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南康介の場合 その1
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取材、録画。映像素材と一通りの裏が取れたら、後はエディティング、カット。そうして俺達は、俺達自身が語りたいメッセージを愚鈍な大衆に向けて発信し、連中の知的好奇心を満たしてやる。
特殊な職業に就いていると一般常識が欠け傲慢になると連中は言うが、何の事は無い。彼らはコンテンツを消費するだけで作ろうともせず、ただ与えられた餌に文句を言っている雛鳥に過ぎない。俺達は、彼らの知的好奇心という空腹を満たす材料の供給による生殺与奪の権利を握っている。
今の若い連中はSNSこそが影響力を持っていると誤認している。情報を個人で拡散する事で、個人が企業よりも優位な立場に立つ事が可能だと言う。だが、勘違いも甚だしい。スマートフォンという高機能デバイスが個人に普及し、爆発的に情報収集力や情報発信能力が増大した事は脅威だが、所詮、組織形態を持たない個々の集団が拡散する情報に過ぎない。統一性に欠け、何が真実かで何が嘘かを見極める機能も能力も低い。だから容易にデマを信じ、拡散し、そして真実よりもより彼らにとって刺激的な情報を取捨選択し、自分達の都合のいい情報を周知させようと躍起になる。
SNSにより、マスメディアが報道しない情報を個人が発信可能になった事に優位性を感じ、そしてその情報を拡散し合う馬鹿は確かに増えた。だがSNSというのは、自分の興味ある情報や相手を選ぶ事で偏った情報ばかりを取捨選択し、自分の満足する答えを探すツールにしかなっていない。そんな事実に気付かないのは、正にSNS上でぎゃあぎゃあと騒ぐ小物ばかりだ。
何の事は無い。メディア以上の力を持ったと愚かにも自己冗漫に陥ったユーザーは、自身が嫌うメディアと同じ存在になった事に気付けないままなのだ。その点で、組織として長年の実績を積み、各方面に影響力を持つ大手メディアの持つ力は圧倒的だ。
都合の悪いニュースは取り上げなければいい。些細なニュースまですべて報道していては、放送枠なんて滅茶苦茶になってしまうだろうから。
真実は、見付けるものではない。俺達メディアが作るものだ。
俺は、ここ最近剃っていない無精髭を手で触りながら、昨今巷で話題になっている一つのワードについて特集を組む事を考える。特集と言っても、俺が担当しているワイドショーの一コーナーで取り扱う程度のものではあるが。
土星の夢。ソーシャルメディアでは、既にこの言葉が浸透している。
一体、この土星の夢が何を意味しているのか。人類がこの夢を一斉に見たのは、何か地球規模の現象が起こる前兆なのだろうか。そう考える人間も多く居る様だが、夢を見ていない俺の様な人間からすれば、たかが夢で何を言う、って話だ。
更に言うのであれば、土星の夢の意味を考えるのは、俺達テレビマンの仕事ではなく、学者やジャーナリストの分野だ。真実なんてどうでもいい。大衆も求めていない。
自分の欲しい情報。「こうあって欲しい」と求めている『現実』。大衆はそれを盲信する。例え彼らが騙されまいと身構えていても、俺達が作る映像のトリックに魅了され、それを自然に信じ込む。編集の魅力ってやつだ。
「南さん」
人の少なくなった夜のオフィスで頭を抱えている俺の後ろから、チーフアシの道尾が声を掛けてきた。何だよ、と俺はぶっきらぼうに答えた。「この土星の夢のコーナー、本当に二十分も時間振るんですか? 政経ニュースを中心に組んで時間を割り振った方が……」
「テメエ、入社一年目の癖に生意気に意見するのか」
他企業であれば、若手の意見を尊重する傾向もあるのだろう。だが、社員の出入りや入れ替わりの激しいこの業界では、キャリアが上の人間の意見こそが絶対だ。それに逆らったり無理に自分を押し出そうとする連中は、早い内に叩かれる。まだ聞き流してやる俺の教育方法は、優しい方だ。そんな俺の威圧的な声にビビり、道尾は「済みません」と謝った。いいか、と俺は強く前置きをして、ペンの尻を道尾の額に押し付けて説教をする。
「何度も言うけどな、余程名の売れてるキャスターとか識者が番組に出てない限りは、放送の意向なんて俺達が決めるの。俺達が担当してるのは夕方のワイドショー番組であって、ゴールデンタイムの国営放送じゃないわけ。サラリーマンが退社もしてない時間のワイドショーに主婦やガキしか居ない視聴者が求めてるのは刺激的な内容であって、明日に役立てられる政治経済のニュースじゃないのよ。お分かり?」
ペシペシと道尾の頭を叩きながら、俺はねちっこく口にした。「識者からの意見だって、言質さえ取れれば、それに沿って効果的に『演出』して、視聴者の望む通りの番組が出来上がるわけ。それさえ出来れば、それなりの数字も取れるんだから」
効果的な演出。それはとりもなおさず編集の事であり、派手なBGMや目立つテロップで重要ワードだけを抜き出して、印象操作をする事に他ならない。そして、それこそが俺達テレビマンの仕事なのだ。だが、まだペーペーのこの道尾は、そんな俺達のやり方を良く理解していない。だから俺は、こいつが入社した時にした会話をもう一度する。その根性と性質の理解が追い付くまで、何度でも言い聞かせるつもりだ。
