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第3章「不浄なる生命の緒」
第3章第2節「不浄なる生命の緒」
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住んでいるアパートの二階から階段を降りると、すぐに並木道が続いている。落ち葉はおろか葉をつける木は一つもない。頬を撫でるそよ風が運ぶのは、生命の気配ではなく冷たさのみ。
イヴが後をついて来ているか振り返ると、セツナはイヴの不恰好な姿を見た。
「えっと、……どうかな?」
どうやら、セツナの真似をしてマフラーをつけてきたらしい。が、マフラーの巻き方が分からなかったのだろう。首のまわりでぐるりと回し、余った丈は足元へ下がっている。
「ださ」
セツナはくすりと笑い、さっさと先へ進んでしまった。イヴも早足で後を追って、隣を歩く。
「だ、だって巻き方が分からなくて」
「別におかしくはないよ。からかっただけ」
「もう……本当に?」
そんなこんな、殺風景な並木道を意識せずとも同じ歩幅で歩く二人。イヴは隣にいるセツナの横顔を伺いながら、澄まし顔で足を運んでいる。
こうした散歩で、セツナは町のいろいろな場所に連れて行ってくれる。数多くの蔵書を誇る図書館、空っぽの鳥籠があるアトリエ、風と落ち葉の雑踏に包まれる駅舎────そのどれもが、イヴにとって楽しい遊び場であった。しかし、セツナはそうした場所を訪れてはどこか遠くを見つめてばかり。イヴが疑問に思って問いかけても、彼女は人々で賑わっていた昔話を聞かせてくれるのみ。話を終えると、彼女はすぐに微睡みに身を委ねてしまうのだ。イヴからすれば、全てが未知の場所なのにワクワクしないセツナが不思議で仕方がなかった。この場所はいったいどんなところだったのだろう? どれだけの人が行き交っていたのだろう? そうして過ごす日々の中で感じた胸の高鳴りを、イヴはひっそりと胸の奥底にある宝箱にしまいこむ。
そして今、イヴは宝箱にしまいこんだそれを取り出すのだ。今度はどんなところに連れて行ってくれるんだろう、と。
ワクワクとした気持ちを隠せず足を弾ませるイヴ。淡々とした足どりで地面を踏みしめるセツナ。二人が向かった先、そこは広い公園だった。
公園に入るや否や、イヴはセツナを抜かしてブランコへ走っていく。セツナはため息を吐きつつ、彼女の背中を追う。
イヴは外見こそセツナと同じかもしれないが、ずっと幼い。そんなことを感じながらイヴの隣のブランコに座ると、彼女はワクワクした声色で催促してきた。
「ねぇ、今日はどんなことを教えてくれるの?」
イヴはパラダイムシフトが起きる前の世界を知らない。生まれていなかったのだから当然だが、彼女はそこに関心を寄せていた。セツナと散歩に出た日には、彼女から自分の知らないことを教えてもらえる。イヴの密かな楽しみだった。
そうだね、とセツナは何を話そうか考えながら、控えめに地面を蹴ってブランコを揺らす。
「……昔は、電話っていうものがあったんだ。どんなに遠く離れていても、話したい誰かと話すことができたの」
アトランティスにも電線が架かっているが、電気は一切通っていない。今となっては、誰かやどこかに電話をかけることはできなかった。
「いつでも?」
ゆったりとしたペースでブランコを漕ぎ、問いかけるイヴ。
「うん。いつでもできるよ。繋がりさえすればね」
今にして思えば、便利だったと思う。連絡先を知っていれば、いつでも連絡することができる。もし今も電話が使えたなら、きっと町の外と連絡を取ることもできたはずだ。
「ふーん、それじゃあわたしたちって電話みたい?」
覚えたての言葉を使いだしたと思うと、イヴは無理矢理な例えをする。
「私たちが?」
突拍子もないことに思わず聞き返すと、彼女はセツナを見ないまま答えた。
「いつでもどこでもお互いに繋がり合えるって、こんな感じなのかなって」
イヴはセツナの子供である。その事実を踏まえたとしても、彼女の言葉には底が見えなかった。
セツナにとって、イヴという存在は何か。口では簡単に子供だと説明できたとしても、自分自身の心まで納得させられるとは限らない。
