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真相、そして【終】
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日暮れ前の空が橙に染まる時間帯。
隣国を出発した王家所有の箱馬車が、国境沿いの森の入り口に差し掛かったとき、馬のいななきが響き渡った。
箱馬車が、大きく傾く。
御者が寸でのところで持ち直させたが、バランスを崩した自身は地面に放り投げられた。
箱馬車を、数頭の馬が取り囲む。
「待て!」
彼らは漆黒の騎士服を着用している。胸には金糸で王家の紋章が刺繍されていた。
「特務師団か!」
箱馬車から、国王メイソン三世が引きずり降ろされる。
常に整然とした身なりだが、箱馬車の傾きによる衝撃と、地面に引きずりだされたせいで、よれよれの土埃だらけだ。
「私が誰かわかっての狼藉か!」
国王は威厳を保ち、野太い声を張り上げる。
お忍びでの外出との情報を事前に得ていたが故、特務師団は今日を狙った。
読み通り、護衛隊はおらず、国王に近しい屈強な者、僅か三名。
まさか、襲われることはないだろうと、油断したのだろう。
「あなたは、権力を手に入れるため、画策した」
ルパートが剣を引き抜く。
「愚かな王め」
剣先を、尻餅をついたまま身動きが取れない国王の鼻先に突きつけた。
「騎士の分際で、この私に楯突く気か」
戦争を潜り抜けてきた国王は、内心どうであろうと、動じない。
「我々、特務師団は、国が第一だ」
たとえ国王だろうと、己の利益と引き換えに国を売ろうとする者は、排除する。
手段は選ばない。
それが、特務師団だ。
「このようなことをして、どうなるか」
護衛は、とっくに捕らえられ、後ろ手に縛り上げられている。
「おのれ!」
国王は目だけ動かして、すぐさま己が助かる道を判断する。
おそらく、団長と何らかの深い関係を持つ者。
でなければ、か弱そうな女がこのような場にのこのこついて来ない。
ヒルダを見咎め、国王は飛びかかった。
「ヒルダ!」
一瞬の隙をつかれ、ルパートは振り返って叫ぶ。
命のかかった国王の目は血走り、体中のあらゆる血管が浮き、歯を剥いて、ただひたすらヒルダを人質に捕らえようと手を伸ばした。
ヒルダは冷静だった。
国王の標的が自分になると、予想していた。
ヒルダの体を黒い影が覆う。
距離が詰まる。
今だ!
ヒルダは脚を伸ばして、思い切り国王のこめかみに蹴りを入れた。
「ぐあっ!」
国王は潰れた声を上げ、真横に吹っ飛ぶと、そのまま地面に滑りながら倒れ込む。
白目を剥き、泡を吹いて、国王は気を失っている。
「大丈夫です!ルパート様!」
ヒルダは汗を拭い、ルパートに満面の笑みで無事を報せた。
ルパートは安堵の息を吐く。
そして、引き抜いた剣を頭上に掲げた。
それから。
「隣国が、第二王女とうちの第三王子との縁談を持ち掛けてきた」
玉座にて、アルフレッドは長ったらしい手紙をくるくる巻きながら、深く溜め息をついた。
「裏で糸を引いていたのが何者か。公にしているようなものだな」
アルフレッドの前でかしづくルパートは、声のトーンを一層低めた。
「前国王を唆して、傀儡にし、この国を手に入れようとしていたんだな」
ルパートの言葉は、間違いではないだろう。
金と香辛料で栄えるこの国の財力は、周辺諸国を圧倒するほどとなっている。
潤沢な財力は、兵力に比例する。
三十年前の戦争時とは比較にならないだろう。
力で及ばない今、それでも支配下に置きたがる国は後を絶たない。
あらゆる策を巡らせてくる。
「縁談が来たということは、つまり」
アルフレッドは丸めた手紙を握り潰す。
「早々の幕引きを図るつもりだ」
「友好的な姿勢だね」
前国王が急病により逝去し、国中が悲嘆に暮れる中、アルフレッドが即位した。
当初、アルフレッドは後継を渋った。
何故なら、十歳上の幼馴染への、二十年にも及ぶ一途な想いを、立場上、今後ぶつけることが出来なくなるからだ。
一時はシンデレラとの婚約を交わしたものの、その熱は冷めず。
婚約解消後は、生涯独身を貫く。そう決意した矢先だった。