「なあ。テレビ制作スタッフの仕事ってのは何だ? 個人の理想とか目標とかそんなつまらないモンは、取り敢えず置いといて」
大方理想論を口にしようとしていたであろう道尾は一瞬開きかけた口を閉ざし、答える。
「視聴率の取れる番組を作る事です」
「そうだ。それが全てだ。キャリアも上司からの評価も、給料も女も、その仕事が出来て初めて伴ってくる結果なんだよ。何より、その仕事が評価されなければ金も稼げない。仕事ってのは、日々を生きていく金を稼ぐ為にするものだ。無かったら困るが、あって困る事は無い、とても大事なものであり、武器でもある。それを得る為には理想とか自分の我の強い部分とかは全部捨てて『素直』になって、仕事の本質だけをまずは理解して、視聴率を稼ぐ為にはどうすればいいか。その問題に対する答えだけに集中すれば、きっと答えって見えてくるものだろ」
はい、と道尾は短く答えた。
数字が出せなければ、上司から詰められる。評価に響く。それは何処の職場でも同じだが、大衆の目に常に晒されて世間的な評価が必ず求められる俺達の様な職種の人間は、特にその傾向が顕著だ。
数字を出さなければ、やっていけない。他人よりも過酷な労働環境で仕事をしているのだから、それなり以上の結果と給与が欲しい。だからこそ、俺は数字を取る為の努力を惜しまない。マスメディアに勤めている人間の多くはそんな考えと覚悟を持って仕事をしている。その風潮に馴染めず、思考回路を変えられないままに生きる人間は、長く勤める事は出来ない。今の道尾の様に。
数字を出す為に、みんな必死で働いてる。妥協や遠慮をする者はどんどんと置いていかれ、同期どころかこれから入ってくる後輩にも追い抜かれていく。チームプレイは勿論だが、それ以上に個人間の競争が重要になってくる。弱みを見せれば、付け込まれる。それが仕事だ。弱みを見せず、妥協もせず、隙があれば食らい付いて逃さない。そんな闘争心が求められる。テレビマンがそうする為には、自分に有利に物事を進めていくよう努力するしかない。だからこそ、新聞記事で無機質に書かれている内容に色を付け、扇情し、演出し、そうして視聴者の感情を揺さぶる。その感情の波紋が視聴率という形で俺達に帰ってきて、豊かな生活の為に結果が反映される。……何処に、やましい事がある?
訊くと、ありません、と道尾は静かに答えた。そうだろう、そうだろう。俺が言うのだから間違いは無い。俺は得意になって、引き続き土星の夢に関する特集を組む為に必要な事項を道尾に確認する。「取材班の、専門家へのインタビューは?」
「もう取れてます」
「早いな」
「世界中の人が見た夢ですから。ああいう専門家先生達は、誰より真っ先に調べます」
その言葉に悩み、俺は頭を掻いた。そんな俺の様子を見てか、道尾は申し訳なさそうに付け加えた。「済みません。南さん、夢を見なかったんですよね」
「謝る事はねえけどよ」
俺は、皆が言う様な『土星の夢』は見なかった。地平線の向こうから真っ赤に燃える土星が太陽の様に上ってくる、と言う内容以外に、俺が知っている事は殆ど無い。そして、その詳細や理由、本質を理解する必要も無かった。
番組を制作している過程でも、再三感じていた事がある。
全国で初めてこの『土星の夢』についてテレビで報じたのは、俺の番組であると思う。SNSで土星の夢に関する情報が一番始めに拡散された投稿に、取材依頼の返信をしたのは俺だ。確か女子高生のメッセージ投稿だったと記憶しているが、彼女は何処か、その夢を見たという事にステータスを感じている様な雰囲気を出していた事を覚えている。
その感覚自体に間違いは無いだろう。夢とは本来、本人だけが本人だけの世界の中で特別に見る、唯一無二の映画なのだ。そして、そんな個人個人にとって特別な筈の体験を多くの人間が共有していた、その事実に真っ先に気付いて世界に自己の特別性をアピールするのだから、脳内ドーパミンの分泌量は中々のものだろう。
だから、取材を進めていく内に、土星の夢を誇らしげに語る人間達の顔を、俺は嫌と言う程見る事になった。そして不思議な事に、自分の見た土星の夢について語る人間達は皆、心の何処かで夢を見なかった人間を見下している様な雰囲気を持っている事にもすぐ気付いた。意識的か無意識的かに関わらず、それは感覚の優れている人間であれば何となく分かる、そんな類のものだ。
人の優越感や幸福感は、とても些細な事から生まれる。テレビで日常生活に使える小技や小ネタが放送され、それが面白ければ、他の誰かが見ているかも知れない、という当然推測しうる結果はさておいても誰かに話したくなる。そんな感覚に似ているのだろう。そんな小さな単純などうでもいい事からでさえ、人は幸福を感じてしまう。
他人と自分を比較した時の優越感。それが、最も短絡的に幸福を感じる事の出来る手段だ。そんな彼らの心と声を揺さぶり、騒ぎを大きくする事が、俺達の仕事の評価へつながるのだ。夢を見ている人間が大多数である今、彼らにおもねる情報や報道を重視する事こそが最優先される。例え俺が、そんな夢を見ていない人間の一人であったとしても。
