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暗澹の始まり
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不意に呼び鈴が鳴る。
ぎくり、と屋敷中に緊張が走った。
ジョナサン卿以外の取次はなしと命じたが、家令がその言いつけを破り、アリアとレイモンドに早急に報せたのには、大きな理由があった。
「フレットウェル社の社長秘書を務めております。アンダーソンです」
玄関先で頭を下げたのは、ミス・レイチェルの恋人とかいうケイムの秘書だ。
「社長はいらっしゃいますか? 」
アンダーソンは、頬を微かに痙攣させながら何やら苛立っている。
「来てないわ」
人目も憚らず、たちまちアンダーソンは頭を抱えてその場に蹲った。
「何があったの? 」
さすがにアリアは問わずにはいられない。
アンダーソンは目から光を失い、まるで蝋人形さながら表情の固まったままでアリアを凝視する。
口を開くべきか、開かざるべきか。
彼は躊躇っているようだ。
「答えて」
ピシャリと命じる。
アンダーソンは拳を握るや立ち上がると、思い切ったように口を開いた。
「実は、今晩は取引先と会食の予定があったのですが」
「どうしたの? 」
「約束の時間になれど、社長は現れず」
それきり口を噤んでしまう。
「約束をすっぽかしたってこと? 」
アンダーソンは頷きすらしない。またもや蝋人形と化してしまった。
「君は? 秘書だろ? 社長には付いてなかったの? 」
レイモンドが割って入る。
社長夫人よりも、社長の義理の弟に対しての方が余程砕きやすいのだろう。アンダーソンは今度は頬に赤みをさし、首がもげそうなくらいにぶんぶんと横に振った。
「それが……社長は朝から火急の要件により、別行動をとると」
「よくあることなの? 」
「ええ。まあ」
意味ありげにアリアに目線を向ける。
「たまに、奥様絡みでお一人で行動なさる方でしたから」
確かにケイムは、アリアに何かある度に仕事そっちのけで駆けつけてくれていた。ラードナーホテルでの一件然り、セディの起こした誘拐事件然り。いつだってケイムの顔を思い起こせば、彼は王子様のように颯爽と救いに来てくれたのだ。
「ですから、今日もてっきり」
身重のアリアがあんまり心配で、仕事をすっぽかしたのだと考えたのだろうか。
失敬な。ケイムはそこまで非常識ではない。賭博に酒に女などと一見するとだらしないが、むしろ誰よりも誠実で常識人だ。
などと、アリアは勝手にアンダーソンの心の内を想像し、勝手に憤慨した。
「他に義兄上の行きそうな場所は? 」
勝手に想像して怒っているアリアを無視して、レイモンドは畳み掛ける。深刻な事態を想定しており、飄々さは欠片もない。
「もしかしたら……もしかしたら、昼間っから飲んだくれて酒屋で居眠りこいているとか」
アリアは僅かな可能性に縋った。
レイモンドから聞いた話が頭に広がる。どんどん嫌な予感が膨らんでいく。
お腹の赤ちゃんも敏感に感じ取り、どんと子宮の壁を蹴った。
「女のとこにしけ込んでる……わけないね」
レイモンドもそんなことあり得ないとわかっている。
「……警察に連絡を」
ついに淡々とレイモンドが述べた。
誰しもが避けたい台詞。
その場の空気が凍りつく。確実に摂氏二度は下がった。
「先頃に、銃で狙われただろう? 」
考えたくはなかったが、最悪な可能性を口にする。
「ああ! もしかして! ケイムは! 」
アリアが金切り声を上げた。
「万が一だよ。そんなわけない。大丈夫だから」
宥めるものの、レイモンドの声も震えている。
「警察に報せて、私も思いつく場所を当たります」
アンダーソンは厳しい顔つきを崩さない。
「奥様。お気をしっかり持って」
体中が血の気が引いて今にも倒れそうなアリア。
「大丈夫。義兄上のことだからきっと、散々心配かけて悪かったって、酒の匂いをプンプンさせながらバツが悪そうにひょっこり出て来るだろうから」