イヴはセツナにとって血を分けた子供や姉妹のような、はたまた分身のような不思議な存在である。パラダイムシフトが起きてイヴを妊娠した時から、二人はひと時も離れることはなかった。いや、離れることができなかったのだ。だがもし彼女の手を離すことができたとして、その手を離しただろうか。
「どうかな」
答えを誤魔化すと、セツナはブランコから立ち上がる。スカートのポケットから飛び出ていた黒い手帳をそっと戻し歩き出す。イヴも慌ててブランコを止め、「待って」とセツナの後を追って公園から出た。
セツナが散歩に出た理由は、イヴと他愛もない話をするためだけではない。彼女はアトランティスが置かれている状況について独自に調査を進めてきた。錬金術師の末裔であるマリーとも協力し、自身の超能力や妊娠、イヴのことについて探った。そうする中で、分かったことも少なからずある。その全てを、セツナは黒い手帳にまとめていた。
並木道の終端にある公園の外から出ると、そこは大通りに続いている。大通りと言っても特別栄えているわけではなく、単に道幅が広く疎らに商店が構えている程度。風景として溶け込む電線や、枯れた木が寂れた町を縁取っている。そんな中、公園の近くにある広場には一際目立つ背の低い木があった。
何より特徴的なのは、その木には白い花が咲いていたのだ。傘のように広がった枝に実る緑の葉と、咲き誇る白い花。それが、背の高い人なら手が届く距離にある。
「綺麗……」
感嘆するイヴをよそにセツナは黒い手帳を開く。手帳には手書きの他に他の本から切り取られたページがテープで貼り付けられている。あるページには木の絵の切り抜きが貼られ、目の前の木とよく似ていた。
手帳をスカートのポケットにしまい、彼女は咲いている白い花に手を伸ばす。背の低い彼女の手は届かなかったが、白い花は自然に摘み取られ手のひらに収まる。超能力を用いたのだろう。
そして、セツナは花の根を摘むと口元に花弁を近づける。花が分泌している蜜を吸うために。
「…………」
アトランティスの食料は限られている。そこでセツナが目をつけたのは自然に生きる植物だ。とはいえ、アトランティスに元々生息していた動植物はほとんど消えてしまい、代わりに見たことのない花が咲くようになった。それを調べたところ、実は神話に登場する花の一種であり蜜を食べられることが分かった。
本来なら存在しないはずの花。手をつけることを躊躇ったとして無理もない。だが食料に関して長い目で見れば余裕がないこともあって、彼女は花の蜜を吸うことを躊躇しなかった。
「……おいしい?」
自身の様子を見ていたイヴに聞かれ、セツナは何度目かも分からない答えを返した。
「まぁまぁかな。……ちょっとすっぱい」
イヴは実際に食事をすることはできない。曰く、まだ生まれていないイヴはセツナとの繋がりを通してしか食欲を満たせないのだ。
「わたしも食べてみたいな」
「今食べてるでしょ」
セツナが食べれば、イヴも食べたことになる。昨日食べたパンも同じで、実際に食べるのはイヴではなくセツナだ。
「そうじゃなくて、一緒に食べるってことをしてみたいなって」
イヴは、能動的に食べるという行為をすることができない。だから、彼女は何度もセツナに味を問いかけてくる。美味しいと返してくれれば嬉しくなるし、不味いと返してくれれば悲しくなる。それがイヴの味覚になるのだ。
そのことを分かっていたセツナは、何度も味を聞くことに対して特に咎めることはしなかった。一緒に食べる、という行為に憧れている彼女を否定したところで何にもならない。
「……あなたが生まれれば、できるかもね」
強いて言うなら、イヴが真の意味で生まれたとすれば話は変わってくるだろう。生まれることができたなら、一緒に食べることも、セツナ以外の誰かと話すこともできるかもしれない。
イヴは何も言うことができず、そっぽを向いて歩き出す。数歩進んだところで、彼女は遠くに見えた人影に気づく。
残念ながら、イヴはセツナ以外の誰かから認識されない。錬金術師のマリーも、元保安官のジルも、誰一人としてイヴに気づくことはなかった。
にも関わらず────────イヴが見た人影はこちらに向かって手を振ってくれたのだ。
「…………!」
