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「おい、笠置!どうした!」
日浦さんの怒鳴り声ががんがんと鼓膜を刺激する。
花冷えとはよく言ったもので、空気はむしろ涼しいくらいなのだが、額から垂れる汗は次から次へとひっきりなしで、顎を伝ってぽたぽたと胸元に黒い染みを作る。
腰に巻いた一本の命綱が食い込み、余計に体力を消耗させた。
七メートルの高さの訓練塔からぶらさがるロープの、その中央に俺は括りつけられている。一度登ったら最期、降りることは決して許されない。ロープ登攀、所謂素登り訓練の最中だった。
「早く上がって来い!」
「はい!」
返事をしたものの、手は全く動かない。
握力を加えれば、全身の筋肉が一気に硬直し、ことさら下半身が悲鳴を上げた。
橋本の仕打ちは、案の定、俺の尻に傷をもたらした。少しでも力を入れようものなら、流血沙汰だ。一晩かけて、やっと傷が一時的に塞がったというのに。不安が、どんどん憔悴させていく。
すでに登り終えた他の隊員は、俺を餌食に休憩を取り、発破をかける。
ロープ透過や登攀を得意とする俺が、何故今日に限ってもたもたしているのか。
その理由に心当たりのある橋本だけが、仏頂面で一言も喋らない。
「これじゃあ訓練にならないぞ。ここで諦めるつもりか!」
厳しい声に追い立てられる。
「諦めません!」
即答した。
これでは特別救助は務まらない。
ぎりぎりの状況でも屈しない強い忍耐力と向上心が求められる職業だからだ。
命の危険が晒される現場では当然、通用しない。オレンジを着るプライドは捨てられない。
何とか登り終えたときには、がくがくと筋肉が戦慄き、四つ這いになって荒い呼吸を繰り返すばかりだった。
レスキューの研修を受けたときに教官から太鼓判を押されたと豪語する俺は、言葉通りにいつもなら猿のようにするすると他愛なく四肢を操り周囲を圧倒させる。
だからこそ、今日の登攀訓練は誰の目にも異常であると映った。
「橋本。ちょっと」
訓練を終えて事務室に戻ってきた橋本を、日浦さんが呼び止めた。
公には出来ない内容らしく、意味深にその場にいる全員に視線を送る。
何だよ。空気、重いな。
「そうそう。庶務課に用があったんだ」
隊長は座りかけた腰を浮かせるや、わざとらしく部屋を出て行く。
「笠置。飯の支度」
まだ食事の準備には三十分ばかり早いけど。同じ当番の堂島に呼ばれる。
「えええ?」
訓練で疲労困憊した体を休める間もないのかよ。
濁音をつけて嫌がる俺を、堂島はジロリと厳しい目つきで睨む。
鉄仮面の目つきは、人を殺しかねない。
「はいはい。わかりましたよ」
渋々と立ち上がれば、ズキーンと下半身に電流が走った。
「痛ええ!」
ずるる、と膝が折れる。
「……大丈夫か?」
気の毒そうに鉄仮面が問いかけてきた。俺の尻が流血沙汰だって、気づいてるのかよ。
……まさかな。
返事をするのも苦痛で、必死に首を縦に振った。よろよろした足取りで出て行く間際、日浦さんの声が響いた。
「俺はな、むしろお前らが巧くいけばいいと思ってる」
完全に扉が閉じる寸前で手を止めてしまった。隙間からは、いらいらと足を踏み鳴らす日浦さんの後ろ姿がある。
「だがな、仕事に支障をきたすとなると、話は別だ」
それなりに上背のある体が被って、橋本の姿は何も見えない。今、どのような表情でいるのかさえ不明だ。
「どうせ、笠置が余計なこと仕出かして、カーッとなったんだろうが。お前も、少しは冷静になれ」
余計な仕出かしって何だよ。人のいないところで陰口叩くつもりか。むかっとなって開けかけた扉は、有無を言わせぬ鉄仮面の力によって阻止された。
「いいから来い」
必要最低限しか口にしない男の命令は絶対だ。