政府も、定例通りの展開でなければ都合が悪い。
そこで、国王直属の騎士団隊長の一計に乗じた。
カサンドラへ、政府からの伝令があったのは、国王逝去の翌日だった。
唐突な命令に、戦慄いた。
次期国王となるアルフレッドの正妃となれ、と。
「私は十も年上です。それに、生家は爵位がなく、今は男爵未亡人の身。釣り合いが取れません」
早々に断りを入れた。
二十年にも及ぶアルフレッドとの付き合いで、十も年が違えば、露骨な相手の気持ちはとうにカサンドラに届いてはいる。
カサンドラのために硝子の靴を特注したり、時にはお菓子の家なるものを森に作ったり、はたまた金のガチョウなる明らかな紛い物を寄越してきたり。
その度に、おかしな演奏隊をつけて。
普段は冷静沈着な王子様の、そのときばかりの妙な行動を繰り返されたならば、どのような愚か者でも気づく。
しかし、カサンドラには受け入れられない。
年齢と身分。その重みは、外されない枷だ。
二度の結婚後でさえ、アルフレッドは密やかな想いを砕くことはなかった。
だから、イザベラとの婚約が決まったときは、寂しく想いながらも、ようやくアルフレッドを縛っていたものから解放させてやれる、と思っていたのに。
運命は、どうあっても、カサンドラを逃がさない。
「もう、意地を張るのはやめて。お母様」
ヒルダから懇願された。
「あなたの、アルフレッド様を見る目は、慈愛に満ちているのは確かです」
「でも」
言葉が続かない。
確かにアルフレッドは大切な人だ。あらゆる意味で。
「お母様。素直になって」
ヒルダの言葉は、頑なだった想いを一気に崩壊させた。
カサンドラはついに運命を受け入れた。
新国王即位と、結婚の報せが国中に駆け巡った。
国民は当初、十も年上で、身分も低く、未亡人のカサンドラに対し、良い感情を抱かなかった。
しかし、二十年に及ぶ国王の一途さと、賢妃の噂は流布され、いつしか誰もが国王夫妻を受け入れ、祝福する。
男爵家を継いだマシュウは、王立学校を十六で卒業すると、正式に王立騎士団所属となった。
元々の才覚は、騎士となって花開き、護衛隊に転属して、若干十八歳で副隊長の地位を得る。
さらりとした金髪、翠緑の瞳、白磁の肌。
まるで絵本の中から飛び出したかのような容姿に加え、誰もが唸る剣の腕前は、老若男女を虜にする。
だが、当のマシュウといえば……。
「僕は、陸戦隊副隊長一筋です!嫁になってください!」
「お、俺は男だぞ!」
「知ってます!」
「俺にも選ぶ権利があるだろ!」
「関係ありません!」
「あるわ!」
今日もまた、周囲を憚ることなく陸戦隊ソーマ副隊長を追いかけている。
かつてシンデレラを自称していたイザベラは……。
紆余曲折の末、夫である元狩人ビリーと、パン屋を開いていた。
七人の子宝に恵まれたイザベラは、子供が増えるに連れてふくよかになっていき、ヒルダが町ですれ違ったとしても、すぐには気づかないほど変貌を遂げていた。
町では評判の肝っ玉母さんとして、夫婦仲良く、幸せに慎ましく暮らしている。
カーソン公爵は爵位を返上し、愛人共々姿を消した。
人々は、駆け落ちしたのだとか、金に目が眩んだ愛人がカーソンを亡き者にして逃亡しただとか、まことしやかに噂しあったが、真相は闇の中。
どこかの辺境の町で、よく似た親子が宿屋をやっていると誰かが話してはいたが、それも広まることなく、すぐに人々の記憶から消されていった。
そして、ヒルダは……。
「まだまだよ!素振り百回!」
鬼軍曹と渾名され、陸戦隊隊長特別補佐の任務を与えられ、今日も城の中庭で声を張り上げている。
艶やか黒髪、切れ長の漆黒の瞳、濡れた唇。その容貌は、およそ鬼軍曹とは程遠い美しさを保っている。いや、むしろ、年齢を重ねて婀娜っぽさが加わり、輝きを強めてさえいた。
配属された男どもは、最初は誰しもがポーッと熱を上げるが、すぐさまそれは砕かれる。
「そこ!遅れてる!」
ヒルダは噂に違わぬ扱きっぷりで、しかも抜け目ない。
大勢に紛れて手を抜いている者を目敏く見咎めると、指差し、怒鳴った。
「特別補佐、ねえ」
渡り廊下の日陰で訓練を見学していたアルフレッドは、そんなヒルダの横顔を見ながら意味深に呟く。
