【完結】失恋した消防士はそのうち陥落する

晴 菜葉

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「笠置さん」
 呼び止められて振り向けば、まず目に入ったのは、淡いピンクのチューリップの花束。豊満な胸元、顎のラインでふわりと巻かれた赤茶けた髪、白い喉元、ゆっくり目線を上げていくと、見慣れた顔があった。
「今日はお休みなんですか?」
「桜庭先生こそ」
「生徒のお見舞いです」
 桜庭先生はやけに艶のある唇を弧の字に曲げる。
 学校で会ったときも華やかな印象だったけど、再会した現在は派手な化粧が随分と際立っている。子供の姿がない分、水商売の女としか思えない。
「ああ、小沢亜里沙ちゃんの」
 恵比寿川町には救急指定の総合病院がある。最寄りのバス停は病院前だが、おそらく見舞いの花を購入するために一つ手前で降りたのだろう。煙草屋から二つ先の通りには、昨春オープンしたばかりの花屋がテナントとして入る賃貸マンションがある。
「車に乗れさえすれば、いつでも来れて、あの子に寂しい思いをさせずに済むんですけど」
「先生、免許は」
「……昔、大きな事故をして以来、怖くて」
 触れたくない話題らしい。き、気まずいな。頭を掻くしかない。
「制服を着ていないと、何だか妙な感じですね」
 俺の爪先から頭のてっぺんまで、ゆっくりと視線が辿る。明らかな値踏み。何とか及第点に達したらしく、先生は満足そうに微笑んだ。
「やっぱり鍛えてらっしゃるのね。筋肉が凄い」
 やけに馴れ馴れしいな。二の腕を触る手は、すべすべしている。隆起をじっくりと確認するように上下してくる。梨花と別れて以来の女との触れ合い。悪い気はしない。
 中高一貫の男子高はともかく、消防学校、就職先、いずれも周囲は汗臭い男ばかりで、女子に触れ合う機会は皆無。
 自分の知らない間に、随分世の中が大胆になったものだな。
 これ、これ。この感触。衣越しの先生の手は、見た目通りに柔らかくて、女という生物の男との違いを実感させられる。
 桜庭先生の手はさらに大胆になり、腕を昇って、胸板で大きく円を描く。官能を引き起こすようなその仕草。ここが白昼の路地であることを忘れそうになる。
「初めてお会いしたときから、素敵な人だなって思ってたんです」
 言いながら、俺の指に自分の指を絡める。手荒れを知らない滑らかさ。念入りに手入れが行き届いた指の爪はどれも適度に揃えられ、薄いピンクで色付けされていた。肉刺のある男の指とは根本からして異なる。
「お話したかったんですけど、上司の方の目が何だか怖くて」
 目つきの悪い上司?いたか?
 もしかして、橋本のこと?
「あの人の目が怖い?どっちかといえば、間抜け面でしょ?」
 橋本と怖い目が結びつかない。
「悪かったな」
 いきなり、空気が不穏になり、俺は五十センチ飛び上がった。
 忘れてた!
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