生放送の収録を見守る俺のその視線の先で、アナウンサーが司会進行を進める。それに対して、識者一人を囲む形で、特に専門知識も無く個人的な感想を述べるだけの芸能人複数名が笑いを取る。識者があくまで中立的に、夢を見るメカニズムや現象の根幹にある原因の解明について見解を述べているのに、芸能人はあらかじめ俺達が伝えた台本や、こちらが意図している方向へ遠回しに誘導する様に話を持っていく。
『脳機能の優劣により、土星の夢を夢を見る・見ないが区別されている』
この二十分弱の特集コーナーが伝えたい結果は、ただそれだけだ。
世の中では民主主義や平等意識がここ近年で特に浸透し、格差の無い社会こそを理想としている。その所為で、こうした学歴による差別や脳機能・身体的能力の差による差別化を助長する表現は極度に規制される。勿論、それも大衆が求める意見には違い無い。テレビもその流れに迎合する。
だが、古今東西どんな世界においても、一つの事象に付和雷同の意見を求める事は不可能だ。必ず反対意見が生まれ、衝突が起きる。反対意見の声を表立って支持する事は出来ないが、彼らの欲求不満を解消させてやる存在もまた必要なのだ。俺達は、大衆の欲求を満たす餌を提供しているだけだ。どんな相手に対しても、分け隔てする事無く。
そうして今日も、つつがなく放送が終わった。さて、今日の視聴者の反応はどうなる事やら。
「数字はいつ頃出る?」
「明日には」
簡単な確認を道尾として、俺は会社を後にする。明日は一日、久しぶりに休みになる。他の社員に、今日は飲みに行かないかと誘われるが、何となく気分ではなく、断った。普段威圧的な態度を取っている俺と一緒に酒を飲んで、彼らが楽しい筈は無い。ご機嫌取りか、若しくは俺に取り入って今後のキャリアに生かそうと考えている連中ばかりだ。彼らが休憩中に俺に対する愚痴を零している事は知っているし、それを咎めるつもりもない。そんな陰口で彼らを評価するつもりも無い。こんな俺を嫌いになって一念発起するか逃げ出すかも、彼ら次第だ。
だが、家に帰っても……
考えている矢先、由真からメールが来た。イラっとしてメールを確認すると、今日の夕飯の要不要について、そして明日、悠人と三人で遊園地に連れて行く約束についての念を押される。何故女という生き物は、こうして分かりきった事を何度も確認してくるのだろうか。舌打ちをして、『要らない。分かってる』と最短のメールをして要件を伝えた。だがきっと、家に帰っても明日の事について口頭で念を押されるに決まっている。少なくとも由真が寝るまでは、家に帰る気は起きなかった。だが、酒を飲むだけでは物足らない。
俺は所持金を確認し、繁華街の細道を慣れた足取りで進んでいった。
悠人を産んで一年くらいまでは、由真の産後太りも愛おしかった。少したるんだ腹の肉も、母乳で張って膨らんだ乳房も色気があり、俺は毎晩でも彼女を抱き、何度も射精出来ると思ったし、実際産後も無理を言って由真を求めた事はある。彼女とのセックスは、とても満ち足りたものだったと思う。
だが、赤ん坊が大きくなり、産後直後以上に手間が掛かり始めると、彼女も少し疲れた様子だった。勤務時間が非常に不安定な俺は育児に手を貸す事は出来ず、自然と彼女が一日中悠人の面倒を見る事になる。その頃を境に、由真は俺に当たる事が多くなった。俺は俺で仕事疲れや寝不足の時間帯が多く、不機嫌な彼女の面倒など見るのは真っ平御免という感情がまず先に出てくる。これ以上構いたくない、苛立ちを抑えきれないという時は大声を出して怒鳴り黙らせた。そんな生活を、ここに二年くらい繰り返している。かと思えば由真は、泣きながら俺に縋ろうとする。
どっちなのかハッキリしろよ、と何度も怒鳴りつけながら嫌な顔を続けていたら、自然と会話は少なくなった。あれだけ欲情した彼女の体にも興奮しなくなっていった。
それでも性欲は溜まる。仕事付き合いと、家への入金以外に金を使う機会はめっきり減ったので、気が向いたら少しグレードの高いソープ店に向かう習慣が出来るまで、そう時間は掛からなかった。妻とは違う、ずっと若い女の張りのある肌や胸、尻、性器。それら全てを、ほぼ思い通りに弄り倒す事が出来る。興奮しない筈が無い。
果てた後のピロートークで家庭の事を一部断片的に話すのも、由真に対する当てつけの様なものだ。通い慣れた馴染みの嬢相手となれば尚の事、口も軽くなる。
「それで、家に帰るのが嫌になったの?」
さやかという源氏名を使っている彼女はそう聞いてきた。黒い長髪を後ろで結わえた彼女は、先程まで俺の体の隅々を舐めまわしたその口で、煙草に火をつける。
「そ。アフターはさやかちゃんと一晩明かすつもりで来たんだけど」
「ありがとー。でも、まだお客さん居るからさー」
と、笑いながら彼女は断る。想定済みだ。「でも、すっきりして家に帰った方が奥さんも気が楽だもんね」
風俗嬢は、決して客を否定しない。だから、例え倫理に反する事を口にしたからとて、それを強く咎める事もない。接客業に従事する人間は皆そうだ。客に反対意見を言う事が出来る仕事など、弁護士かコンサルティング業の人間程度のものだろう。俺はただ愚痴を口にして、この胸の内に溜まった鬱憤を晴らすだけでいい。
