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第86話「愚者のハンドワーク⑤」

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  五月二十九日(日)十四時四十五分 埼京線・電車内

 (………なにが、どうして……?)
 (え? 先生? は? なんで、俺の手はこの人の………)
 驚愕する二人。
 ざわつく車内。
 開いた扉に、帽子の鍔を掴んで俯き気味に突っ込んでいく人影。
 嵐山楓は、その姿を唯一捉えた。
 (灰色の帽子……、黒いシャツに黒いパンツ……。奴か……。)
「奴を追う。」
 嵐山楓も、神室たちに一言だけ残すと、人影の後を追うように車内を飛び出て行った。
「あ、おい……」
 落ち着かない頭のままに、人混みを掻き分けていく彼の後を追おうと神室秀青も一歩踏み込む。
 しかし、タイミングの悪い事に嵐山楓と入れ替わる形で現れた車掌に、それを阻まれてしまった。
「どうかいたしましたか?」
 深い藍色の制服を揺らして尋ねる車掌。
「あ……、その、痴漢がいたんです……」
 神室秀青の言葉に、より一層ざわつく車内。
 心音まりあを気遣って、誰が被害者かを言い切れなかった神室秀青。
 そして同時に、この一言で誰が加害者かも言わなかった。
 それが失敗だった。
「……あなたがやったんですね?」
 車掌は鋭い目つきで下田従士に手を向ける。
 「やったんです?」ではなく、「やったんです?」。
 車掌は、既に下田従士に確信を持って標的を絞っていた。
 ここで、未だ下田従士の腕を掴んだままだったことにようやく気付き、神室秀青は慌てて手を離す。
 しかし、文字通りそれは手遅れだった。
「あ、いえ……僕ではなくてですね」
「嘘をつくな!」
 弁明する下田従士の声を遮るように飛んできたのは、周囲にいた乗客たちの野次だった。
「その子たちが見たって言ってるだろ!」
 メガネをかけたサラリーマン風の男が下田従士を指さす。
「いや……俺たちも勘違いして……」
 神室秀青も否定に入るが、周囲の乗客は完全に無視。
 どころか、騒ぎは大きくなる一方だった。
 好き勝手野次を飛ばす群衆。
 近くで、何やら囁き合う女学生と思われる二人組。
 そして、一人の男が木梨鈴に近づいた。
「君は大丈夫だったかい? なにもされなかった?」
 まるっきり下心丸出しの目。
 木梨鈴は僅かに後ずさる。
「私は全然……それよりも、この人は本当に」

「私も見ましたよ。」

 木梨鈴の言葉を最後まで聞かずに、言い寄ってきた男は声の方を向く。
 その先には、二十代後半と思われる男が立っていた。
 一瞬、車内のざわめきが鎮まる。
「そちらの男性が、そちらの女性に痴漢行為を働いているのを、見ました。」
「なっ……」
 絶句する神室秀青。
 男は、至極真面目な顔つきで車掌に訴えかけていた。
 下田従士は、痴漢男に腕を伸ばした瞬間まで隣の車両から出られずにいた。
 どう足掻いても、彼が痴漢行為を行うのは無理だ。
 あの一瞬で、長身の男が満員電車の人混みを掻き分け、隣の車両内にいる女性まで、周囲の一切に気付かれずに移動して痴漢を行ったことになってしまう。
 それがわかっていても、説明のしようがない。
 やった証拠もないが、やっていない証拠もない。
 あるのは異能力などという不可思議極まりないファンタジーを根拠とした推測のみ。
 それでも、神室秀青は事態の改善を諦めない。
 なんとかこの場を治めて、嵐山楓を追わねばならない。
 神室秀青は考えながらも口を開いた。
「ちょっと待ってください。俺たちが見たのはこの人じゃ」
「いい加減罪を認めろ!」
 どこかの誰かが飛ばした野次。
 堰を切ったように、周囲のざわつきが再び大きくなっていき、神室秀青の言葉を飲み込んでいく。

「そうだそうだ!」
「痴漢なんて卑怯なことしてんじゃねぇ!」
「俺もお前がやってるとこ見たぞ!」
「女の子が可哀相だろ!」

「………。」
 神室秀青の口が開いたまま閉まらない。
 好き勝手。
 言いたい放題。
 この野次馬は、本当に下田従士が痴漢を働いた瞬間を見たのだろうか?
 真犯人の“性癖スキル”によって、そう錯覚させられているのだろうか?
 否、これは誤った正義。
 痴漢を排除しようと、異物を排斥しようとする集団心理。
 もしもそれが誤りだと発覚しても、そもそもの発端は神室秀青たちの発言からだ。
 自分たちには何の罪もない。
 少年たちの言葉を免罪符に、集団は一人の人間に石を擲つ。
 誤った正義の鉄槌。
「とりあえず、これ以上電車を止めると他のお客様に迷惑がかかる。」
 二十代後半の男から話を聞き終えると、車掌が淡々と口を開いた。
「車掌室でゆっくりと話を聞かせてもらうよ。」
 車内の混沌は、最悪へと進んでいった。



 一方、先んじて車両を抜け出た嵐山楓は、一定の距離を保ちつつ真犯人と思しき人影を追っていた。
 エーラによる身体能力の向上、そして、彼自身の“性癖スキル”。
 この二つを駆使すれば、詰めることなど造作もない距離。
 それでも彼が状況を動かせずにいたのは、真犯人の“性癖スキル”を警戒しているからだ。
 (エーラを纏っている。先生のことを考えても、“性癖スキル”持ちはほぼ確定だ。)
 嵐山楓は走りながらも思考する。
 (エーラの分析は苦手だが……エーラ量からして、あと、先生に罪を被せた手管から考えても、奴の系統が他者干渉系だっていう仮定が当たってそうだ。……このまま、俺一人で突っ走ってもいいものか……)
 嵐山楓の“性癖スキル”は、もとより個人での戦闘には向いていない。
 そこに加えて、未だ明かされていない敵の“性癖スキル”。
 他者干渉系能力は、その性質から一対一では無類の強さを誇る。
 能力次第では無敵に近い。
 性能も使い方も一切が謎に包まれたまま戦うのは、自身の経験や能力の強弱以前に間違っているのだ。
 それでも。
 彼の脳裏に、腕を掴んだ瞬間の下田従士の顔が過る。
「………。」
 嵐山楓は、唇を噛んだ。
 (エーラ量は、俺と同等か少し高いくらい。一方的な力負けはないはず。……だったら。どんな能力かもわからないってんなら、俺が暴いてやる。最悪、俺が奴の手中に落ちることになっても、奴の能力がどんなタイプかわかれば、後続も動きやすい。)
 俺が勝つ必要はない。
 自身の感情、相反する二つの意見、その矛盾の両方を受け入れ、嵐山楓は自分にそう言い聞かせた。
 (奴を最速で捕らえる。それが最善だ。)
 帽子を被った男は、改札へと通じる階段を上り始めた。
 嵐山楓は大きく強く足を踏み込み、男目掛けて地面を蹴った。
 瞬間。
「っ⁉」
 突如として、何もないところから二十人ほどの男が現れ、嵐山楓の行く手を遮るように階段の前を横一列に並んだ。
 男たちにぶつかる直前で急停止。嵐山楓は彼らを見る。
 (な……んだ、こいつら⁉)
 ややふくよかなガタイ。メガネをかけ、カメラを手に持っている。
 不気味なことに、男たちは全員、まったく同じ容姿をしていた。
 (撮り鉄……か?)
 動きを止め、思考を巡らす嵐山楓。
 直後、彼のこめかみを、何かが貫いた。
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