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第85話「愚者のハンドワーク④」

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  五月二十九日(日)十四時三十八分 埼京線・電車内

 非常に不味い事態だ。
 そう直感した。
 そして、こういう時の直感は必ず当たる。
 今までの経験上。
 スマホを握る手に、自然と力が入るのを認識する。
 だが、何故だ。
 この感覚の正体は一体……。
 黒幕を見つけたのなら、一旦距離を置いてグループL●NEにその旨のメッセージを送信するはずだ。
 その後は、下田先生の指示を待ちつつ、全員で周囲を固めていく。
 そういう手筈。
 が、今回届いたのはワン切りの通話通知。
 メッセージではない。
 一体何故?
 メッセージを送れない状況にあったから?
 それは一体どういう状況だ?
 メッセージを打ち込む余裕がなかった?
 黒幕にメッセージを読み取られる危険性があった?
 どちらにせよ、黒幕に接近されている?
 なら、一度離れれば……それができない状態だったのか?
 ならば、接近…というよりも密着………っ!

 まりあ様が被害者⁉

「っ⁉」
 扉の閉まる音が聞こえた。
 電車がゆっくりとその足を動かし始める。
 不味い!
 非常に不味いぞ!
 まりあ様が痴漢に⁉
 嫌だ!
 嫌だよそんなの!
 不味い不味い!
 早く助けに……。
 くそ! まりあ様のいる車両はこことは正反対の扉の先!
 外から回り込めなかった!
 電車が動いちまった!
 なら車内で移動すれば……。
 それができねぇんじゃねぇか!
 動けねぇんだよ!
 満員電車!
 自由に身動きできねぇのっ!
 ちくしょう!
 こいつら混み混みしすぎなんだよ!
 邪魔くせぇな!
 どけよ!
 いやいや落ち着け落ち着け!
 この人たちはなんも悪くねぇだろ!
 関係ねぇって!
 だから落ち着けよ!
 早く!
 早く次の駅着けって!
 次の駅まで三分⁉
 そんなに待てるか!
 なんで電車ってこうもゆっくりにしか動かねぇんだよ!
 もっと飛ばせや!
 今もまりあ様は痴漢に遭ってるかもしれねぇんだぞ!
 たかだか三分をこんなに長く感じるとは思わなかった。
 周囲の人間すべてが憎く思える、地獄の底の溶岩の上にただひたすら鎮座しているかのような百八十秒。
 それでも時は動いている。
 電車はようやく次の駅、板橋駅に到着した。
 即座に猛ダッシュで電車を出る。
 目指す先は当然まりあ様のいる車両。
 第三車両と第四車両の間だ。


  五月二十九日(日)十四時三十八分 埼京線・電車内

 第六車両に寄った、第五車両との狭間。
 心音まりあからの着信通知を受けて、下田従士は即座に状況を理解する。
 (心音さんが痴漢に遭っている……。)
 そう確信し、下田従士はスマホをポケットに仕舞いこんだ。
 次に自分が取るべき行動。
 教え子が痴漢に遭っているのなら、すぐにでも駆け付けて止めるべきか。
 しかし、自身が発した一時間ほど前の台詞がその行動を阻害する。
 たとえ痴漢に遭っている人を見つけても、すぐには助け出すな。
 まさか自身への戒めとなるとは思わなかったこの発言が、彼を迷わす。惑わす。
 しかし、事実、そうすることで、心音まりあの救助を遅らす事で、事件そのものに対する解決度は驚くほど跳ね上がる。
 教師のモラルか、正義の完遂か。
 百八十秒ほどの逡巡。
 (心音さんは、可愛い教え子だ。)
 彼もまた、人の子。
 人情に流され、正義の執行を諦めかけたその時———
「っ!」
 彼の視界に飛び込んできたのは、駅に着いた電車の外を走る神室秀青の姿。
 普段のいい加減な態度とは裏腹に、彼は生徒のことを誰よりも見ている。
 当然、神室秀青の心音まりあに対する感情も理解していた。
 故に、今この現状がどう動いているのかを把握するのにコンマ一秒も時間を有さなかった。
 結果、彼は動かしかけた足を止める。
 自分が今何をすべきなのか、ここに何をしに来たのか。
 下田従士は考えを改め、事件解決に向けて最善の行動を考えた。


  五月二十九日(日)十四時四十一分 埼京線・板橋駅

 木梨鈴は駅のホームを走っていた。
 神室秀青の露骨な態度から、彼の心音まりあへの想いに気付いていた彼女は、着信通知を受け取った瞬間に、彼の暴走を悟っていた。
 さらに、彼女は他人のエーラを肌で感じ取る。
 恐らくこの世で最も巨大で強大なエーラを纏う神室秀青の動きを認知するのは比較的容易なものであり、事実、彼女は下田従士よりも先に彼の動きを推測ではなく事実として認識することができていた。
 下田従士よりも先に気付き、駅のホームへ神室秀青よりも遥かに早く出た彼女だが、それでも走る彼に追いつけずにいた。
 彼、神室秀青の“性癖スキル”は、無限に等しい体力を得るもので、それは常時発動している。
 たとえ同じくエーラを纏う彼女であっても、追いつくのは容易ではなかった。
 それでも、彼女は叫び散らして彼を止めることはしなかった。
 今ここでそんなことをすれば、自身と彼は衆目に晒されることになる。
 そうなれば、任務の続行が非常に困難になる。
 そのためにも、目立つ行為はしないに限る。
 そう考えた彼女は、自身の意思決定に基づき、無言でひた走る。
 しかし、この考えは非常に甘いものであった。
 この考えの甘さが災いして、結果的に彼女は彼の暴走を止められなかった。


