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鏡の提案
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「どうした? 怪我でもしたのか? 」
翌朝の朝食の席で、ランハートは目敏くアデリーの右腕に巻かれた包帯について問いかけてきた。
思わずアデリーは、後ろ手に包帯を隠してしまった。
控えていた家令と、料理長は顔を見合わせる。
屋敷には、アデリーが怪我をする要因がないからだ。
「これは……その……」
アデリーは口籠る。
ザンターの剣から逃れた際に、思いの他、板壁で掠ってしまった傷だ。
「猫に引っ掻かれただけです」
上腕全てに巻かれた包帯の言い訳にしては、あまりに不自然。
しかし、内心の動揺はともかく、アデリーはあくまで澄まして答えてみせた。
紅茶の湯気の向こう側で、ランハートは白い歯を覗かせる。
「随分、大きな猫だな」
何やら含みを持たせた言い方だ。
ランハートはそれきりその話題には触れずに、今朝の茶葉の産地を料理長に尋ねていた。
「ねえ、鏡」
「どうされましたか?」
鏡がちゃんと返事する。今日は不在ではないことに、アデリーはほっと息をついた。
「私、ランハート様に助けていただいてばかりだわ」
「唐突に、どうされましたか? 」
「何かお礼がしたいんだけど」
白雪姫の継母として鉄の靴を履いて踊り狂わされる断罪をはじめ、年頃の娘を慮る真新しいドレスを用意してくれたり、また、毒りんごとしてだが、ザンターからの危機を救ってくれたり。
皮肉屋で、いまいち心の読めない男だが、彼がいなければ、アデリーの存在は確実に抹消されていた。
感謝の意を伝えていないことに、今更ながらに気づいてしまった。
「どうして、今になって? 」
鏡は不思議そうだ。
「そ、それは。何だか気になってしまって」
昨夜、毒りんごとして助けられた後、ランハートの横顔が脳裏にちらついて仕方がなかった。
一晩中頭を捻くり回した結果、礼を返していないからだと言う結論に辿り着いた。
「成程。気になってしまいましたか」
鏡は、何やらうれしそうに繰り返している。
「それならば、一つ、方法があります」
勿体ぶったように、一息つく鏡。
「何? 」
アデリーは鏡面に両手をつき近寄れば、息で白く曇った。
「あなたからのキスです」
鏡自身の表情はないが、声質から、悪戯を仕掛けているのは明白だ。心なしか、鏡の声のトーンが上がっている。
「何ですって! 」
咄嗟に真後ろに飛んだ。鏡に映るアデリーの顔は真っ赤だ。
「冗談はやめて」
続いて鏡の中に映るアデリーは、眉毛が中央に寄り、喉から呻き声を漏らした。
自分からキスを仕掛けるなんて、はしたない。
毎日剣と武術の稽古に明け暮れるアデリーには、キスなんて縁のないことだった。
「至って本気ですよ」
鏡はもっともらしく返答する。
「公爵へのお礼は、それが一番です」
「ほ、他にも何かあるでしょ」
「ありません」
「何か贈り物をするとか」
「特に物欲はありませんね」
「本当にないの? 」
「あなたからのキス以外、ありません」
語気を強めに、鏡がきっぱりと言い切る。
それ以外の答えはない、と。
アデリーは赤面する姿を鏡に晒し、ぶるぶるとドレスの胸飾りのリボンを掴み続けたせいで飾りを台無しにしてしまった。
「さあ。そろそろ公爵が屋敷を出られる時間ですよ。お見送りを」
葛藤するアデリーに、鏡は促す。
「旦那様! 奥様! どちらですか! 」
ちょうどのタイミングで、廊下からロベルトが声を張り上げ、だんだん声を近づかせてきた。
フレディ・サンとかいう新聞社の、必要以上に毒りんごを持ち上げる記事のせいで、国王はとうとう、御触れを出した。
毒りんごの活躍を示す新聞社を潰す、と。
加えて、正体不明のフレディ・サンを突きとめるようにと。
国中の兵士が駆けずり回った。
だが、幾ら探索しても、その新聞社の存在はわからない。拠点は、記者は、記事がいつ配られているのか。謎でしかない。
わかったことといえば、気づけば、家々の扉といったそこかしこに新聞記事が貼り付けられているということだ。
一体いつ、誰が行動しているのか。見た者はいない。
国王が毒りんごに気を取られている隙に、公爵は宰相らと何やら裏で動いていた。毎朝、王宮へ出掛けるのも、それと関係があるらしい。
「どうした? 随分、顔が赤いが? 」
見送りの際、玄関先でランハートは首を傾げた。
アデリーは未だ赤面の取れない顔をツンと背ける。
「べ、別に何ともありません」
「そうか」
ぐしゃぐしゃのリボンを横目に、ニヤリ、とランハートは口角を曲げる。
全ては鏡のせいだ。
鏡が妙な提案をするから。
ランハートの形の良い、薄い唇が気になって仕方がない。
今まで注視しなかったが、薄い唇はほんのりと赤く、傷一つついていない。
一度だけ覚えのある感触は、柔らかく、ずっと重ねていたいくらい心地良かった。
もう一度、それを味わう?
次は自分から?