日浦さんの怒鳴り声ががんがんと鼓膜を刺激する。
花冷えとはよく言ったもので、空気はむしろ涼しいくらいなのだが、額から垂れる汗は次から次へとひっきりなしで、顎を伝ってぽたぽたと胸元に黒い染みを作る。
腰に巻いた一本の命綱が食い込み、余計に体力を消耗させた。
七メートルの高さの訓練塔からぶらさがるロープの、その中央に俺は括りつけられている。一度登ったら最期、降りることは決して許されない。ロープ登攀、所謂素登り訓練の最中だった。
「早く上がって来い!」
「はい!」
返事をしたものの、手は全く動かない。
握力を加えれば、全身の筋肉が一気に硬直し、ことさら下半身が悲鳴を上げた。
橋本の仕打ちは、案の定、俺の尻に傷をもたらした。少しでも力を入れようものなら、流血沙汰だ。一晩かけて、やっと傷が一時的に塞がったというのに。不安が、どんどん憔悴させていく。
すでに登り終えた他の隊員は、俺を餌食に休憩を取り、発破をかける。
ロープ透過や登攀を得意とする俺が、何故今日に限ってもたもたしているのか。
その理由に心当たりのある橋本だけが、仏頂面で一言も喋らない。
「これじゃあ訓練にならないぞ。ここで諦めるつもりか!」
厳しい声に追い立てられる。
「諦めません!」
即答した。
これでは特別救助は務まらない。
ぎりぎりの状況でも屈しない強い忍耐力と向上心が求められる職業だからだ。
命の危険が晒される現場では当然、通用しない。オレンジを着るプライドは捨てられない。
何とか登り終えたときには、がくがくと筋肉が戦慄き、四つ這いになって荒い呼吸を繰り返すばかりだった。
レスキューの研修を受けたときに教官から太鼓判を押されたと豪語する俺は、言葉通りにいつもなら猿のようにするすると他愛なく四肢を操り周囲を圧倒させる。
だからこそ、今日の登攀訓練は誰の目にも異常であると映った。
「橋本。ちょっと」
訓練を終えて事務室に戻ってきた橋本を、日浦さんが呼び止めた。
公には出来ない内容らしく、意味深にその場にいる全員に視線を送る。
何だよ。空気、重いな。
「そうそう。庶務課に用があったんだ」
隊長は座りかけた腰を浮かせるや、わざとらしく部屋を出て行く。
「笠置。飯の支度」
まだ食事の準備には三十分ばかり早いけど。同じ当番の堂島に呼ばれる。
「えええ?」
訓練で疲労困憊した体を休める間もないのかよ。
濁音をつけて嫌がる俺を、堂島はジロリと厳しい目つきで睨む。
鉄仮面の目つきは、人を殺しかねない。
「はいはい。わかりましたよ」
渋々と立ち上がれば、ズキーンと下半身に電流が走った。
「痛ええ!」
ずるる、と膝が折れる。
「……大丈夫か?」
気の毒そうに鉄仮面が問いかけてきた。俺の尻が流血沙汰だって、気づいてるのかよ。
……まさかな。
返事をするのも苦痛で、必死に首を縦に振った。よろよろした足取りで出て行く間際、日浦さんの声が響いた。
「俺はな、むしろお前らが巧くいけばいいと思ってる」
完全に扉が閉じる寸前で手を止めてしまった。隙間からは、いらいらと足を踏み鳴らす日浦さんの後ろ姿がある。
「だがな、仕事に支障をきたすとなると、話は別だ」
それなりに上背のある体が被って、橋本の姿は何も見えない。今、どのような表情でいるのかさえ不明だ。
「どうせ、笠置が余計なこと仕出かして、カーッとなったんだろうが。お前も、少しは冷静になれ」
余計な仕出かしって何だよ。人のいないところで陰口叩くつもりか。むかっとなって開けかけた扉は、有無を言わせぬ鉄仮面の力によって阻止された。
「いいから来い」
必要最低限しか口にしない男の命令は絶対だ。
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