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だから、食べた。
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「この世にある究極の食糧ってなんだと思う?」
放課後の教室。
沈み始めた夕日の温かくも寂しい明りが、先輩の影を色濃く映していた。
「人間だけなんだよね、なんでもかんでも食べちゃうの。」
行儀悪く机の上に座る先輩は、ゆっくりと足を組み替える。
「そんなことなくないですか? 雑食性の動物なんて、他にもたくさんいるでしょう? パンダとかカラスとか。」
「私が言いたいのは、そういうことじゃなくってね。」
先輩はまたしても足を組み替える。
その動きに一切遅れることなく、影はぴったりと先輩の足に合わせて動く。
「その子たちも勿論なんでも食べるんでしょうけれど、あくまでも食べられて、尚且つ栄養が取れるものしか食べていない。」
「人間だって、食べられないものは食べないじゃないですか?」
「そんなことないよ。人間は、食べられないものでも食べちゃうんだよ。考えて、工夫して、調理して、食べられるものに無理矢理変えちゃうの。」
「食べられないものだった・・・ って言うべきなのかな?」と続けて、先輩は天井を見上げる。
粗末に釘付けしてある天井板を、どこか憂いを帯びた表情で見つめている。
「野生か社会性かの違いなのかな? 動物は、そこまでしないでしょう? でも、人間は、する。毒を有するフグだって、長い年月をかけて、毒の除去法を研究して、最後には食べられるものに変えちゃった。“美味しいから”という理由でね。不自然なほどの執念よね。」
先輩は顔を下げ、視線を戻す。
「美味しいものは大抵、栄養価も高いですよ。不自然ではないと思いますけど。」
「そうかな?」
今度は、背に張り付けられている窓の外を眺める。
「美味しいってだけで、栄養価もないものを人間は好んで食べるよ。カップラーメンとか、駄菓子とか。消しゴムを好んで食べる人がいる、なんて話も聞いたことがあるわ。」
雲が晴れ、差し込む夕焼けが先輩の一切を包み込んだ。
先輩の顔は影に覆われ、何一つ表情が読み取れなくなる。
「こんな風に、人間は食に対して非常に貪欲なの。生まれ育った環境だとか、親からの遺伝だとか、人それぞれ多種多様に生まれたこだわりを持ってね。」
メトロノームみたいに、両足をゆらゆらと互い違いに揺らす。
「だからこそ、究極の食糧がなんなのか、ずっと気になっていた。それが、最近わかったんだ。なんだと思う?」
影が、ゆっくりとこっちに振り向く。
「……万人が受け容れる食べ物、ですか?」
「ううん。違う。」
ゆるりと首を振り、顔を伏せる。
「私も初めはそう思ったんだけど、そうじゃなかったのよ。地球上の全人口は七十億人を超えている。それら全てが享受する好物なんて、この世には存在しないわ。たとえば私はカレーが嫌いだし、あなたはどの味のラーメンも苦手でしょう?」
「はぁ。」
「究極とは、必ずしも絶対である必要はない。万人ではなく、個人の享受しうる最高こそが究極なのよ。」
そう言って、先輩は机から降りた。
「だからね、私、食べたのよ。」
先輩が制服の袖をまくると、透き通るような白い腕が露わになった。
そして、その腕の一部分は、人工的な白い布で覆われている。
その光景に、嫌な予感がしてきた。
「食べた……って、まさか……」
「そのまさか。」
にっこりと笑うと、先輩は巻いてあった包帯をするすると外していく。
包帯の奥には、生々しいまでの赤が隠されていた。
うっすらと見える白い骨、赤黒い肉、そこから滲み出る薄黄色の粘液。
吐き気を催すソレを、先輩はうっとりと微笑みながら見つめる。
「人間って、面白いよね。発電だとか、工業だとか、0から1を生み出す事ばかり考えているくせに、1から1を生み出す事もできていない。2から1を生み出すので精一杯。」
狂気に満ちた視線を、腕からこちらに移す。
「だから、私は自分を食べてみたの。1から1を生み出す。自給自足ができれば、それは究極だと思うの。」
血の気が引いていく。
悪寒が走るのを感じた。
再び雲は夕焼けの赤を奪い去り、教室はより一層の暗闇に包み込まれた。
「あれほど追い求めていたものが、こんなにも身近に存在していただなんて…滑稽よね。」
ニヒルに笑って、先輩は包帯を巻き直す。
今にも卒倒しそうな後輩に対する、先輩なりの優しい気遣いだろうか。
綺麗に傷口を隠す包帯。
赤を覆う白。
しかし、どうしてだろうか。
白の奥の赤を睨む視線をどうしても逸らせない。
そうして不意に、口走ってしまう。
「……直に噛りついたんですか?」
決して訊くべきではない。
そんなことはわかっている。
それでもどうしても、自己の欲求に抗えない自分がいる。
恐怖に魅入られて、狂気に魅入られて。
好奇心は猫だけではなく人も殺すようだ。
質問を受けた先輩は、心底嬉しそうに目を伏せ、静かに微笑んだ。
「好きよ。あなたのそういうところ。」
一歩、先輩は足を踏み出す。
「初めは私もそうしようと思ったの。でもね…出来なかった。腕に噛みついた瞬間に、どうも無意識の内に力をセーブしてしまうみたいで、そのまま噛み千切れなかったの。」