具体的な正解や回答を求めないその場限りの会話と行為。割り切った、とても気楽な空間。一生付き合い続ける事になる家族と比べれば、とてもリラックス出来る。そう考える俺は、奇特だろうか。綺麗な形をした自分の乳房を押し付ける様に、寝転がる俺の頭を抱き締め、しかしさやかちゃんはチクリと釘を刺す。
「でも、明日はちゃんとお父さんしなきゃ駄目ですよ」
それは、柳の様に言葉をさらりといなす普段の彼女らしくない、芯の通った言葉だった。彼女には、家族というものに対して何か思うところがあるのだろうか。だが、普段からふわふわとしている彼女の事だから、特に悩みなど無いだろう。仕草や様子を見ていれば、すぐに分かる事だ。彼女はただ、彼女なりの親切心で客との関係に波風を立てない程度の親密さで固定客を増やそうとしているに過ぎない。
更に言えば、彼女の個人的な情報について、俺としても興味は無い。彼女と付き合うわけではないのだし、割り切った関係であるのが一番後腐れは無い。
ただそれでも、一つだけ聞きたい事があった。
「さやかちゃん、土星の夢って見たの」
「あたしー? 見た見た。南さんは?」
「見てないんだよねー」
適当な会話をして、自分に関する情報はなるべく流す。ただ、夢を見たと言う人間の、生の声を聞いてみたかった。今後のニュースの編成に組み込んでいく為にも、彼女の意見を参考にしたい。「どんな夢だったの」
「すっごい綺麗な夢だったよ」
耳元で、彼女はあっけらかんと答えた。「孤独感が浮き彫りになる夢だったって答える友達も居たけど、私はそんな感じはしなかったな。なんか、土星が試練を象徴してるっていう話は耳にしたけど」
その夢診断については、俺も情報として仕入れていた。だから俺は流れ作業の様に「何か悩みとか困った事とか、無いの」と訊く。一瞬だけ間があって、うーん、とさやかちゃんは唸る。「わかんない」
誤魔化された様に感じる。少し好奇心がくすぐられたが、これ以上の追求はジャーナリストやナンパ師が踏み込む領域だ。ただの一番組のディレクターと風俗嬢が踏み込み合う領域ではない。問いただす気の無い「教えろよー」という巫山戯た言葉を口にしながら丸く張った彼女の尻を揉みしだき、興奮冷めやらぬ俺はもう一度、彼女とセックスをした。
だが、もう少しで絶頂、というその瞬間、俺の脳の中に土星の夢が割り込んで来た。俺の体の下で体を逸らして喘ぐ演技をするさやかの姿が、何故か由真の緩んだ肉付きの裸体と重なる。
彼女は、夢を見たのだろうか。
土星の夢の報告がされてから数日が経過しているのに、俺はそんな事も知らなかった。
子供に罪は無い。例え俺と由真の関係が冷めたものになっていても、その考えは変わらなかった。悠人は久し振りの遊園地にはしゃぎ、俺と由真の手を繋いで、次はあれに乗ろう、次はあれが食べたいと次々に要求してくる。普段子供に構ってやれない罪悪感もあり、俺は基本的に悠人の望み通りの事をしてやった。
だが、昼過ぎに広場で行われたヒーローショーの前座席に悠人を座らせ、保護者達は後ろの席でそんな自分の子供達を見守るその環境で、由真は俺に小さな声で言う。
「あまり、甘やかさないで下さい」
「あ?」
「癖になっちゃうんです。まだ、お菓子の食べ過ぎにも気を付けないといけない歳だし」
日除けにつば広の帽子を被った由真の顔は、俺の顔の高さからでは見えない。ただ、小さく動くその口が見えるだけだ。そんな棘のある言葉に俺は一気に気分を悪くし、言い返す。
「せっかくの遊園地だって言ったのはお前じゃねえか。してやりたい事をして、何が悪い」
「自己愛じゃないですか」
淡々と、冷たい声で由真は言い返した。「いつも悠人の事を可愛いと言ってくれてますけど、自分がやりたいからやっているというのはあの子の為では……」
言い掛けた途中で、俺は強く「黙れ」と言った。いつもの様に、由真はそれきり口を閉ざす。
七歳年下の由真は、悠人を産む前はここまで卑屈で反抗的ではなかった。それでも、俺が一言強く言えばそれきりその話題を口にしなくなる従順さは変わらない。
……そう思っていた。だが、この日の由真は違った。
「まだ、自分に都合が悪くなったら一方的に相手を黙らせる癖、治ってないんですね」
何のつもりだと、苛立つ気持ちを押さえ込んで俺は問いただす。舞台のヒーロー達は、子供達の応援でピンチから抜け出そうとしている。悠人も必死になってヒーローを応援していた。負けるな、頑張れ、と。
腹が立って仕方が無かった。
子供も、他の保護者の目もある。蝉が鳴くそんな真夏の日差しの下で、俺は必死に叫びそうになる声を押し殺して、目を合わせずに由真に言った。「何でそんな生意気な口を利くようになったんだ」
静かに、しかし自らを鼓舞する様に声を震わせて、由真は答えた。
「土星の夢を見て、勇気が出たの。康介さん、自分の番組で言わせてたじゃないですか。あの夢を見た人の方が優れた人間だって。土星は試練の象徴だって」
ぎり、と俺は拳を強く強く握り締める。そんな俺を他所に、由真は続けた。
「従順なだけじゃ、母親はやっていけないって分かったんです」
自分を『妻』ではなく『母親』と呼んだこの女に、より一層興味が無くなっていく。
もう、これは女ではない。母親なのだ。
だからこそ、『俺の』ものでなくなったこの女に抵抗される事が、とても癇に障った。