予測していなかったことに驚きながらも、彼女はぎこちなく右手をゆっくりとあげる。すると、手を振っていた人影も反応したのか手を止める。
あの誰かはイヴに気づいている。マリーにもジルにも見えなかった自分を、見てくれている。
ドキドキと高鳴る胸の鼓動が、気のせいではないのだと証明していた。
彼女はもっとよく顔を見ようと足を踏み出して近づく。人影は男性のようで体格はがっしりとしており、美しい銀髪を持っていた。彼に近づくに連れて、段々と確信へ変化していく。
そして目が合う……その瞬間。
「きゃっ!」
何かに躓いたイヴは前のめりに倒れ込む。赤くなった手はジンジンと痛むが、彼女は体を労るより先に前を見上げた。しかし、先ほどまでいたはずの人影はなかった。
「イヴ!」
悲鳴に気づいたセツナは駆け寄ると、イヴを抱き起こして顔を見る。
「大丈夫?」
「えへへ、ごめんなさい。転んじゃった」
心配するセツナに対して、イヴは誤魔化すように笑った。
幸いにも大きな怪我はなく、目立つのは服の汚れだけだ。ひとまず胸を撫で下ろしたセツナは、イヴが転んだ辺りを見回す。先ほどまでのセツナは黒い手帳を見ていたこともあって、転ぶところを見ていない。だが、転んだ理由はすぐに分かった。
「下、ちゃんと気をつけてね」
「あ……」
イヴも言われて気づいたが、足元にはちょうど亀裂が口を開けていたのだ。自分に気づいてくれた何者かに気を取られ、足をかけて転んでしまったのだろう。
亀裂は広場の所々に見え、大通りの方にまで続いている。まるで大地が割れてしまいそうな気もするが、それよりも気になることがイヴにはあった。
「さ、そろそろ帰ろっか」
「う、うん」
セツナの手を借りて立ち上がったイヴは、もう一度だけ広場の奥に目をやる。やはりそこには誰もいないが、手を振ってくれたのは間違いなかった。セツナ以外の誰にも認識されることのなかったイヴがだ。
「行くよ」
と、声をかけられて我に返る。いつの間にか置いていかれそうになっていたことに気づき、小走りに駆け出す。セツナのもとへ来ると、イヴは彼女の手をギュッと握った。
突然のことにセツナは一瞬驚くが、手を解くことはしなかった。といっても、セツナの方はほとんど握っていなかったが。
そうして広場を後にして家に帰る二人。
広場を出る最後まで、イヴは背後を振り返り続けた。
イヴが後をついて来ているか振り返ると、セツナはイヴの不恰好な姿を見た。
「えっと、……どうかな?」
どうやら、セツナの真似をしてマフラーをつけてきたらしい。が、マフラーの巻き方が分からなかったのだろう。首のまわりでぐるりと回し、余った丈は足元へ下がっている。
「ださ」
セツナはくすりと笑い、さっさと先へ進んでしまった。イヴも早足で後を追って、隣を歩く。
「だ、だって巻き方が分からなくて」
「別におかしくはないよ。からかっただけ」
「もう……本当に?」
そんなこんな、殺風景な並木道を意識せずとも同じ歩幅で歩く二人。イヴは隣にいるセツナの横顔を伺いながら、澄まし顔で足を運んでいる。
こうした散歩で、セツナは町のいろいろな場所に連れて行ってくれる。数多くの蔵書を誇る図書館、空っぽの鳥籠があるアトリエ、風と落ち葉の雑踏に包まれる駅舎────そのどれもが、イヴにとって楽しい遊び場であった。しかし、セツナはそうした場所を訪れてはどこか遠くを見つめてばかり。イヴが疑問に思って問いかけても、彼女は人々で賑わっていた昔話を聞かせてくれるのみ。話を終えると、彼女はすぐに微睡みに身を委ねてしまうのだ。イヴからすれば、全てが未知の場所なのにワクワクしないセツナが不思議で仕方がなかった。この場所はいったいどんなところだったのだろう? どれだけの人が行き交っていたのだろう? そうして過ごす日々の中で感じた胸の高鳴りを、イヴはひっそりと胸の奥底にある宝箱にしまいこむ。
そして今、イヴは宝箱にしまいこんだそれを取り出すのだ。今度はどんなところに連れて行ってくれるんだろう、と。
ワクワクとした気持ちを隠せず足を弾ませるイヴ。淡々とした足どりで地面を踏みしめるセツナ。二人が向かった先、そこは広い公園だった。
公園に入るや否や、イヴはセツナを抜かしてブランコへ走っていく。セツナはため息を吐きつつ、彼女の背中を追う。
