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第2章 独身男の会社員(32歳)が過労で倒れるに至る長い経緯

第19話「学園祭」

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 俺が会社を出てマンションへ帰宅した時には恭子は既に学校へ行っていた。学園祭当日なので色々と早めに準備を始めないといけないのだろう。

 学園祭の一般入場は9時半からなので多少時間もあってか少し仮眠をしようかと考えたが、爆睡してしまう危険があったのでやめにした。

 今寝てしまうと、恐らくどんな目覚ましを掛けても起きれやしないだろう。

 そこで簡単に朝食でもとろうかと冷蔵庫を開けると、ラップされた様々な料理が入っていることに気が付いた。

「恭子……俺がいつ帰ってきてもいいように、いつも準備してくれていたんだな」

 レンジで温めたそれをテーブルに並べて食べていたとき、俺は何故か妙な感覚に陥る。

 まるで、テーブルの向かいで恭子が優しく微笑みながら食べている俺を眺めているような、そんな感覚。

 おいおい、とうとう幻覚を見させてしまうまでの味を出せるようになったのか。

 とりあえず俺は、『まだあったかな?』とハンガーに掛かった背広の内ポケットをまさぐり、辛うじて一回分だけ残っていたカフェインの錠剤を取り出して口へと放り込む。

 そして、火傷しない程度にギリギリまで熱くしたシャワーを浴びる。

 それらは繰り返し摩擦して絞り出る歯磨き粉のチューブのように自分の限界のラインを少しだけ先に延ばす行為。

 そうして、物理的に無理やり意識を正常に近いところまで戻した俺だが、車のハンドルを握るのが急に怖くなって代わりにタクシーを呼んだことについては無理もなかろう。

 だって、気が付けば時計が11時を廻っているんだぜ。

 体感時間と経過時間との間に差異が顕著に表れ出ていた。

 


 結局、タコガクへ到着したのは正午の少し前。

 校門でパンフレットを貰った俺は、恭子たちのクラスの『相葉都華子の一人メイド喫茶』とかいうツッコミどころ満載な模擬店がある家庭科室へと直行する。

「おお、だいぶ盛況してるじゃ―――」

 と、思ったら、とっちゃんいねえ。

 代わりに何故か姫ちゃんがメイド服着てるし!!

 俺が驚きの余り扉の前で口をパクパクさせていると、27歳のメイドさんが入り口までやってきてとびきりの笑顔で俺を迎えてくれた。

「あ、お帰りなさいませ!渡辺さ―――違った、ご主人様ぁ♪てへ。」

 ……一体何が彼女をここまで変えてしまったのだろう。

 悲劇系のドラマやアニメでよくみられるEDクレジットに差し掛かる直前の衝撃的なシーンから流れ始めるような悲壮な曲が俺の頭の中で奏でられていた。


「さあ、ご主人様。こちらへどうぞ♪」

 姫ちゃんは空いている席へ俺を誘導してくれるが、明らかにレジ横に並べられた椅子に座って空席待ちをしている人が大量にいるのだが、それはいいのだろうか?