土星、土星、土星。
太陽系のその星が、俺達の世界を壊していく。
土星……サトゥルヌスの名が示す通り、それは俺達を喰らおうとでもしているかの様だった。
特殊な職業に就いていると一般常識が欠け傲慢になると連中は言うが、何の事は無い。彼らはコンテンツを消費するだけで作ろうともせず、ただ与えられた餌に文句を言っている雛鳥に過ぎない。俺達は、彼らの知的好奇心という空腹を満たす材料の供給による生殺与奪の権利を握っている。
今の若い連中はSNSこそが影響力を持っていると誤認している。情報を個人で拡散する事で、個人が企業よりも優位な立場に立つ事が可能だと言う。だが、勘違いも甚だしい。スマートフォンという高機能デバイスが個人に普及し、爆発的に情報収集力や情報発信能力が増大した事は脅威だが、所詮、組織形態を持たない個々の集団が拡散する情報に過ぎない。統一性に欠け、何が真実かで何が嘘かを見極める機能も能力も低い。だから容易にデマを信じ、拡散し、そして真実よりもより彼らにとって刺激的な情報を取捨選択し、自分達の都合のいい情報を周知させようと躍起になる。
SNSにより、マスメディアが報道しない情報を個人が発信可能になった事に優位性を感じ、そしてその情報を拡散し合う馬鹿は確かに増えた。だがSNSというのは、自分の興味ある情報や相手を選ぶ事で偏った情報ばかりを取捨選択し、自分の満足する答えを探すツールにしかなっていない。そんな事実に気付かないのは、正にSNS上でぎゃあぎゃあと騒ぐ小物ばかりだ。
何の事は無い。メディア以上の力を持ったと愚かにも自己冗漫に陥ったユーザーは、自身が嫌うメディアと同じ存在になった事に気付けないままなのだ。その点で、組織として長年の実績を積み、各方面に影響力を持つ大手メディアの持つ力は圧倒的だ。
都合の悪いニュースは取り上げなければいい。些細なニュースまですべて報道していては、放送枠なんて滅茶苦茶になってしまうだろうから。
真実は、見付けるものではない。俺達メディアが作るものだ。
俺は、ここ最近剃っていない無精髭を手で触りながら、昨今巷で話題になっている一つのワードについて特集を組む事を考える。特集と言っても、俺が担当しているワイドショーの一コーナーで取り扱う程度のものではあるが。
土星の夢。ソーシャルメディアでは、既にこの言葉が浸透している。
一体、この土星の夢が何を意味しているのか。人類がこの夢を一斉に見たのは、何か地球規模の現象が起こる前兆なのだろうか。そう考える人間も多く居る様だが、夢を見ていない俺の様な人間からすれば、たかが夢で何を言う、って話だ。
更に言うのであれば、土星の夢の意味を考えるのは、俺達テレビマンの仕事ではなく、学者やジャーナリストの分野だ。真実なんてどうでもいい。大衆も求めていない。
自分の欲しい情報。「こうあって欲しい」と求めている『現実』。大衆はそれを盲信する。例え彼らが騙されまいと身構えていても、俺達が作る映像のトリックに魅了され、それを自然に信じ込む。編集の魅力ってやつだ。
「南さん」
人の少なくなった夜のオフィスで頭を抱えている俺の後ろから、チーフアシの道尾が声を掛けてきた。何だよ、と俺はぶっきらぼうに答えた。「この土星の夢のコーナー、本当に二十分も時間振るんですか? 政経ニュースを中心に組んで時間を割り振った方が……」
「テメエ、入社一年目の癖に生意気に意見するのか」
他企業であれば、若手の意見を尊重する傾向もあるのだろう。だが、社員の出入りや入れ替わりの激しいこの業界では、キャリアが上の人間の意見こそが絶対だ。それに逆らったり無理に自分を押し出そうとする連中は、早い内に叩かれる。まだ聞き流してやる俺の教育方法は、優しい方だ。そんな俺の威圧的な声にビビり、道尾は「済みません」と謝った。いいか、と俺は強く前置きをして、ペンの尻を道尾の額に押し付けて説教をする。
「何度も言うけどな、余程名の売れてるキャスターとか識者が番組に出てない限りは、放送の意向なんて俺達が決めるの。俺達が担当してるのは夕方のワイドショー番組であって、ゴールデンタイムの国営放送じゃないわけ。サラリーマンが退社もしてない時間のワイドショーに主婦やガキしか居ない視聴者が求めてるのは刺激的な内容であって、明日に役立てられる政治経済のニュースじゃないのよ。お分かり?」
ペシペシと道尾の頭を叩きながら、俺はねちっこく口にした。「識者からの意見だって、言質さえ取れれば、それに沿って効果的に『演出』して、視聴者の望む通りの番組が出来上がるわけ。それさえ出来れば、それなりの数字も取れるんだから」
効果的な演出。それはとりもなおさず編集の事であり、派手なBGMや目立つテロップで重要ワードだけを抜き出して、印象操作をする事に他ならない。そして、それこそが俺達テレビマンの仕事なのだ。だが、まだペーペーのこの道尾は、そんな俺達のやり方を良く理解していない。だから俺は、こいつが入社した時にした会話をもう一度する。その根性と性質の理解が追い付くまで、何度でも言い聞かせるつもりだ。
「なあ。テレビ制作スタッフの仕事ってのは何だ? 個人の理想とか目標とかそんなつまらないモンは、取り敢えず置いといて」
大方理想論を口にしようとしていたであろう道尾は一瞬開きかけた口を閉ざし、答える。