求めていた返答をもらったように、まるで先輩はあらかじめ決めていた言葉を紡ぎ出す。
「だから工夫してみたの。人間らしく。道具を使って肉を削いで。鍋やヤカンやフライパンを使って、煮て焼いて食べてみたの。」
一歩、また一歩と、先輩との距離が近くなっていく。
「美味しかったんですか?」
やめとけと、これ以上深く潜るなと、自分の中の誰かが警鐘を鳴らす。
周囲のどの音よりもはっきりと聞き取れるほど近く、その抑止を簡単に振り切れるほど遠くにいる誰かの声。
自分が聞く耳を持たないことは、とうにわかりきっていた。
「ううん。最悪だった。」
言葉とは裏腹に、先輩の表情にはより一層の嬉々が生まれた。
「調理法が悪かったのか煮ても固かったし、場所が悪かったのか筋っぽかったし、なにより一切味がしなかった。調味料を使っても不味くなる一方。やめとけばよかったと思っちゃった。」
声のトーンが、目に見えて変わった。
まるで、昨日家族と遊園地へ出かけた話をする小学生のように。
「でもね、それでもね、良いこともあったのよ。まず、自分を大切にするようになった。」
また一歩、先輩は足を運ぶ。
「人間って…殊更日本人って、自分を大切にしない生き物じゃない? 家族の為、会社の為、御国の為って。自己犠牲の奉仕精神を、惜しげもなく恥ずかしげもなく、自身にも他人にも強要する。立派な大和精神よね。ほんと、素敵。」
珍しく、直球な皮肉だ。
「私も、最近まではそれが素敵なことなんだろうと思ってたわ。綺麗で美しい綺麗事。でもね、自分の肉を食べるようになってから、それが途端に理解できないものになったの。他人の為に自己を犠牲にする愚かさを悟ったのよ。」
僅かに強まる語気。
きっと、とても大切な事なのだろう。
「人間って、食べ物を特に大切にするじゃない? 私はもしかしたら、私自身を食べることで、自分自身を食糧だと認識するようになったのかもしれないわ。…あるいは、自己を自己として認識できなくなったのかも。……どちらにせよ、健やかで調和の取れた理想の精神を手に入れられた気がするの。」
今度は口調を躍らせる。
きっと、とても楽しい事なのだろう。
「そして、もう一つ。…一度、“最悪”を知ってしまったからなのかしら。それ以上に、より深淵に近い最悪を味わってみたくなったのよ。」
いつの間にか、不用意に身動きが取れないほどに、先輩との距離が縮まっていた。
これまたいつの間にか、再び差し込んでいた夕明かりが照らし出す二つの影は、まるでキスをしているかのように重なって見えた。
「なにをどのようにどう調理しても拭い去れなかった最悪の味。もしも、調理もせずに生で食べれたら、どんなにも最悪なのかしら。もしも、噛り付けたら。もしも、人として終れたら。どんなに、最低なのでしょうね。」
「………。」
ああ…やっぱり。
やはり遠くからは警告する声が聞こえてくる。
これ以上踏み込めば、ただではすまない、と。
それでも、だからと言って、今さらこの場を離れる気など毛頭なかった。
先輩が、次に何を言わんとしているのかはわかる。
あとは、とうに決まっている覚悟を決め直すだけだ。
「だからね、お願い。自分じゃどうしてもだめなの。」
先輩に覗き込まれ、先輩を覗き返す。
たとえ離れる気があったところで、後の結果にはさほど影響しなさそうだった。
「あなたの肉を食べさせて。」
「………ちっ」
不快な目覚まし音に叩き起こされ、お返しとばかりにその音源を叩き落とす。
カーテン越しに差し込む朝日は爽やかだが、こっちは酷く不機嫌な目覚めとなってしまった。
目覚まし時計のせいではない。
久しぶりに嫌な夢を見たからだ。
未だに見る、六年前の悪夢。
何かを確認するように、無意識に右腕を見る。
二の腕に残った、おどろおどろしく変色した古傷。歯形。
結局あの後、先輩とは一度も会わなかった。
というのも、翌日には学校をやめていたのだ。
噂によると、先輩の自給自足を目の当たりにした両親が、それを奇行と捉え、精神病院へと連れていったらしい。
もとより先輩とは連絡先の交換なんかもしていなかった。
だから、あれっきり。
会おうにも会えず。
会おうとも思わず。
そもそも、先輩とはなにか約束をして会っていたわけではなかった。
ただ、たまたま放課後の校内で見かけた時のみ、空き教室でくっちゃべるだけの関係。
それ以上でも、以下でもない。
それ以上を、求めてはいたのかもしれないが。
まぁ、終わったことだ。
さっさと忘れよう。
布団から体を起こし、改めて時計の針を確認する。
出勤まで二時間もある。
もはや立派な社会人だ。
「……さて。」
腹が減った、朝飯にしよう。
と、言いたいところだが、しかしだるい。
朝飯を作るのが面倒くさい。
けど、腹は減ってる。
困ったな。
「………。」
何かを確認するように、意識的に右腕を見る。
二の腕に残った、おどろおどろしく変色した古傷。歯形。
その歯形に、自身の歯形を重ね合わせる。
忘れられるわけもない、か。
心の中で小さく笑って、自身の肉を思いっきり噛みしめる。
歯と骨に挟まれた血管の、嫌な音が響いた気がした。
……しょっぱい。
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