 めっちゃ睨まれてますやん、俺。


「ご注文はいかがいたしましょうか~?」

「あ、いや。食事はつい家で食べてきてしまったから、何か飲み物とかを……」

「は~い♪それでしたら、こちらの『ミルクと愛情たっぷりキュンキュン💛カフェオレ』などはいかかでしょう?」

「え、はあ。じゃ、じゃあそれで……」

 メイドな姫ちゃんがオーダーを取ると、傍に控えていたボーイさん男子生徒がキッチンまで注文の品を取りに行ってそれを彼女に手渡している。

 なるほど、こうやって無理やり一人メイドで回転させているのか。

 しかし、ボーイがなんちゃらカフェオレを持ってくるまでの時間、姫ちゃんは他のテーブルへ接客に行かなければいけないと思うのだが、何故か俺の前から微動だにしない。

 明らかに他の客がまだ来ねえのかと待ちわびているじゃねえか。

 俺の心配を他所に、姫ちゃんはボーイが持ってきたカフェオレセットを受け取ると俺の目の前にボウルに半分入ったブラックコーヒーを置いた。

「それでは、今から私がミルクを注ぎますので、ご主人様はお好みの量でストップと言ってくださいね~♪」

 姫ちゃんはそう言うと、ミルクポットを傾けてゆっくりと注ぎだした。 
 ぶっちゃけ、めんどくさい。

「ス、ストップ……」

「ハイ♪お次はお砂糖ですっ。さっきと同じようにストッ―――」

「いや、ガムシロップはいいから。ナシでお願いします」

「え?」

「今、甘いもんとか口に入れると何かとヤバいんで」

 むしろミルクも要らなかった。ブラックで良かったのに……

「わかりましたっ♪それでは代わりに最後は私が愛情をたっぷり注ぎますね~♪」

 すると、姫ちゃんは両手でハートのマークを作って胸の前でゆっくりと腕をまわす。

「おいしくな~れ♪いっぱい、いっぱい、おいしくな~れ♪キュン!キュン!キュンッ!!」

 もう、ほんとに勘弁してください。


 俺は愛情以外にも怪しげな何かがふんだんに盛り込まれていそうな、カフェオレをストローで啜っていると、何故か席の向かいに姫ちゃんが座る。

「いやいや、姫ちゃんよ。メイドの仕事はいいのか?周りすごい混んでるように見えるけど……」

「あー、ですねぇ。んー………あ、野々村先生!!」

 姫ちゃんは困った顔をしてあたりを見渡していると、おそらく巡回中だと思われる一人の女性教師を見つけた。

「え゛っ!?……姫紀センパイですよ、ね?どっ、どっ、どうしたんですか!?そんな恰好をしてっ」

 うん。やっぱりこの反応が普通だよな。

「生徒たちのお手伝いをしていたんですけど、今からこちらの方にお付き合いしなければいけませんので、メイドを変わっていただけないかしら?」

 そんなこと頼んでねえし。なんて無茶振りだ……野々村先生とやらもおっかねえ顔してるじゃねえか。

「はっ?え?はぁああ!?いや、え?、ムリムリムリムリ、無理ですって姫紀センパイ!!」

「大丈夫です。貴方なら絶対に出来ると私は信じています。だからお願いね、野々村先生」

 心の底から拒否反応を示している彼女を無視して、姫ちゃんはそう言うと、いつの間にか後ろに控えていた女生徒2人に目配せをする。

「え?なに、よ?あなたたち。いや……離して。ねぇ、お願いだから、離して……」

 2人の女の子は嫌がる彼女の両腕をガッチリ抑えて離さない。

「はいはい、じゃああっちに相葉さんのメイド服がありますから、行きましょうね」

「暴れても無駄ですんで、みっちゃんあんまり苦労かけさせないでよ」

「いやっ!!やめて!!あの子のメイド服とか絶対入らないから!せめて、せめて、センパイの着てる奴にしてぇ!後生だから、後生ですからぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!」

 野々村のみっちゃんとやらは全力で暴れるものの、抵抗虚しく悲鳴を上げながら引き摺られて奥へ連れて行かれた。


「これで、私はフリーですよ♪さて、これからどうしましょう?そうね、他にも色々楽しそうなところもありますので、ご主人様を案内いたしましょう」

「とりあえずメイド服を脱げばいいと思う。そしてみっちゃんとやらに、せめてその服を渡してあげればいいと思う」

 俺は姫ちゃんに売られた後輩の先生が余りにも可哀そうになって、そう言ってあげたのだが……

「嫌です♪」

 とてもクリティカルな笑顔だった。


 結局、姫ちゃんは俺の手をとって一緒に家庭科室の外へでる。

 さっきまでいた模擬店の方面から『いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!』と、再々悲しい叫び声が聞こえて来るのけれど、俺にはただただ祈ることしかできなかった。

 彼女の魂が無事に救済されることを。



 あ、そういや俺カフェオレ代払ってねえや。
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