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1章
③
しおりを挟む「何事にも初めてはつきものです。恐れるのではなく、いかに事前に備えるか、ということが大事になります」
教師のようなことを言っているが騙されてはいけない。
中身と外見が必ずしも一致しないのだと、伊坂の件で学んだのではなかったのか。一瞬でも助けてくれるなんて希望を抱いたのがいけなかったのだろう。
「スグル様が辛く苦しくないよう一緒に頑張りましょう」
「人のこと行動不能にしといてそれはないかな」
猛烈な脱力感に襲われている優は皮肉に口端を釣り上げた。
この男、無害を装っているが話を聞いていない節がある。
ベッドの上で仰向けに転がっていた。見下ろしてくるアジュアは特に何も言わない。これは聞くつもりがない、という意思表示であると察する。
手伝うという発言からの行動は速かった。
逃げ出そうとした優の首筋をアジュアの指先が掠める。たったそれだけのことで全身から力が抜けてしまった。逃げようとしていた足が絡まりベッド下に崩れ落ちた優は愕然とした。「精霊のマナを少しだけ当ててみました」ベッドにしがみつくことで身体をどうにか支えているとアジュアは悪びれもせずに言い放った。「感覚が少し鈍くなるほうが負担が減りますからね、ね?」細い腕のどこに力があるのか優の身体をベッドの上に引き上げていく。身長だけで見ると優のほうが少し高いぐらいだ。辛うじて口だけは動く。
力の入らない頭の下にアジュアが膝を滑り込ませた。所謂、膝枕だ。やはり肉付きはそこまでよくないらしく、骨が当たって少しだけ痛い。
「僕にできることはスグル様の負担を少しでも軽くすることだけです。貴方には生きて貰わなければいけないんです」
たとえ、本人の意思を無視した形であったとしても――という言葉が続いているような気がした。
広げていた手のひらにじゃらっと現れた宝石。のようなもの。食べさせられたものより少しだけ色濃い。
それらを布を纏わず晒されている優の胸に落としていく。肌に触れる前に宝石は固形から液体へと弾け割れていった。ぬるつく液体が胸から腹部にかけて広がり散る。
「きもちわるー……」
「そうですか?」
指が肌の表面を滑っていく。薄っすらと割れている腹部の溝や臍の凹凸を確認するような動き。
「そのうち良くなります。貴方には苦痛を感じてほしくない」
「優しいのか酷いやつなのかわかんないねお前」
「……よく言われます。僕としては優しさのつもりなんですが」
目にかかる髪を指先が退けてくれる。
「綺麗な髪ですね」
指通りを楽しむように髪を撫でられた。
「男のくせにって笑えちゃう?」
そうやって笑われることに慣れている。
髪を伸ばしていると、何かの願掛けかと問われることもあるぐらい不思議に思う人間が多かった。人の髪型なんてどうでもいいだろうに一々尋ねられて鬱陶しく感じることもある。
「貴方のものだから」
真面目に返されて毒気を失う。
男の手から髪が零れていく。
「へえ、それってオレがおっさんとかデブでもいけんの?」
「ええ、所詮肉体は魂を入れる器でしかないので」
肉体がなければ魂だけあってもしょうがないのではないだろうか。
丁寧だが、時々雑になる。それでも、渡人として敬意を払って接してくるアジュアを憎めないでいた。むしろどこかドライな印象を受けるところに好感を持てる。
彼から自分を傷つけようとする意志を感じられないからだろうか? 現状追い詰められているのだが、それでもこの男からは敵意、悪意といった類が感じられないのだ。
嫌味なんて口から出すのも億劫で代わりにため息が漏れた。
「だったらオレの身体がどうなろうがどうでもいいってことだろ」
髪の毛から頬へ指が滑ってくる。
ぬるついている手で両頬を包まれ、アジュアの顔がずっと近くまで落ちてきた。
「この世界は価値のない者にとって優しくない世界です」
渡人であるが、では渡人として優にはどんな価値がある?
生まれながらにして魔術が使えることが何よりも名誉。次に血統。そして個々の能力へと比重が軽くなっていく。渡人も特別枠での価値ある人間だが【役割】を果たさなければならない。
そのために異世界へと呼ばれたのだ。本来は価値がないはずがない。だが――渡人が【役割】を果たさなければ、どうだ? しかし、生きているだけで価値があるはずだが、
『存在するだけで価値がある。一部の者は食べることもあるそうです』
ふと思い出した言葉だった。
保護されてよかった。保護されなかった場合にはどうなるのか具体的に聞いてはいなかったが、けして渡人にとって絶対安全ということではないのだろう。
運が悪ければ実際にそういうこともあった。
アジュアは小さく耳元で囁いてくる。
「僕は貴方に生きていてほしい」
2人にしか聞こえないような声だった。まるで、誰かに聞かれないようにしている。
秘密ですよ。アジュアは人差し指を己の唇に押し当て、口パクでそう紡いだ。
冷ややかなものが背中を駆け上がっていき、途端自分という人間の弱さが引き立てられて不安を煽られる。
「渡人としての価値が疑われないように、それだけは絶対回避しなければいけない」
宝石が唇に押しつけられた。
価値が疑われることによって優の受ける待遇が異なってくる。やはり、早く元の世界へ戻る必要があるようだ。
「貴方だけではなく僕も手段を選んではいられない状況なのです」
指で口に押し込まれた。さっきと同じように口腔内で弾けて液体となったので咀嚼する必要がない。喉へと流れ込んでいく。妙に絡まって甘ったるくて優は顔を顰めた。
彼が善人か悪人か、いや、敵か味方か。まだ判断することはできない。
「くそ、あま、い」
唇から飲み込めなかった甘ったるいものが流れ落ちていった。
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