イヴは外見こそセツナと同じかもしれないが、ずっと幼い。そんなことを感じながらイヴの隣のブランコに座ると、彼女はワクワクした声色で催促してきた。
「ねぇ、今日はどんなことを教えてくれるの?」
イヴはパラダイムシフトが起きる前の世界を知らない。生まれていなかったのだから当然だが、彼女はそこに関心を寄せていた。セツナと散歩に出た日には、彼女から自分の知らないことを教えてもらえる。イヴの密かな楽しみだった。
そうだね、とセツナは何を話そうか考えながら、控えめに地面を蹴ってブランコを揺らす。
「……昔は、電話っていうものがあったんだ。どんなに遠く離れていても、話したい誰かと話すことができたの」
アトランティスにも電線が架かっているが、電気は一切通っていない。今となっては、誰かやどこかに電話をかけることはできなかった。
「いつでも?」
ゆったりとしたペースでブランコを漕ぎ、問いかけるイヴ。
「うん。いつでもできるよ。繋がりさえすればね」
今にして思えば、便利だったと思う。連絡先を知っていれば、いつでも連絡することができる。もし今も電話が使えたなら、きっと町の外と連絡を取ることもできたはずだ。
「ふーん、それじゃあわたしたちって電話みたい?」
覚えたての言葉を使いだしたと思うと、イヴは無理矢理な例えをする。
「私たちが?」
突拍子もないことに思わず聞き返すと、彼女はセツナを見ないまま答えた。
「いつでもどこでもお互いに繋がり合えるって、こんな感じなのかなって」
イヴはセツナの子供である。その事実を踏まえたとしても、彼女の言葉には底が見えなかった。
セツナにとって、イヴという存在は何か。口では簡単に子供だと説明できたとしても、自分自身の心まで納得させられるとは限らない。
イヴはセツナにとって血を分けた子供や姉妹のような、はたまた分身のような不思議な存在である。パラダイムシフトが起きてイヴを妊娠した時から、二人はひと時も離れることはなかった。いや、離れることができなかったのだ。だがもし彼女の手を離すことができたとして、その手を離しただろうか。
「どうかな」
答えを誤魔化すと、セツナはブランコから立ち上がる。スカートのポケットから飛び出ていた黒い手帳をそっと戻し歩き出す。イヴも慌ててブランコを止め、「待って」とセツナの後を追って公園から出た。
セツナが散歩に出た理由は、イヴと他愛もない話をするためだけではない。彼女はアトランティスが置かれている状況について独自に調査を進めてきた。錬金術師の末裔であるマリーとも協力し、自身の超能力や妊娠、イヴのことについて探った。そうする中で、分かったことも少なからずある。その全てを、セツナは黒い手帳にまとめていた。
並木道の終端にある公園の外から出ると、そこは大通りに続いている。大通りと言っても特別栄えているわけではなく、単に道幅が広く疎らに商店が構えている程度。風景として溶け込む電線や、枯れた木が寂れた町を縁取っている。そんな中、公園の近くにある広場には一際目立つ背の低い木があった。
何より特徴的なのは、その木には白い花が咲いていたのだ。傘のように広がった枝に実る緑の葉と、咲き誇る白い花。それが、背の高い人なら手が届く距離にある。
「綺麗……」
感嘆するイヴをよそにセツナは黒い手帳を開く。手帳には手書きの他に他の本から切り取られたページがテープで貼り付けられている。あるページには木の絵の切り抜きが貼られ、目の前の木とよく似ていた。
手帳をスカートのポケットにしまい、彼女は咲いている白い花に手を伸ばす。背の低い彼女の手は届かなかったが、白い花は自然に摘み取られ手のひらに収まる。超能力を用いたのだろう。
そして、セツナは花の根を摘むと口元に花弁を近づける。花が分泌している蜜を吸うために。
「…………」
アトランティスの食料は限られている。そこでセツナが目をつけたのは自然に生きる植物だ。とはいえ、アトランティスに元々生息していた動植物はほとんど消えてしまい、代わりに見たことのない花が咲くようになった。それを調べたところ、実は神話に登場する花の一種であり蜜を食べられることが分かった。
本来なら存在しないはずの花。手をつけることを躊躇ったとして無理もない。だが食料に関して長い目で見れば余裕がないこともあって、彼女は花の蜜を吸うことを躊躇しなかった。