国王の座につき十年。かつての美貌に貫禄がつき、亡き父にますます酷似してきた。
「ヒルダの強さをみすみす逃すのは、この国の損失だ」
アルフレッドに並んだルパートは、四十半ばだと言うのに、日々の鍛錬により体型の崩れはなく、若干の目元の皺が年を重ねて色気を帯びていた。何者をも近づかせなかった怜悧な眼差しは、結婚以来、随分と和らいだとか。
今では戦場の虎を越すほど、騎士を目指す若者の憧れの対象となっている。
「確かにそうだけど。それだけじゃないだろ」
「何が言いたい?」
「まだ、ヒルダは貴族の奴等に狙われてるんだろう?」
二十代のヒルダには、未だに恋文が後を絶たない。
ルパートは逐一それを極秘裏に握り潰していた。
「自分の傍に置いて、常に目を光らせる。君も苦労するね」
「違う。俺はヒルダの能力が」
「言い訳は結構」
ルパートを途中で遮り、アルフレッドは眩しそうに手を翳して真上を見上げる。
暦上では秋も始まったというのに、日差しはまだまだ強い。
「それより。そろそろ休ませたらどうだい?妊婦には、充分な休息が大事だよ」
デラクール夫妻に、結婚十年目にして待望の妊娠が発覚した。
孫はまだかまだか、と心待ちにしていたルパートの母の喜びようといったら。田舎から毎日毎日馬車を飛ばして、わざわざ赤ん坊の用品を届けているらしい。
「ヒルダ。そろそろ休憩の時間だ」
ルパートはずかずかと中庭へ近寄る。
隊長が姿を現した途端、部下全員が姿勢を正し、息を止めた。
「ですが、まだ腕立てが」
ヒルダは口を尖らせる。
「アルフレッドが、旨い葡萄ジュースを仕入れたんだ。味見しろ」
この十年で、妻の扱い方は把握している。
案の定、ヒルダはたちまち満面の笑顔となった。
「では、参りましょうか。ねえ、旦那様」
ふふ、とヒルダは可笑しそうに口元を綻ばせる。
ルパートも、目元の皺を深くし、頷いた。
シンデレラの姉は、眠れる森の騎士の本物の妻となり、幸せを噛み締めながら、葡萄ジュースのことを考えた。
【終わり】
隣国を出発した王家所有の箱馬車が、国境沿いの森の入り口に差し掛かったとき、馬のいななきが響き渡った。
箱馬車が、大きく傾く。
御者が寸でのところで持ち直させたが、バランスを崩した自身は地面に放り投げられた。
箱馬車を、数頭の馬が取り囲む。
「待て!」
彼らは漆黒の騎士服を着用している。胸には金糸で王家の紋章が刺繍されていた。
「特務師団か!」
箱馬車から、国王メイソン三世が引きずり降ろされる。
常に整然とした身なりだが、箱馬車の傾きによる衝撃と、地面に引きずりだされたせいで、よれよれの土埃だらけだ。
「私が誰かわかっての狼藉か!」
国王は威厳を保ち、野太い声を張り上げる。
お忍びでの外出との情報を事前に得ていたが故、特務師団は今日を狙った。
読み通り、護衛隊はおらず、国王に近しい屈強な者、僅か三名。
まさか、襲われることはないだろうと、油断したのだろう。
「あなたは、権力を手に入れるため、画策した」
ルパートが剣を引き抜く。
「愚かな王め」
剣先を、尻餅をついたまま身動きが取れない国王の鼻先に突きつけた。
「騎士の分際で、この私に楯突く気か」
戦争を潜り抜けてきた国王は、内心どうであろうと、動じない。
「我々、特務師団は、国が第一だ」
たとえ国王だろうと、己の利益と引き換えに国を売ろうとする者は、排除する。
手段は選ばない。
それが、特務師団だ。
「このようなことをして、どうなるか」
護衛は、とっくに捕らえられ、後ろ手に縛り上げられている。
「おのれ!」
国王は目だけ動かして、すぐさま己が助かる道を判断する。
おそらく、団長と何らかの深い関係を持つ者。
でなければ、か弱そうな女がこのような場にのこのこついて来ない。
ヒルダを見咎め、国王は飛びかかった。
「ヒルダ!」
一瞬の隙をつかれ、ルパートは振り返って叫ぶ。
命のかかった国王の目は血走り、体中のあらゆる血管が浮き、歯を剥いて、ただひたすらヒルダを人質に捕らえようと手を伸ばした。
ヒルダは冷静だった。
国王の標的が自分になると、予想していた。
ヒルダの体を黒い影が覆う。
距離が詰まる。
今だ!