「視聴率の取れる番組を作る事です」
「そうだ。それが全てだ。キャリアも上司からの評価も、給料も女も、その仕事が出来て初めて伴ってくる結果なんだよ。何より、その仕事が評価されなければ金も稼げない。仕事ってのは、日々を生きていく金を稼ぐ為にするものだ。無かったら困るが、あって困る事は無い、とても大事なものであり、武器でもある。それを得る為には理想とか自分の我の強い部分とかは全部捨てて『素直』になって、仕事の本質だけをまずは理解して、視聴率を稼ぐ為にはどうすればいいか。その問題に対する答えだけに集中すれば、きっと答えって見えてくるものだろ」
はい、と道尾は短く答えた。
数字が出せなければ、上司から詰められる。評価に響く。それは何処の職場でも同じだが、大衆の目に常に晒されて世間的な評価が必ず求められる俺達の様な職種の人間は、特にその傾向が顕著だ。
数字を出さなければ、やっていけない。他人よりも過酷な労働環境で仕事をしているのだから、それなり以上の結果と給与が欲しい。だからこそ、俺は数字を取る為の努力を惜しまない。マスメディアに勤めている人間の多くはそんな考えと覚悟を持って仕事をしている。その風潮に馴染めず、思考回路を変えられないままに生きる人間は、長く勤める事は出来ない。今の道尾の様に。
数字を出す為に、みんな必死で働いてる。妥協や遠慮をする者はどんどんと置いていかれ、同期どころかこれから入ってくる後輩にも追い抜かれていく。チームプレイは勿論だが、それ以上に個人間の競争が重要になってくる。弱みを見せれば、付け込まれる。それが仕事だ。弱みを見せず、妥協もせず、隙があれば食らい付いて逃さない。そんな闘争心が求められる。テレビマンがそうする為には、自分に有利に物事を進めていくよう努力するしかない。だからこそ、新聞記事で無機質に書かれている内容に色を付け、扇情し、演出し、そうして視聴者の感情を揺さぶる。その感情の波紋が視聴率という形で俺達に帰ってきて、豊かな生活の為に結果が反映される。……何処に、やましい事がある?
訊くと、ありません、と道尾は静かに答えた。そうだろう、そうだろう。俺が言うのだから間違いは無い。俺は得意になって、引き続き土星の夢に関する特集を組む為に必要な事項を道尾に確認する。「取材班の、専門家へのインタビューは?」
「もう取れてます」
「早いな」
「世界中の人が見た夢ですから。ああいう専門家先生達は、誰より真っ先に調べます」
その言葉に悩み、俺は頭を掻いた。そんな俺の様子を見てか、道尾は申し訳なさそうに付け加えた。「済みません。南さん、夢を見なかったんですよね」
「謝る事はねえけどよ」
俺は、皆が言う様な『土星の夢』は見なかった。地平線の向こうから真っ赤に燃える土星が太陽の様に上ってくる、と言う内容以外に、俺が知っている事は殆ど無い。そして、その詳細や理由、本質を理解する必要も無かった。
番組を制作している過程でも、再三感じていた事がある。
全国で初めてこの『土星の夢』についてテレビで報じたのは、俺の番組であると思う。SNSで土星の夢に関する情報が一番始めに拡散された投稿に、取材依頼の返信をしたのは俺だ。確か女子高生のメッセージ投稿だったと記憶しているが、彼女は何処か、その夢を見たという事にステータスを感じている様な雰囲気を出していた事を覚えている。
その感覚自体に間違いは無いだろう。夢とは本来、本人だけが本人だけの世界の中で特別に見る、唯一無二の映画なのだ。そして、そんな個人個人にとって特別な筈の体験を多くの人間が共有していた、その事実に真っ先に気付いて世界に自己の特別性をアピールするのだから、脳内ドーパミンの分泌量は中々のものだろう。
だから、取材を進めていく内に、土星の夢を誇らしげに語る人間達の顔を、俺は嫌と言う程見る事になった。そして不思議な事に、自分の見た土星の夢について語る人間達は皆、心の何処かで夢を見なかった人間を見下している様な雰囲気を持っている事にもすぐ気付いた。意識的か無意識的かに関わらず、それは感覚の優れている人間であれば何となく分かる、そんな類のものだ。
人の優越感や幸福感は、とても些細な事から生まれる。テレビで日常生活に使える小技や小ネタが放送され、それが面白ければ、他の誰かが見ているかも知れない、という当然推測しうる結果はさておいても誰かに話したくなる。そんな感覚に似ているのだろう。そんな小さな単純などうでもいい事からでさえ、人は幸福を感じてしまう。
他人と自分を比較した時の優越感。それが、最も短絡的に幸福を感じる事の出来る手段だ。そんな彼らの心と声を揺さぶり、騒ぎを大きくする事が、俺達の仕事の評価へつながるのだ。夢を見ている人間が大多数である今、彼らにおもねる情報や報道を重視する事こそが最優先される。例え俺が、そんな夢を見ていない人間の一人であったとしても。
生放送の収録を見守る俺のその視線の先で、アナウンサーが司会進行を進める。それに対して、識者一人を囲む形で、特に専門知識も無く個人的な感想を述べるだけの芸能人複数名が笑いを取る。識者があくまで中立的に、夢を見るメカニズムや現象の根幹にある原因の解明について見解を述べているのに、芸能人はあらかじめ俺達が伝えた台本や、こちらが意図している方向へ遠回しに誘導する様に話を持っていく。
