっ……私でよければ……!」
フレイヤが一瞬にして目を輝かせると、ヴェーラはその反応の速さにまたもや笑いが込み上げてしまい、声を上げて笑ったのだった。
***
客間に戻ってきたシルヴェリオは、目の前の状況に驚いて言葉を失った。
いつもは貴族らしい読めない笑顔ばかり浮かべている姉のヴェーラが、声を上げて笑っているのだ。
対して彼女の差し向かいに座っているフレイヤは、気恥ずかしそうに顔を真っ赤にしてプルプルと震えている。
どんな状況なのか教えてほしくてならない。
「シルヴェリオ、私もルアルディ殿が好きになったよ」
「……そうですか」
「これからは私の茶飲み友だちになってもらう。ルアルディ殿のためにとっておきの菓子を用意しよう」
「……っ」
シルヴェリオは深い青色の目を見開き、フレイヤに顔を向ける。
「……姉上に餌付けされ――いや、菓子で釣られたのか……」
「ううっ……」
フレイヤは気まずそうにそっと目を逸らし、シルヴェリオの視線から逃れた。
その時のシルヴェリオの表情が、まるで恋人に浮気されたかのようだったと、後にリベラトーレがコルティノーヴィス伯爵家の使用人たちに話すのだった。
「それと……シルヴェリオ、今日の夕食はここでとるのはどうだろうか? ……色々と、話したいことがある」
ヴェーラの声音にまたもや気弱さが混じる。
シルヴェリオもその変化に気づいたのか、探るようにヴェーラを見つめた。
「一緒に母上の話をしたいんだ」
「母上の話……?」
「ああ、……シルヴェリオの口からローデンのバラの話が出たから、懐かしく思ってな」
「……!」
シルヴェリオは当惑した表情になったものの、小さく頷いた。
「……わかりました」
「ありがとう。楽しみにしている」
二人のやり取りを見たフレイヤはホッとして胸をなでおろす。
(シルヴェリオ様とヴェーラ様が打ち解けられますように……)
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