レイモンドは今にも泣き出しそうな顔のまま、わざとらしく弾んだ声を上げた。
ぎくり、と屋敷中に緊張が走った。
ジョナサン卿以外の取次はなしと命じたが、家令がその言いつけを破り、アリアとレイモンドに早急に報せたのには、大きな理由があった。
「フレットウェル社の社長秘書を務めております。アンダーソンです」
玄関先で頭を下げたのは、ミス・レイチェルの恋人とかいうケイムの秘書だ。
「社長はいらっしゃいますか? 」
アンダーソンは、頬を微かに痙攣させながら何やら苛立っている。
「来てないわ」
人目も憚らず、たちまちアンダーソンは頭を抱えてその場に蹲った。
「何があったの? 」
さすがにアリアは問わずにはいられない。
アンダーソンは目から光を失い、まるで蝋人形さながら表情の固まったままでアリアを凝視する。
口を開くべきか、開かざるべきか。
彼は躊躇っているようだ。
「答えて」
ピシャリと命じる。
アンダーソンは拳を握るや立ち上がると、思い切ったように口を開いた。
「実は、今晩は取引先と会食の予定があったのですが」
「どうしたの? 」
「約束の時間になれど、社長は現れず」
それきり口を噤んでしまう。
「約束をすっぽかしたってこと? 」
アンダーソンは頷きすらしない。またもや蝋人形と化してしまった。
「君は? 秘書だろ? 社長には付いてなかったの? 」
レイモンドが割って入る。
社長夫人よりも、社長の義理の弟に対しての方が余程砕きやすいのだろう。アンダーソンは今度は頬に赤みをさし、首がもげそうなくらいにぶんぶんと横に振った。
「それが……社長は朝から火急の要件により、別行動をとると」
「よくあることなの? 」
「ええ。まあ」
意味ありげにアリアに目線を向ける。
「たまに、奥様絡みでお一人で行動なさる方でしたから」
確かにケイムは、アリアに何かある度に仕事そっちのけで駆けつけてくれていた。ラードナーホテルでの一件然り、セディの起こした誘拐事件然り。いつだってケイムの顔を思い起こせば、彼は王子様のように颯爽と救いに来てくれたのだ。
「ですから、今日もてっきり」
身重のアリアがあんまり心配で、仕事をすっぽかしたのだと考えたのだろうか。
失敬な。ケイムはそこまで非常識ではない。賭博に酒に女などと一見するとだらしないが、むしろ誰よりも誠実で常識人だ。
などと、アリアは勝手にアンダーソンの心の内を想像し、勝手に憤慨した。
「他に義兄上の行きそうな場所は? 」
勝手に想像して怒っているアリアを無視して、レイモンドは畳み掛ける。深刻な事態を想定しており、飄々さは欠片もない。
「もしかしたら……もしかしたら、昼間っから飲んだくれて酒屋で居眠りこいているとか」
アリアは僅かな可能性に縋った。
レイモンドから聞いた話が頭に広がる。どんどん嫌な予感が膨らんでいく。
お腹の赤ちゃんも敏感に感じ取り、どんと子宮の壁を蹴った。
「女のとこにしけ込んでる……わけないね」
レイモンドもそんなことあり得ないとわかっている。
「……警察に連絡を」
ついに淡々とレイモンドが述べた。
誰しもが避けたい台詞。
その場の空気が凍りつく。確実に摂氏二度は下がった。
「先頃に、銃で狙われただろう? 」
考えたくはなかったが、最悪な可能性を口にする。
「ああ! もしかして! ケイムは! 」
アリアが金切り声を上げた。
「万が一だよ。そんなわけない。大丈夫だから」
宥めるものの、レイモンドの声も震えている。
「警察に報せて、私も思いつく場所を当たります」
アンダーソンは厳しい顔つきを崩さない。
「奥様。お気をしっかり持って」
体中が血の気が引いて今にも倒れそうなアリア。
「大丈夫。義兄上のことだからきっと、散々心配かけて悪かったって、酒の匂いをプンプンさせながらバツが悪そうにひょっこり出て来るだろうから」
レイモンドは今にも泣き出しそうな顔のまま、わざとらしく弾んだ声を上げた。
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