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 管内は一から七までの方面に分けられ、およそ一万の職員が従事している。特別救助隊の発足は一九七一年、現在では全十八部隊三百人に及ぶ。
 その一端を担う、大黒谷特別救助隊は五人で構成、二部体制がとられている。
 二部の隊長の藤田行長さん。副隊長で一番員の日浦和樹さん。二番員の堂島篤司さん。そして三番員の俺。機関員が橋本である。
 機関員とは、消防車の運転を任された者を言う。大型運転免許の他、消防庁内のポンプ機関技術の認定をされなければ認められない。
 橋本に無理矢理引き摺られた先は、安定の車庫だった。救急車が出動中のため、行儀よい整列にぽっかりと穴が空いてしまっている。その内の、一際磨かれた救助工作車の前で立ち止まった橋本は、唐突に車体に頬ずりを始めた。
「……」
 うわー、めっちゃ引く。何をとち狂ってんだ、この人。
「お前さ、俺の車に傷でもつけてみろや。ただじゃおかへんからな」
「俺の車って。公共のものでしょ」
「うっさい」
 悪態をついても、『七福市消防局第ニ特別救助』と車両に書かれた文字に、うっとりするんだ。
 陶酔する目つきが、無駄に色っぽい。睫毛、長っが。
 いかん、いかん。危うく只ならぬ道に第一歩を踏み落とすところだった。
「七福市広しといえども、大黒谷ほど磨かれた赤車の消防署は、まずあらへんな」
「自慢することですか、それ」
「アホ。消防車は大事な相棒やろうが」
「相棒は俺じゃないんですか」
 相棒というより、ペアか。
 俺は車両以下かよ。むかつくから、はしご車の車体に指紋つけてやれ。
「その相棒をホテルに置き去りにしたやつは、どこのどいつや」
 こめかみをぴくぴくとさせ、橋本はすかさず俺の上腕に手刀を入れてきた。
「痛っ!」
 馬鹿力め。手加減しろよ。
 自分以外に指紋をつけられることが、この上なく不愉快って。露骨すぎ。
「お前、俺が何で怒ってるんか、わかってへんやろ」
「そりゃあ、大事な消防車に傷つけられそうになって」
「違う!」
 言い終わらないうちに遮られる。
「俺の朝からの態度や」
 え!今までのあれ、怒ってたの!てっきり、改めての新米いびりかと思った。
「お前なあ!」
 不機嫌極まりない理由を全く理解していなかった。表情丸出しの俺に向けて、橋本は牙を剥き唸る。獣かよ。って言うか、この人、こんなふうに怒るんだ。
「俺、あれからずっと連絡しとったよな。ずーっと。ずーっと。ずーっと」
 いちいち繰り返さなくとも、わかってるよ。俺のスマホは、あれから振動しっぱなしだ。着信履歴が三桁で、ぞくっとした。
「やっと今朝会えた思ったら……無視かい」
「いや。ちゃんと業務連絡は」 
「やかましい!」
 汚いな。唾飛ばすなよ。
 俺にも俺の事情ってもんがあるんだよ。
 あんな、爛れた関係を持ってしまって、平然と出来るか。生々し過ぎるだろ。しかも俺、失恋したてだし。仕事休まなかっただけ、自分で自分を褒めたいくらいだ。
「せっかく俺が、早速らぶらぶいちゃいちゃしよ。日浦に見せつけたろて、張り切ってたのに。当番明けは、夕飯すっ飛ばして、そのままホテル直行して、まずは二人でシャワー浴びて、それから」
「ストーップ!」
 思わず叫んでしまった。あまりの声のでかさに、庇にいた雀が飛び立つ。
「待って待って待って待って。何だか話が変な方向に行ってる。あと、内容が具体的過ぎて、えげつない」
「何が」
「俺達、いつ、らぶらぶいちゃいちゃする関係になったわけ?」
 青天の霹靂だよ。
 って、橋本さん。垂れ目が垂れてない。こめかみにつくくらい、吊り上がってるよ。
「あんなにベッドで俺にしがみついて、あんあん言うてたのに!付き合うてないってか!」
 あんあんて。安っぽいAVじゃあるまいし。
「だから、あれは酔ったはずみで」
「俺は素面や」
 確かに。
 でも、でも。俺達は仕事仲間で。あんたは先輩で。毎日顔合わすし。男だし。十も年離れてるし。そんな簡単に、越えていいもんじゃないだろ。
 ぐちゃぐちゃと言いたいことが脳味噌の中でこんがらがって、言葉が出てこない。
 あれは、一夜の悪夢だ。
 あんなのは、俺じゃない。
「あー。くそっ」
 いきなり橋本が帽子を脱いだかと思えば、頭皮に両手の指全部突っ込んで、髪を掻き乱し始めた。何なんだ。引く俺にはお構いなしに、ぐしゃぐしゃと、サラサラの髪を台無しにしている。だから、何なんだ。
「そんな困った顔すんな。反則や」
 今度は非難かよ。橋本の目元が赤い。
「わかったわ!」
 ぽん、と小気味よく膝を打つ。
「お前は、恥ずかしがりっちゅうことやな」
「は?」
「あくまで、いちゃいちゃしたいのは、プライベートだけってことやな!」
「あの?仰ってる意味が?」
「照れんなよ。そうやな。仕事はきっちりケジメつけやんな」
 何?何?何?何?何を言ってるんですか?
「何?違うんか?」
 いきなり、シュンとするな。情緒不安定か。
 ああ、もう!わかったよ!やけくそだ!
「あんたさあ」
 俺は仁王立ちになり、盛大に溜め息をつく。
「押しが強いんだか弱いんだか、どっちかにしろよ」
 俺は、橋本には劣るものの、艶々に気を配る髪を掻き上げると、わざと流し目を呉れてやる。子猫のようだと形容されるまん丸の目を細くすると、どうやら酷く色っぽくなるらしい。これで、女を口説いてきた。
 これは、どうやら男相手でも通じるようだ。
 計算通り、橋本は耳まで真っ赤になった。
「大体、まだ肝心の言葉、聞いてないけど」
「肝心の言葉?」
 きょとん、と橋本は首を傾げる。
「そうだよ」
「何やねん、それ」
「教えない」
「おい!」
 怒鳴っても、無駄だ。
 まだ、好きだと聞いてない。俺も、一言も言ってない。言うつもりもない。
 つまり、お付き合い不成立。
「その言葉が聞けたら、付き合ってあげます」
 音もなく橋本に近寄ると、俺は爪先いっぱい使って背伸びする。二十センチ以上開きのある背丈は、なかなか視線が合わない。いつもなら、高身長を自慢しやがって、ムキーっとなるが、今日はむしろ都合がいい。
 指先で、顎の下から喉仏にかけてをくすぐってやる。
 予想通り、橋本の喉がひくつく。
 単純なやつ。十歳も下の男に手玉に取られて。
「こ、この!小悪魔!」
 俺にいいように悪戯された橋本は、耳まで赤くなり叫んだ。
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