ヒルダは脚を伸ばして、思い切り国王のこめかみに蹴りを入れた。
「ぐあっ!」
国王は潰れた声を上げ、真横に吹っ飛ぶと、そのまま地面に滑りながら倒れ込む。
白目を剥き、泡を吹いて、国王は気を失っている。
「大丈夫です!ルパート様!」
ヒルダは汗を拭い、ルパートに満面の笑みで無事を報せた。
ルパートは安堵の息を吐く。
そして、引き抜いた剣を頭上に掲げた。
それから。
「隣国が、第二王女とうちの第三王子との縁談を持ち掛けてきた」
玉座にて、アルフレッドは長ったらしい手紙をくるくる巻きながら、深く溜め息をついた。
「裏で糸を引いていたのが何者か。公にしているようなものだな」
アルフレッドの前でかしづくルパートは、声のトーンを一層低めた。
「前国王を唆して、傀儡にし、この国を手に入れようとしていたんだな」
ルパートの言葉は、間違いではないだろう。
金と香辛料で栄えるこの国の財力は、周辺諸国を圧倒するほどとなっている。
潤沢な財力は、兵力に比例する。
三十年前の戦争時とは比較にならないだろう。
力で及ばない今、それでも支配下に置きたがる国は後を絶たない。
あらゆる策を巡らせてくる。
「縁談が来たということは、つまり」
アルフレッドは丸めた手紙を握り潰す。
「早々の幕引きを図るつもりだ」
「友好的な姿勢だね」
前国王が急病により逝去し、国中が悲嘆に暮れる中、アルフレッドが即位した。
当初、アルフレッドは後継を渋った。
何故なら、十歳上の幼馴染への、二十年にも及ぶ一途な想いを、立場上、今後ぶつけることが出来なくなるからだ。
一時はシンデレラとの婚約を交わしたものの、その熱は冷めず。
婚約解消後は、生涯独身を貫く。そう決意した矢先だった。
政府も、定例通りの展開でなければ都合が悪い。
そこで、国王直属の騎士団隊長の一計に乗じた。
カサンドラへ、政府からの伝令があったのは、国王逝去の翌日だった。
唐突な命令に、戦慄いた。
次期国王となるアルフレッドの正妃となれ、と。
「私は十も年上です。それに、生家は爵位がなく、今は男爵未亡人の身。釣り合いが取れません」
早々に断りを入れた。
二十年にも及ぶアルフレッドとの付き合いで、十も年が違えば、露骨な相手の気持ちはとうにカサンドラに届いてはいる。
カサンドラのために硝子の靴を特注したり、時にはお菓子の家なるものを森に作ったり、はたまた金のガチョウなる明らかな紛い物を寄越してきたり。
その度に、おかしな演奏隊をつけて。
普段は冷静沈着な王子様の、そのときばかりの妙な行動を繰り返されたならば、どのような愚か者でも気づく。
しかし、カサンドラには受け入れられない。
年齢と身分。その重みは、外されない枷だ。
二度の結婚後でさえ、アルフレッドは密やかな想いを砕くことはなかった。
だから、イザベラとの婚約が決まったときは、寂しく想いながらも、ようやくアルフレッドを縛っていたものから解放させてやれる、と思っていたのに。
運命は、どうあっても、カサンドラを逃がさない。
「もう、意地を張るのはやめて。お母様」
ヒルダから懇願された。
「あなたの、アルフレッド様を見る目は、慈愛に満ちているのは確かです」
「でも」
言葉が続かない。
確かにアルフレッドは大切な人だ。あらゆる意味で。
「お母様。素直になって」
ヒルダの言葉は、頑なだった想いを一気に崩壊させた。
カサンドラはついに運命を受け入れた。
新国王即位と、結婚の報せが国中に駆け巡った。
国民は当初、十も年上で、身分も低く、未亡人のカサンドラに対し、良い感情を抱かなかった。
しかし、二十年に及ぶ国王の一途さと、賢妃の噂は流布され、いつしか誰もが国王夫妻を受け入れ、祝福する。
男爵家を継いだマシュウは、王立学校を十六で卒業すると、正式に王立騎士団所属となった。
元々の才覚は、騎士となって花開き、護衛隊に転属して、若干十八歳で副隊長の地位を得る。
さらりとした金髪、翠緑の瞳、白磁の肌。
まるで絵本の中から飛び出したかのような容姿に加え、誰もが唸る剣の腕前は、老若男女を虜にする。