「無理無理無理無理」
「何がだ?」
うっかり心の声が出てしまい、すかさずランハートに突っ込まれる。
「い、いえ。何も」
アデリーの額に一気に汗の粒が吹き出す。握りっぱなしでぐしゃぐしゃになってしまったハンカチで汗を拭っても拭っても、汗粒は止まらない。
ランハートは、何故だか楽しそうに目を細めた。
翌朝の朝食の席で、ランハートは目敏くアデリーの右腕に巻かれた包帯について問いかけてきた。
思わずアデリーは、後ろ手に包帯を隠してしまった。
控えていた家令と、料理長は顔を見合わせる。
屋敷には、アデリーが怪我をする要因がないからだ。
「これは……その……」
アデリーは口籠る。
ザンターの剣から逃れた際に、思いの他、板壁で掠ってしまった傷だ。
「猫に引っ掻かれただけです」
上腕全てに巻かれた包帯の言い訳にしては、あまりに不自然。
しかし、内心の動揺はともかく、アデリーはあくまで澄まして答えてみせた。
紅茶の湯気の向こう側で、ランハートは白い歯を覗かせる。
「随分、大きな猫だな」
何やら含みを持たせた言い方だ。
ランハートはそれきりその話題には触れずに、今朝の茶葉の産地を料理長に尋ねていた。
「ねえ、鏡」
「どうされましたか?」
鏡がちゃんと返事する。今日は不在ではないことに、アデリーはほっと息をついた。
「私、ランハート様に助けていただいてばかりだわ」
「唐突に、どうされましたか? 」
「何かお礼がしたいんだけど」
白雪姫の継母として鉄の靴を履いて踊り狂わされる断罪をはじめ、年頃の娘を慮る真新しいドレスを用意してくれたり、また、毒りんごとしてだが、ザンターからの危機を救ってくれたり。
皮肉屋で、いまいち心の読めない男だが、彼がいなければ、アデリーの存在は確実に抹消されていた。
感謝の意を伝えていないことに、今更ながらに気づいてしまった。
「どうして、今になって? 」
鏡は不思議そうだ。
「そ、それは。何だか気になってしまって」
昨夜、毒りんごとして助けられた後、ランハートの横顔が脳裏にちらついて仕方がなかった。
一晩中頭を捻くり回した結果、礼を返していないからだと言う結論に辿り着いた。
「成程。気になってしまいましたか」
鏡は、何やらうれしそうに繰り返している。
「それならば、一つ、方法があります」
勿体ぶったように、一息つく鏡。
「何? 」
アデリーは鏡面に両手をつき近寄れば、息で白く曇った。
「あなたからのキスです」
鏡自身の表情はないが、声質から、悪戯を仕掛けているのは明白だ。心なしか、鏡の声のトーンが上がっている。
「何ですって! 」
咄嗟に真後ろに飛んだ。鏡に映るアデリーの顔は真っ赤だ。
「冗談はやめて」
続いて鏡の中に映るアデリーは、眉毛が中央に寄り、喉から呻き声を漏らした。
自分からキスを仕掛けるなんて、はしたない。
毎日剣と武術の稽古に明け暮れるアデリーには、キスなんて縁のないことだった。
「至って本気ですよ」
鏡はもっともらしく返答する。
「公爵へのお礼は、それが一番です」
「ほ、他にも何かあるでしょ」
「ありません」
「何か贈り物をするとか」
「特に物欲はありませんね」
「本当にないの? 」
「あなたからのキス以外、ありません」
語気を強めに、鏡がきっぱりと言い切る。
それ以外の答えはない、と。
アデリーは赤面する姿を鏡に晒し、ぶるぶるとドレスの胸飾りのリボンを掴み続けたせいで飾りを台無しにしてしまった。
「さあ。そろそろ公爵が屋敷を出られる時間ですよ。お見送りを」
葛藤するアデリーに、鏡は促す。
「旦那様! 奥様! どちらですか! 」
ちょうどのタイミングで、廊下からロベルトが声を張り上げ、だんだん声を近づかせてきた。
フレディ・サンとかいう新聞社の、必要以上に毒りんごを持ち上げる記事のせいで、国王はとうとう、御触れを出した。
毒りんごの活躍を示す新聞社を潰す、と。
加えて、正体不明のフレディ・サンを突きとめるようにと。
国中の兵士が駆けずり回った。
だが、幾ら探索しても、その新聞社の存在はわからない。拠点は、記者は、記事がいつ配られているのか。謎でしかない。
わかったことといえば、気づけば、家々の扉といったそこかしこに新聞記事が貼り付けられているということだ。
一体いつ、誰が行動しているのか。見た者はいない。
国王が毒りんごに気を取られている隙に、公爵は宰相らと何やら裏で動いていた。毎朝、王宮へ出掛けるのも、それと関係があるらしい。
「どうした? 随分、顔が赤いが? 」
見送りの際、玄関先でランハートは首を傾げた。
アデリーは未だ赤面の取れない顔をツンと背ける。
「べ、別に何ともありません」
「そうか」
ぐしゃぐしゃのリボンを横目に、ニヤリ、とランハートは口角を曲げる。
全ては鏡のせいだ。
鏡が妙な提案をするから。
ランハートの形の良い、薄い唇が気になって仕方がない。
今まで注視しなかったが、薄い唇はほんのりと赤く、傷一つついていない。
一度だけ覚えのある感触は、柔らかく、ずっと重ねていたいくらい心地良かった。
もう一度、それを味わう?
次は自分から?
「無理無理無理無理」
「何がだ?」
うっかり心の声が出てしまい、すかさずランハートに突っ込まれる。
「い、いえ。何も」
アデリーの額に一気に汗の粒が吹き出す。握りっぱなしでぐしゃぐしゃになってしまったハンカチで汗を拭っても拭っても、汗粒は止まらない。
ランハートは、何故だか楽しそうに目を細めた。
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