『脳機能の優劣により、土星の夢を夢を見る・見ないが区別されている』
この二十分弱の特集コーナーが伝えたい結果は、ただそれだけだ。
世の中では民主主義や平等意識がここ近年で特に浸透し、格差の無い社会こそを理想としている。その所為で、こうした学歴による差別や脳機能・身体的能力の差による差別化を助長する表現は極度に規制される。勿論、それも大衆が求める意見には違い無い。テレビもその流れに迎合する。
だが、古今東西どんな世界においても、一つの事象に付和雷同の意見を求める事は不可能だ。必ず反対意見が生まれ、衝突が起きる。反対意見の声を表立って支持する事は出来ないが、彼らの欲求不満を解消させてやる存在もまた必要なのだ。俺達は、大衆の欲求を満たす餌を提供しているだけだ。どんな相手に対しても、分け隔てする事無く。
そうして今日も、つつがなく放送が終わった。さて、今日の視聴者の反応はどうなる事やら。
「数字はいつ頃出る?」
「明日には」
簡単な確認を道尾として、俺は会社を後にする。明日は一日、久しぶりに休みになる。他の社員に、今日は飲みに行かないかと誘われるが、何となく気分ではなく、断った。普段威圧的な態度を取っている俺と一緒に酒を飲んで、彼らが楽しい筈は無い。ご機嫌取りか、若しくは俺に取り入って今後のキャリアに生かそうと考えている連中ばかりだ。彼らが休憩中に俺に対する愚痴を零している事は知っているし、それを咎めるつもりもない。そんな陰口で彼らを評価するつもりも無い。こんな俺を嫌いになって一念発起するか逃げ出すかも、彼ら次第だ。
だが、家に帰っても……
考えている矢先、由真からメールが来た。イラっとしてメールを確認すると、今日の夕飯の要不要について、そして明日、悠人と三人で遊園地に連れて行く約束についての念を押される。何故女という生き物は、こうして分かりきった事を何度も確認してくるのだろうか。舌打ちをして、『要らない。分かってる』と最短のメールをして要件を伝えた。だがきっと、家に帰っても明日の事について口頭で念を押されるに決まっている。少なくとも由真が寝るまでは、家に帰る気は起きなかった。だが、酒を飲むだけでは物足らない。
俺は所持金を確認し、繁華街の細道を慣れた足取りで進んでいった。
悠人を産んで一年くらいまでは、由真の産後太りも愛おしかった。少したるんだ腹の肉も、母乳で張って膨らんだ乳房も色気があり、俺は毎晩でも彼女を抱き、何度も射精出来ると思ったし、実際産後も無理を言って由真を求めた事はある。彼女とのセックスは、とても満ち足りたものだったと思う。
だが、赤ん坊が大きくなり、産後直後以上に手間が掛かり始めると、彼女も少し疲れた様子だった。勤務時間が非常に不安定な俺は育児に手を貸す事は出来ず、自然と彼女が一日中悠人の面倒を見る事になる。その頃を境に、由真は俺に当たる事が多くなった。俺は俺で仕事疲れや寝不足の時間帯が多く、不機嫌な彼女の面倒など見るのは真っ平御免という感情がまず先に出てくる。これ以上構いたくない、苛立ちを抑えきれないという時は大声を出して怒鳴り黙らせた。そんな生活を、ここに二年くらい繰り返している。かと思えば由真は、泣きながら俺に縋ろうとする。
どっちなのかハッキリしろよ、と何度も怒鳴りつけながら嫌な顔を続けていたら、自然と会話は少なくなった。あれだけ欲情した彼女の体にも興奮しなくなっていった。
それでも性欲は溜まる。仕事付き合いと、家への入金以外に金を使う機会はめっきり減ったので、気が向いたら少しグレードの高いソープ店に向かう習慣が出来るまで、そう時間は掛からなかった。妻とは違う、ずっと若い女の張りのある肌や胸、尻、性器。それら全てを、ほぼ思い通りに弄り倒す事が出来る。興奮しない筈が無い。
果てた後のピロートークで家庭の事を一部断片的に話すのも、由真に対する当てつけの様なものだ。通い慣れた馴染みの嬢相手となれば尚の事、口も軽くなる。
「それで、家に帰るのが嫌になったの?」
さやかという源氏名を使っている彼女はそう聞いてきた。黒い長髪を後ろで結わえた彼女は、先程まで俺の体の隅々を舐めまわしたその口で、煙草に火をつける。
「そ。アフターはさやかちゃんと一晩明かすつもりで来たんだけど」
「ありがとー。でも、まだお客さん居るからさー」
と、笑いながら彼女は断る。想定済みだ。「でも、すっきりして家に帰った方が奥さんも気が楽だもんね」
風俗嬢は、決して客を否定しない。だから、例え倫理に反する事を口にしたからとて、それを強く咎める事もない。接客業に従事する人間は皆そうだ。客に反対意見を言う事が出来る仕事など、弁護士かコンサルティング業の人間程度のものだろう。俺はただ愚痴を口にして、この胸の内に溜まった鬱憤を晴らすだけでいい。
具体的な正解や回答を求めないその場限りの会話と行為。割り切った、とても気楽な空間。一生付き合い続ける事になる家族と比べれば、とてもリラックス出来る。そう考える俺は、奇特だろうか。綺麗な形をした自分の乳房を押し付ける様に、寝転がる俺の頭を抱き締め、しかしさやかちゃんはチクリと釘を刺す。
「でも、明日はちゃんとお父さんしなきゃ駄目ですよ」
