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第4章 独身男の会社員(32歳)が長期出張から帰還するに至る長い経緯
第17話「姫紀の戦い」―――姫紀side
しおりを挟む姫紀はこの日、高級ホテルの一室を急遽改造した和室に一席を設けて、純一の勤める上場企業『アドレス』の事実上TOPである白井会長と密会を行っていた。
「白井会長、この度はお忙しい中、ご足労いただきまして誠に有難うございます」
「い、いやっ、いえいえ、こちらこそ……全吉沢グループの総帥であられる現当主殿との会席……正直混乱の極致にありますゆえ、失礼がありますればご容赦願いまする」
白井会長は額から吹き出る汗をハンカチで拭いながら周りをキョロキョロと見回していた。
「それにしましても、洋風のホテルの中にこのような場所が……」
「申し訳ございません、白井会長が料亭のような座敷をお好みになられるということは常々伺っておりましたが、近場の店は全て吉沢旧体制派に抑えられている部分が多くございまして、彼奴等の息が掛かっていないこの外資系ホテルの一室を急遽模様替えして一席設けさせていただきました」
たかだか一度の会食の為にどれ程の費用を費やしたのか?
そう考えた会長は、身を震わせながらこの密会の重要性について改めて実感させられた。
「白井会長、どうぞお足を楽にしてくださいませ」
座敷故に座布団の上で正座をしていた会長を気遣い、姫紀はそう声掛けをしたのだが、こういう時は決まって思い通りにならない。
「いえっ、いやはや、そういう訳には……」
「こちらと致しましても、そう気構えておられましたら話も儘なりません」
「……はっ、さすれば失礼つかまつりまする」
ありきたりなやり取りではあったが、一応は対等に話ができるスタイルを確立させることに成功した姫紀は自身の隣に控えさせている秘書の樋本に目配せをして、小さく頷く。
「失礼ながら私はお座敷というものが不慣れでございまして、付け焼刃の作法ですので、至らない点がありましたらご指導よろしくお願い致します」
膝に両手をついて深く頭を下げそう述べる姫紀に対して、一度崩した足を再度整えるわけにもいかなかった白井会長はハンカチをより一層湿らせるばかりだった。
そして樋本に呼ばせた、今回の密会の為に別途に雇った和服の給士が2本のお銚子を持って入室し、姫紀がそのうちの一本を手に取る。
「どうぞ、まずは一献」
「いや、いやいやいやいや、貴女のようなお方に私なんぞが酌をさせるわけにはっ!!」
大げさなに遠慮に思惑言葉が崩れてしまった会長はもはや何が非礼にあたるのか分からなくなってしまう。
一度、傾けようとした銚子を垂直に戻す姫紀。
「私も最近、本当に最近のことですが、とある男性の方との出会いを切っ掛けに熱燗というものを嗜むようになりまして、一度こういったこともしてみたいと思っておりましたのです」
そう言ってにこやかに微笑んだ姫紀は、もう一度そっと調子を白井会長の方へ向けて傾けてゆく。
中身が零れるか零れないかの絶妙な角度のまま、いつまでも相手に保持させておくわけにもいかず、会長は零れる雫を受け止めるがごとく受け皿として咄嗟にお猪口をその下に差し出した。
一応は一口で飲み干した彼だったが、極度の緊張により味わいも糞もなく、ただ一秒でも早く返杯へ移りたい様子が目に見えてわかる。
そして挨拶から乾杯までの一通りの儀式を済ませた会長は改めて今回自分が呼ばれた理由について疑問を呈した。
「総帥……此度の会食、私目にどのようなご用がございまするか」
「総帥、ですか……、会長には私がそのように見えるのですね。いえ、大半の者にとっては同様かもしれません。しかしその実、私という存在は只の砂の上に立つ城の女王なのです。この例えで言うなれば実権の殆どを大臣たちに握られ、その彼らに担がれた私は祖父によって作られた雛壇に座らされているだけなのです」
人は立場が違えど、腹を割って話せば心が通ずる。まさにこの瞬間がそうであるように、包み隠さず実状を露呈した姫紀へ、創業家である成り上がりの道で生きてきた白井会長が長年で培った肝の太さを取り戻す。
「噂には聞いておりまする。して、何故私にそのようなお話を?」
「これまで吉沢というその巨塔全ての経営一切に触れることさえ無く、今も就任一年にも満たない私ですので、右も左もわからなければ、その標識を示してくれる方も存じません」
切実にそう語る姫紀を白井会長は、一国の総理大臣程の権力を持っていてもおかしくはないはずの吉沢の当主がまるで無垢な孫娘のように見え始めていた。
