【完結】失恋した消防士はそのうち陥落する

晴 菜葉

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 七福市消防局第七方面大黒谷消防署。
 三階建ての鉄筋コンクリート造りの外壁は薄青に塗装され、春の光に照らされて一際輝いている。
 真正面の局棟から右に目線をずらす。
 車庫にはポンプ車と梯子車の消防車が並んで、その横に救急車と、赤と白が行儀よく収まっている。
 清々しい朝の空気をめいいっぱい吸い込むと、俺はぶるっと身震いした。
「あー、悪い夢だ」
 真向かいには百五十台程度駐車可能な市営の駐車場、広大な公園、背後には煉瓦造りの飲料関係の本社ビル、隣にはその飲料関係工場の跡地に建築された複合施設がそびえている。
 郊外の再開発地区として、五年後の完成を目途に着々と町の整備は進行している。
「天気は上々。気分は最悪。あー、くそっ」
 プロポーズ大作戦大失敗の俺、笠置真也かさぎしんやの新たな門出を祝うかのように、三日連続の雨は出勤当日に見事に晴れた。
 あの後、朝の四時に目が覚めたら真横で寝息をかく橋本に飛び上がった。大変、満足そうに寝てらっしゃる。寝顔は予想外に可愛らしい。十代といっても充分通じる。寝顔は。日焼けして少々荒れた肌。意外に睫毛、長いんだな。無精髭、生えてるし。
 などと、本来なら絶対知らない橋本の寝顔を観察しているうちに、尻からたっぷりとジェルの名残が逆流して、またしても飛び上がった。
 やばい。俺、仕事仲間と一線越えた。
 明日から、どんな顔して会ったらいいんだ。
 がしがしと透明の液体をティッシュで拭うと、自分の荷物を選別し、取り敢えず着るものだけ着て、一目散にホテルを飛び出した。
 何もなかった。
 うん。何にも起こらなかった。
 俺のスマホにこれでもかと連絡が来ていたけど、見ない知らない聞かない振りで非番をやり過ごした。
 が、いつまでも逃げ続けられるわけがない。
 出勤日というものがやってくる。
 俺も橋本も、同じ職場。
「ホント、最悪」
 心は土砂降り。天気は快晴。
「おーい、笠置。早く来いや。何しとんねん」
 俺の心の土砂降りの元凶は、二階の窓枠に片方の尻を乗せて、大きく手招きしている。
 まだ、始業時間じゃないだろうが。
 俺はあからさまに舌打ちする。どうせ、ここからじゃ聞こえないだろうから。
「おい、先輩に何や。そのチッは」
 橋本は、形の良い眉を器用に片側だけ吊り上げた。
「げっ。地獄耳」
「地獄耳とは、何じゃ」
 俺、溜め息より小さい声だったぞ。一般が六十デシベルだから、たぶん、三十もないんじゃないか。あんた、どんな耳してんだ。
「ええから、俺んとこ早よ来い!」
「はいはい。行きますよ」
「俺んとこやぞ」
「はいはいはい。わかってますって」
 しつこいんだよ。
 うん、やはり悪い夢だ。
 尻がひりひり痛くて、変な粘液が出たのは、一時的な何かの病気だ。いや、酒のせいだ。飲み過ぎだな、これは。キスマークらしいのは、季節外れの蚊だな、うん。
 でなければ、あんなに清々しく俺に呼びかけたりしないし。
 そうだ、悪い夢だ。
 大きく深呼吸すると、地面を蹴った。


「おはようございます!」
 室内にいた誰もが、唐突に入ってくるなり声を張り上げた俺に、何事かと言葉を失い、目を見開いて動きを止める。
「おお、笠置。朝から威勢がいいな」
 即座に状況を回収しようとした、一番奥の席にいた男は立ち上がると、のしのしと巨体を揺すって入り口まで一直線に近づいてきた。
 俺は体を二つに折って頭を下げた。
「おはようこざいまっす!隊長!」
 藤田行長ふじたゆきなが消防司令補。百六十を二センチばかり越えた俺には、目線が上になりすぎて首が痛い。四十代初めらしいものの、白髪混じりの短髪は相変わらず渋い男の魅力を引き出している。
「元気そうで何より」
 隊長はそう言って、恵比寿様そっくりの笑顔で肉刺の出来た一本一本指の太い手を差し出してきた。
 俺はその手をどうにか握り返す。握力が半端ない。執務服を身につけても筋肉質だとわかる肉体は伊達じゃない。
「ふうん。元気じゃないか。プロポーズ、失敗じゃなくてやっぱり成功した?」
 不意打ちの横槍に、俺はぴくっと頬を引き攣らせた。
「それは禁句だろ、日浦」
 隊長は困ったように眉を垂れ下げ、声の主を窘めた。
 ばれてんじゃねーか。
 喋ったな、橋本。
「ま、わーわー泣かれて仕事に支障きたされたら困るけど。大丈夫そうだな」
 大黒谷特別救助一番員、かつ、副隊長の日浦和樹ひうらかずきは、言うなりキャスター付きの椅子に腰を下ろすと、背凭れに身を預け、大きく伸びをした。面倒臭そうに欠伸をする。
「レスキューのロープ透過訓練でも、洟垂らして泣いたんだろ。泣き顔再びかって身構えたけど」
 いつもなら、日浦さんはこんなことは言わない。
 ライオンみたいに赤茶けた癖のある髪、琥珀色の切れ長の双眸。高い鼻梁。整った眉。薄い唇。それらが見事に配置された顔は、そこら辺の俳優よりも格段に上としか言いようがない。  
 その美貌を最大限に活かして、フェミニストを気取る。
 主に女子にだが、男子にも優しい。
 つまり、今日は大変機嫌が悪い。
 たびたび、思い出したようにあるから、困ったものだ。
「あ、あれは。緊張して」
「訓練ごときで泣き喚いてたんじゃ、現場でどうするんだ」
「で、でも。最終日は完璧でしたよ。教官だってそう褒めてくれたし」
「どうだかな」
 念願の特別救助隊の試験に合格した高揚する気持ちは、そのまま緊張にと変貌し、訓練の際に極限に達して、ロープ透過が出遅れ、焦った弾みでうっかり手を滑らせてしまった。教官の怒鳴り声が胸に突き刺さり、昂ぶっていた感情がそのまま涙となって表に出てしまった。
 恥話を蒸し返され、俺はぶるぶると肩を震わせ真っ赤になって俯いた。
「非常時に泣かれちゃ、迷惑なんだよ」
 日浦さんはハッと鼻を鳴らすと、スチール机の脚をとんと軽く蹴る。弾みで勢いよく椅子は動き、俺の目前でぴたりと停止した。日浦さんは真下から挑発する。
「おら、また泣くのかよ」
 小学校のガキ大将並の意地悪だろうと、言動は確実に真実をついている。ぶるぶると震える拳に青筋が浮こうが、耐えるしかない。
 もし今、ここで報復を試みたところで、待っているのは居心地の悪さ、下手を打てば移動になって、運が悪ければもう誰も拾ってくれないかも知れない。とにかく、ひたすら耐えるのが賢明だ。俺は何とか拳の振り上げを押さえ込んだ。
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