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 蕎麦屋九庵は焼け焦げて黒い梁が剥き出しのまま、そこが火事場であったことを知らしめている。 
 警察が貼った黄色と黒のテープは剥がされ、つい先日まで慌しかった人々の姿は何もなく、ひっそりとしている。
 橋本は九庵と隣の空き店舗との境の路地を通る。
 平均的な成人男性がやっと通れるくらいの狭さだ。
 路地の中央までくると、何やら地面が一際黒く煤けていた。橋本はしばらく目を眇めていたが、やがて黙って再び表通りに出る。
「不審火は一週間に一回の頻度、それも水曜日に起こっとるな。今日辺りが怪しいで」
 次に向かった先は、小沢道文がアルバイトしているファミリーレストランだった。 
 駅前の人通りの多い場所にあるものの、午前十時過ぎとランチにはまだ早く、かといって朝食にはいささか遅い中途半端な時間帯。
 どう見ても学校をさぼっているとしか思えない制服姿の女子高生二名と、暇潰しの主婦四名以外、店内に客の姿はない。ひっきりなしの女子高生の馬鹿笑いをBGMに、腹が空いているわけでもないのにメニュー表を延々と捲ってしまう。
 バイトしているからといって、フロア勤務とは限らない。厨房の中に籠っていると、姿すら拝めない。そもそも、顔すら知らないのに判別は無理だ。
 しかし、それも杞憂だった。
 水を運んできたフロア係の胸元に小沢のネームを見た俺は、不自然なほどその顔を凝視してしまう。
 三十七歳とのことだが、頭には白いものが混じって、目尻の皺や豊麗線がくっきりしていることから、確実に十歳は老けて見える。角張った顎にはもう青くうっすら髭が伸び始めていた。円らな瞳と団子っ鼻。およそあの麗子さんが相手にするとは思えない容貌だ。
 不躾な俺の視線に構っていられないほど、小沢はタッチパネル式の注文説明に四苦八苦している。よくクビにならないなと思うほど、たどたどしい。お辞儀の見本のように頭を下げると、段差に蹴躓きつつ引っ込んでいく。
「情けないけど、人のよさそうなおっさんやな」
 簡潔に橋本が人物を評した。
 おっさんて。一つしか年が変わらないだろ。
 人間、見た目ではない。わかってはいるが、どう見ても冴えないおっさんだ。俺はこいつに負けたのか。得体の知れない敗北感。
「おい、何がっかりしてんねん」
 テーブルの下にあった俺の脛に蹴りが入る。
「ご、誤解です」
「どうだかな」
 橋本は鼻を鳴らした。
 嫉妬は見苦しいぞ、おっさん。
 水を口に含むと、俺は話題の転換のタネを探すためにきょろきょろと目を泳がせた。小沢に対する己の気持ちは、橋本にすっかり見透かされているので、下手な言い訳はきかない。こいつの気を逸らす方が賢明だ。
 彷徨っていた視線が、器用にフォークに巻き付くパスタで止まる。
「あれ?」
 空いているときに敬遠されがちなトイレの前の席で、一人きりでもくもくと口に運ぶ男。忘れもしない銀縁眼鏡と陰気な表情。尤も疲弊した出場が蘇る。
「大橋って男ですよね、あれ」
 テーブルに身を乗り出して声を潜めたおれに、橋本はつまらなさそうに肘をついて一瞥する。
「桜庭の同僚やな」
「え!」
「忘れたんか。小学校の講義んときに、いたやろうが」
 言われてみれば、確かに麗子さんのそばにいたような気がする。たけど、今は授業中だ。教師なら、とっくに出勤していてもおかしくない。有給でも取っているのだろうか。
「桜庭しか目えに入ってへんだからな、お前は」
 悪意を含んだ言い回しに、さすがに恐縮して肩を竦めた。
「明日は週末休みやし。おい、今から俺ん家来い」
 何気なさを装った誘いに、敏感に反応した。
 俺、今、負傷中だから。
 俺の表情から、胸の内で何を考えたのか正しく読み取った橋本は、いらいらしたように眉を寄せ舌打ちする。
「別に何もせえへんわ」
 本当かよ。
 ほどなくして注文した珈琲が運ばれてきた。
「今からたっぷり寝て、小沢の新聞配達の後をつけんぞ」
 本当に寝るだけだろうな。
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