「私は人を見る目もございません。そして吉沢の中枢に絶対の信頼を足る人が居るわけでもございません。……ですが、ある人が……渡辺さんが、自分の勤める会社の白井会長という男は仕事抜きにしても無条件で信頼できる人だと豪語しておりましたので……」
その言葉には裏も無く、
表も無かった。
ただ一人の男がそう語っただけのことで自分を頼ろうとしている目の前の女性に、会長は例えようのない程の高揚感をを心に躍らせていた。
「小僧―――いえ、渡辺係長が……」
慌てて言い直した会長を見て、姫紀はほんの少し笑みを溢す。
「白井会長にとってはそうお見えでしょう。実は私もたまに彼が無邪気な少年に見えることがあるんですよ。純粋で、無垢で、活発で……そして素敵で、どんなことへも立ち向かっていく無敵な人。ですのでその呼び方は……私は、好きです」
「そうですか……小僧―――らしいと言えば小僧らしいですな。そうも評されては赤面の至りですが、私とて例えるならば弱小国家の老いぼれ君主でしかありませぬ。ましてや、吉沢のような大国が息拭けば軽く吹き飛ぶようなただの老体」
「息を吹きかけられて吹き飛ぶのは私も同じですよ。大臣たちが誕生日ケーキの蝋燭にそっと吹き掛ける吐息程度でもきっとすっぽんぽんにされてしまうでしょう」
姫紀の発したその比喩に会長は咳を切るがごとく豪快に笑いだす。
「はっはっはっはっは!!総帥、私は腹を括りました」
三周りも四周りも年を重ね、修羅場を生き抜いてきた白井会長にとっては、もはや姫紀の言わんとしていることを全て察しており、その上で意を決していた。
「この白井源三、我が社アドレスに棲まう吉沢の旧体制派に息が掛かった役員全てを排除することで、総帥への忠誠の誓いと致します。……して、私の役目は何で御座ろうか?」
「有難うございます。本当に有難うございます……後で樋本から詳しくご説明させていただきますが、まず私が会長にご協力願いたいことは、取り急ぎ三日後に開催される、吉沢サミット―――吉沢各社取締役以上およそ80名が出席する役員会議で誰が味方で誰が敵なのかを察知していただきとう存じます」
人生経験にしても、長年修羅場を潜り抜けてきた実戦経験にしろ、会長にとってその役目に相応しいのはお互い十分に理解していた。
「我が社の役員の一部を一掃するともなれば、儂とて退任の他ありますまい。そのお役目、現役最後の仕事として粉骨砕身の思いであたらせていただきまする」
姫紀は白井会長の言葉には間違いなく感動しているはずなのだが、何故か一層顔を強張らせる。
「私は会長のお力添えに対して、感謝の言葉を述べることしかできません。……ですが、せめて私には一切の隠し事がないことだけは証明させて下さい」
姫紀はそう言うと、また秘書の樋本に目配せをして小さく口を開いた。
「こちらへ呼びなさい」
姫紀の命を受け退出した樋本と入れ替わるようにして、すぐに一人の女の子が座敷へと入室した。
そして、それを見た会長は絶句する。
「まっ、まさかっ、その子は―――」
「はい。私を除けば吉沢本家唯一の正当後継者です。…………恭子、ご挨拶なさい」
恭子は会長の隣に正座し、畳に手をついて深く頭を下げた。
「旧姓吉沢咲子の長女、神海恭子です。よろしくお願いいたします」
それは一見すると成年に満たないただの少女が挨拶をしただけの事であったが、白井会長にとっては自分の短い一生の中では決して見てはいけない、決して見るべきではない程の神々しさをも感じさせた。
恭子が頭を上げぬまま、姫紀が口を開く。
「役員会議にはこの子を連れて行きます。それがこの子を守るために私が打てる唯一の一手です」
「そ、そのことを小僧は―――」
「人の口に戸を立てることはできませんが、漏れないように配慮はしております」
「それが良いと思われます。……小僧にとっては些か毒が、、強すぎる」
小さくそう感想を述べた白井会長は、老体とも思えぬ瞬発力でスッと立ち上がり、携帯電話を取り出して駐車場で車の中に待機させていた自分の秘書に電話をする。
「大野ッ!!大至急、今すぐに関久の社長をここへ連れて来るんじゃ!!理由はここでは言えんッ!儂の一大事だと言えっ!何があっても首に縄を付けてでも連れて来いッ!!」
一人は座り、一人は頭を伏せ、そして一人は立ち上がり、電話口へと向けられたその怒号が座敷中へと響き渡っていた。
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