それは、柳の様に言葉をさらりといなす普段の彼女らしくない、芯の通った言葉だった。彼女には、家族というものに対して何か思うところがあるのだろうか。だが、普段からふわふわとしている彼女の事だから、特に悩みなど無いだろう。仕草や様子を見ていれば、すぐに分かる事だ。彼女はただ、彼女なりの親切心で客との関係に波風を立てない程度の親密さで固定客を増やそうとしているに過ぎない。
更に言えば、彼女の個人的な情報について、俺としても興味は無い。彼女と付き合うわけではないのだし、割り切った関係であるのが一番後腐れは無い。
ただそれでも、一つだけ聞きたい事があった。
「さやかちゃん、土星の夢って見たの」
「あたしー? 見た見た。南さんは?」
「見てないんだよねー」
適当な会話をして、自分に関する情報はなるべく流す。ただ、夢を見たと言う人間の、生の声を聞いてみたかった。今後のニュースの編成に組み込んでいく為にも、彼女の意見を参考にしたい。「どんな夢だったの」
「すっごい綺麗な夢だったよ」
耳元で、彼女はあっけらかんと答えた。「孤独感が浮き彫りになる夢だったって答える友達も居たけど、私はそんな感じはしなかったな。なんか、土星が試練を象徴してるっていう話は耳にしたけど」
その夢診断については、俺も情報として仕入れていた。だから俺は流れ作業の様に「何か悩みとか困った事とか、無いの」と訊く。一瞬だけ間があって、うーん、とさやかちゃんは唸る。「わかんない」
誤魔化された様に感じる。少し好奇心がくすぐられたが、これ以上の追求はジャーナリストやナンパ師が踏み込む領域だ。ただの一番組のディレクターと風俗嬢が踏み込み合う領域ではない。問いただす気の無い「教えろよー」という巫山戯た言葉を口にしながら丸く張った彼女の尻を揉みしだき、興奮冷めやらぬ俺はもう一度、彼女とセックスをした。
だが、もう少しで絶頂、というその瞬間、俺の脳の中に土星の夢が割り込んで来た。俺の体の下で体を逸らして喘ぐ演技をするさやかの姿が、何故か由真の緩んだ肉付きの裸体と重なる。
彼女は、夢を見たのだろうか。
土星の夢の報告がされてから数日が経過しているのに、俺はそんな事も知らなかった。
子供に罪は無い。例え俺と由真の関係が冷めたものになっていても、その考えは変わらなかった。悠人は久し振りの遊園地にはしゃぎ、俺と由真の手を繋いで、次はあれに乗ろう、次はあれが食べたいと次々に要求してくる。普段子供に構ってやれない罪悪感もあり、俺は基本的に悠人の望み通りの事をしてやった。
だが、昼過ぎに広場で行われたヒーローショーの前座席に悠人を座らせ、保護者達は後ろの席でそんな自分の子供達を見守るその環境で、由真は俺に小さな声で言う。
「あまり、甘やかさないで下さい」
「あ?」
「癖になっちゃうんです。まだ、お菓子の食べ過ぎにも気を付けないといけない歳だし」
日除けにつば広の帽子を被った由真の顔は、俺の顔の高さからでは見えない。ただ、小さく動くその口が見えるだけだ。そんな棘のある言葉に俺は一気に気分を悪くし、言い返す。
「せっかくの遊園地だって言ったのはお前じゃねえか。してやりたい事をして、何が悪い」
「自己愛じゃないですか」
淡々と、冷たい声で由真は言い返した。「いつも悠人の事を可愛いと言ってくれてますけど、自分がやりたいからやっているというのはあの子の為では……」
言い掛けた途中で、俺は強く「黙れ」と言った。いつもの様に、由真はそれきり口を閉ざす。
七歳年下の由真は、悠人を産む前はここまで卑屈で反抗的ではなかった。それでも、俺が一言強く言えばそれきりその話題を口にしなくなる従順さは変わらない。
……そう思っていた。だが、この日の由真は違った。
「まだ、自分に都合が悪くなったら一方的に相手を黙らせる癖、治ってないんですね」
何のつもりだと、苛立つ気持ちを押さえ込んで俺は問いただす。舞台のヒーロー達は、子供達の応援でピンチから抜け出そうとしている。悠人も必死になってヒーローを応援していた。負けるな、頑張れ、と。
腹が立って仕方が無かった。
子供も、他の保護者の目もある。蝉が鳴くそんな真夏の日差しの下で、俺は必死に叫びそうになる声を押し殺して、目を合わせずに由真に言った。「何でそんな生意気な口を利くようになったんだ」
静かに、しかし自らを鼓舞する様に声を震わせて、由真は答えた。
「土星の夢を見て、勇気が出たの。康介さん、自分の番組で言わせてたじゃないですか。あの夢を見た人の方が優れた人間だって。土星は試練の象徴だって」
ぎり、と俺は拳を強く強く握り締める。そんな俺を他所に、由真は続けた。
「従順なだけじゃ、母親はやっていけないって分かったんです」
自分を『妻』ではなく『母親』と呼んだこの女に、より一層興味が無くなっていく。
もう、これは女ではない。母親なのだ。
だからこそ、『俺の』ものでなくなったこの女に抵抗される事が、とても癇に障った。
土星、土星、土星。
太陽系のその星が、俺達の世界を壊していく。
土星……サトゥルヌスの名が示す通り、それは俺達を喰らおうとでもしているかの様だった。
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