「……おいしい?」
自身の様子を見ていたイヴに聞かれ、セツナは何度目かも分からない答えを返した。
「まぁまぁかな。……ちょっとすっぱい」
イヴは実際に食事をすることはできない。曰く、まだ生まれていないイヴはセツナとの繋がりを通してしか食欲を満たせないのだ。
「わたしも食べてみたいな」
「今食べてるでしょ」
セツナが食べれば、イヴも食べたことになる。昨日食べたパンも同じで、実際に食べるのはイヴではなくセツナだ。
「そうじゃなくて、一緒に食べるってことをしてみたいなって」
イヴは、能動的に食べるという行為をすることができない。だから、彼女は何度もセツナに味を問いかけてくる。美味しいと返してくれれば嬉しくなるし、不味いと返してくれれば悲しくなる。それがイヴの味覚になるのだ。
そのことを分かっていたセツナは、何度も味を聞くことに対して特に咎めることはしなかった。一緒に食べる、という行為に憧れている彼女を否定したところで何にもならない。
「……あなたが生まれれば、できるかもね」
強いて言うなら、イヴが真の意味で生まれたとすれば話は変わってくるだろう。生まれることができたなら、一緒に食べることも、セツナ以外の誰かと話すこともできるかもしれない。
イヴは何も言うことができず、そっぽを向いて歩き出す。数歩進んだところで、彼女は遠くに見えた人影に気づく。
残念ながら、イヴはセツナ以外の誰かから認識されない。錬金術師のマリーも、元保安官のジルも、誰一人としてイヴに気づくことはなかった。
にも関わらず────────イヴが見た人影はこちらに向かって手を振ってくれたのだ。
「…………!」
予測していなかったことに驚きながらも、彼女はぎこちなく右手をゆっくりとあげる。すると、手を振っていた人影も反応したのか手を止める。
あの誰かはイヴに気づいている。マリーにもジルにも見えなかった自分を、見てくれている。
ドキドキと高鳴る胸の鼓動が、気のせいではないのだと証明していた。
彼女はもっとよく顔を見ようと足を踏み出して近づく。人影は男性のようで体格はがっしりとしており、美しい銀髪を持っていた。彼に近づくに連れて、段々と確信へ変化していく。
そして目が合う……その瞬間。
「きゃっ!」
何かに躓いたイヴは前のめりに倒れ込む。赤くなった手はジンジンと痛むが、彼女は体を労るより先に前を見上げた。しかし、先ほどまでいたはずの人影はなかった。
「イヴ!」
悲鳴に気づいたセツナは駆け寄ると、イヴを抱き起こして顔を見る。
「大丈夫?」
「えへへ、ごめんなさい。転んじゃった」
心配するセツナに対して、イヴは誤魔化すように笑った。
幸いにも大きな怪我はなく、目立つのは服の汚れだけだ。ひとまず胸を撫で下ろしたセツナは、イヴが転んだ辺りを見回す。先ほどまでのセツナは黒い手帳を見ていたこともあって、転ぶところを見ていない。だが、転んだ理由はすぐに分かった。
「下、ちゃんと気をつけてね」
「あ……」
イヴも言われて気づいたが、足元にはちょうど亀裂が口を開けていたのだ。自分に気づいてくれた何者かに気を取られ、足をかけて転んでしまったのだろう。
亀裂は広場の所々に見え、大通りの方にまで続いている。まるで大地が割れてしまいそうな気もするが、それよりも気になることがイヴにはあった。
「さ、そろそろ帰ろっか」
「う、うん」
セツナの手を借りて立ち上がったイヴは、もう一度だけ広場の奥に目をやる。やはりそこには誰もいないが、手を振ってくれたのは間違いなかった。セツナ以外の誰にも認識されることのなかったイヴがだ。
「行くよ」
と、声をかけられて我に返る。いつの間にか置いていかれそうになっていたことに気づき、小走りに駆け出す。セツナのもとへ来ると、イヴは彼女の手をギュッと握った。
突然のことにセツナは一瞬驚くが、手を解くことはしなかった。といっても、セツナの方はほとんど握っていなかったが。
そうして広場を後にして家に帰る二人。
広場を出る最後まで、イヴは背後を振り返り続けた。
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