  五月二十九日(日)十四時四十一分 埼京線・電車内

 嵐山楓は、心音まりあの姿を視界に捉えていた。
 意図して神室秀青の近い位置で車両を監視していた下田従士と違い、嵐山楓は位置状況と車内の混み具合との兼ね合いから、メンバーの中で最も心音まりあに近い、第二車両に寄った第一車両への入り口手前に位置取っていたため、彼らの中で最も早く彼女の危機に駆けつけることができたのだ。
 駆けつける、と言っても彼は通知を受け取ってから三分後の今も、第二車両から第三車両へと続く扉の手前にいる。
 そこでただ、彼女が痴漢に遭っている様を見ていた。
 今、痴漢している男が黒幕なのか否か。
 それを見極めることにのみ、彼は心血を注いでいた。
 仲間を暴漢から救わない。
 しかし、彼は任務に従事しているのみ。
 非難されるような行動は取っていない。
 ひたすら、痴漢の動きを観察し、下田従士からの合図を待つ嵐山楓。
 そんな彼の視界に、想定外なものが映る。
 暴走した神室秀青が、第三車両に入ってきた。
 心音まりあを見て一度足を止めた後、凄まじい剣幕で動き出す神室秀青。
 乗客たちから注目を集めている。
 神室秀青の、心音まりあに対する気持ちには一切気付いていない彼だが、そんな彼でも神室秀青が次にどのような行動を取ろうとしているのかは想像に難くなかった。
 (あの馬鹿……っ。勝手な真似してんじゃねぇよ。)
 嵐山楓が神室秀青を非難した時、電車の扉が閉まった。


  五月二十九日(日)十四時四十二分 埼京線・電車内

 電車が再び動き出した。
 神室秀青、彼が見たもの。
 膝上よりもやや高い丈、眩しい白さのワンピースに、黒いスキニージーンズを履いている愛しの心音まりあ。
 その背後にぴったりとくっついている、鼠色のキャップを被っている、やや背の低い人物。男。
 心音まりあの横顔が、恐怖に涙を浮かべているのを見た。
 自身の暴走、それに対する否定と容認が混じり合った複雑な感情が、怒りに任せた彼の動きをほんの僅かに鈍らせる。
 その姿を、扉が閉まる直前にようやく追いついた木梨鈴が見る。
 神室秀青を止める隙。
 彼を落ち着かせようと、足を一歩踏み出したその時。
 恐怖に打ち震える心音まりあの姿が視界に入る。
 (……まりあっち!)
 直後、木梨鈴の指向は百八十度反転する。
 大切な親友が傷つけられている現場。
 頭で考える分には平気だった。
 実際目の当たりにして、耐えられる類のものではなかった。
 彼女も、神室秀青同様、痴漢に接近する。
 その二人を見て、嵐山楓も動き出す。
 神室秀青の背後に見えた木梨鈴。
 彼女なら神室秀青を止められると思っていた。
 しかし、彼女は明らかに痴漢を止めに動き始めた。
 彼女も冷静ではない。
 二人を止めるため、第三車両内に侵入した。
 そして、第四車両内にて、第三車両へと通じている扉の窓から下田従士が神室秀青を見つめていた。
 ひどく長身な彼は、一般の乗客に動きを阻まれ、心音まりあの下へと辿り着くことができずにいた。
 その代わりに、彼は神室秀青を見る。
 (まだだよ。確保は電車が動き出して一分は経ってからだ。)
 そういった旨のコンタクトを神室秀青に送る。
 しかし神室秀青は一瞬だけ下田従士と目が合うも、動きを止める気配がなかった。
 しかしそれでも、神室秀青は自身に内在する怒りを収めるため、一般乗客を掻い潜ったため、痴漢の背後に到着するのに二分ほどかかった。
 それでは遅すぎる。
 下田従士のその考えは、勿論、神室秀青には届かない。
 今、彼が見ているのは痴漢のみ。
 その痴漢は、心音まりあの尻を撫で回した後、彼女の内ももに手を差し込んだ。
 小さく震える心音まりあ。
 (っ! ぶち殺してやる!)
 頂点に達した怒り。
 神室秀青の手が、痴漢の腕に伸びる。
 ほぼ同時に、木梨鈴も手を伸ばす。
 目標は勿論、痴漢だ。
 そしてやや遅れて、嵐山楓が神室秀青に向かって手を出した。
 が。
 (ちっ。間に合わねぇ。)
 神室秀青の制止に届かない。
 そう判断した彼は、直前になって手の行く先を痴漢の腕に変更した。
 この場で痴漢を逃さないことを最優先に取ったのだ。
 奇しくも、神室秀青、木梨鈴、嵐山楓の三名の手は、同時に痴漢の腕を掴むこととなった。
 その瞬間、痴漢は薄く笑った気がした。
「この人痴漢です!」
 痴漢を捕らえた時の決まり文句を言い放ち、三人はその腕を天井高く伸ばし上げる。
 しかし、その腕は。
「え? 僕?」

 その腕は、下田従士の腕だった。

「なっ…にぃぃぃぃぃぃぃぃっ‼」
 細目を細めて困惑する下田従士。
 ただひたすら驚愕する神室秀青。
 事態を呑み込めない木梨鈴。
 同時に開いた車両の扉。
 嵐山楓だけが、逃げ出す人影を視界の端に捉えていた。
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