だが、当のマシュウといえば……。
「僕は、陸戦隊副隊長一筋です!嫁になってください!」
「お、俺は男だぞ!」
「知ってます!」
「俺にも選ぶ権利があるだろ!」
「関係ありません!」
「あるわ!」
今日もまた、周囲を憚ることなく陸戦隊ソーマ副隊長を追いかけている。
かつてシンデレラを自称していたイザベラは……。
紆余曲折の末、夫である元狩人ビリーと、パン屋を開いていた。
七人の子宝に恵まれたイザベラは、子供が増えるに連れてふくよかになっていき、ヒルダが町ですれ違ったとしても、すぐには気づかないほど変貌を遂げていた。
町では評判の肝っ玉母さんとして、夫婦仲良く、幸せに慎ましく暮らしている。
カーソン公爵は爵位を返上し、愛人共々姿を消した。
人々は、駆け落ちしたのだとか、金に目が眩んだ愛人がカーソンを亡き者にして逃亡しただとか、まことしやかに噂しあったが、真相は闇の中。
どこかの辺境の町で、よく似た親子が宿屋をやっていると誰かが話してはいたが、それも広まることなく、すぐに人々の記憶から消されていった。
そして、ヒルダは……。
「まだまだよ!素振り百回!」
鬼軍曹と渾名され、陸戦隊隊長特別補佐の任務を与えられ、今日も城の中庭で声を張り上げている。
艶やか黒髪、切れ長の漆黒の瞳、濡れた唇。その容貌は、およそ鬼軍曹とは程遠い美しさを保っている。いや、むしろ、年齢を重ねて婀娜っぽさが加わり、輝きを強めてさえいた。
配属された男どもは、最初は誰しもがポーッと熱を上げるが、すぐさまそれは砕かれる。
「そこ!遅れてる!」
ヒルダは噂に違わぬ扱きっぷりで、しかも抜け目ない。
大勢に紛れて手を抜いている者を目敏く見咎めると、指差し、怒鳴った。
「特別補佐、ねえ」
渡り廊下の日陰で訓練を見学していたアルフレッドは、そんなヒルダの横顔を見ながら意味深に呟く。
国王の座につき十年。かつての美貌に貫禄がつき、亡き父にますます酷似してきた。
「ヒルダの強さをみすみす逃すのは、この国の損失だ」
アルフレッドに並んだルパートは、四十半ばだと言うのに、日々の鍛錬により体型の崩れはなく、若干の目元の皺が年を重ねて色気を帯びていた。何者をも近づかせなかった怜悧な眼差しは、結婚以来、随分と和らいだとか。
今では戦場の虎を越すほど、騎士を目指す若者の憧れの対象となっている。
「確かにそうだけど。それだけじゃないだろ」
「何が言いたい?」
「まだ、ヒルダは貴族の奴等に狙われてるんだろう?」
二十代のヒルダには、未だに恋文が後を絶たない。
ルパートは逐一それを極秘裏に握り潰していた。
「自分の傍に置いて、常に目を光らせる。君も苦労するね」
「違う。俺はヒルダの能力が」
「言い訳は結構」
ルパートを途中で遮り、アルフレッドは眩しそうに手を翳して真上を見上げる。
暦上では秋も始まったというのに、日差しはまだまだ強い。
「それより。そろそろ休ませたらどうだい?妊婦には、充分な休息が大事だよ」
デラクール夫妻に、結婚十年目にして待望の妊娠が発覚した。
孫はまだかまだか、と心待ちにしていたルパートの母の喜びようといったら。田舎から毎日毎日馬車を飛ばして、わざわざ赤ん坊の用品を届けているらしい。
「ヒルダ。そろそろ休憩の時間だ」
ルパートはずかずかと中庭へ近寄る。
隊長が姿を現した途端、部下全員が姿勢を正し、息を止めた。
「ですが、まだ腕立てが」
ヒルダは口を尖らせる。
「アルフレッドが、旨い葡萄ジュースを仕入れたんだ。味見しろ」
この十年で、妻の扱い方は把握している。
案の定、ヒルダはたちまち満面の笑顔となった。
「では、参りましょうか。ねえ、旦那様」
ふふ、とヒルダは可笑しそうに口元を綻ばせる。
ルパートも、目元の皺を深くし、頷いた。
シンデレラの姉は、眠れる森の騎士の本物の妻となり、幸せを噛み締めながら、葡萄ジュースのことを考えた。
【終わり】
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