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真実を数える手前

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「ヒルダ……」
 今にも泣き出しそうに打ち震えた囁き。
 重い瞼を押し開けば、琥珀の瞳にまず飛び込んできた、弱々しい眼差し。
 続いて、小刻みに震える唇。
 いつも、生温かく潤い、艶かしいキスを仕掛けてくる唇は、今は乾いて荒れてしまっていた。
「ルパート様?……痛っ!」
 大丈夫ですか?と伸ばしかけた手に痺れが走り、突然のことに顔が歪む。
 肩と腕が真っ二つに裂けてしまいそうだ。
「大丈夫か?」
「え、ええ」
 それより、痛みよりも、驚きの方が強い。
 このような、手負の獣のごとく脆弱な姿を目の当たりにするなんて。
 驚きで上擦っただけなのに、余計に不安を与えてしまった。
「あの、私、一体?」
 白一色の壁紙と、壁に取り付けられた簡素な灯り。地味だが、どれもこれも質が良いのは一目でわかる。微かに鼻腔を刺激する、消毒薬の匂い。
 どうやら王宮の医務室にいるようだ。
 ヒルダはその室内の、清潔なベッドで寝かされていた。羽枕が頭の重みで沈み込む。
「あ、あの。どうして私は此処に?一体、何があったのですか?」
 中庭での出来事を脳内で反芻する。
 確か、話している最中に、右肩に痛みが走り、急に眠気に襲われたのだ。
 肩から水が溢れていると思ったのは、血液だ。腕に巻かれた包帯が、じんわりと赤く滲んでいる。
「お前は、中庭で、何者かに肩に矢を受けた」
 ルパートは言葉を一つ一つ区切りながら、慎重に説明する。
「幸い矢は掠めただけだが、矢の先には毒が仕込んであった」
 油断した。
 城にはグランドマザーが潜んでいる可能性が高かったのに。
 マシュウに再会し、気が緩んだ。
「神経毒だが、極めて少量だ。一時的に意識を失う程度だ」
 急激な眠気はそのためか。
「毒の量が非常に少なかったのは、故意か。それとも、過失か。意図が読めない」
 ヒルダの命を確実に仕留めるには、あまりにも粗忽さが目立つ。
「矢を放った場所は、二階の北棟と南棟を繋ぐ渡り廊下」
「中庭を見下ろす位置ですね」
「ああ。マシュウに感謝しろ。あいつは、誰よりも早く周囲を見た」
「マシュウは今は」
「泣いて喚いて、手がつけられなかったが、メイドとうちの副隊長が傍についている。今は泣き疲れて、眠ったようだ」
 幾らしっかりしていても、八歳の子供に変わりない。姉が目の前で血を流して意識を失ったのだ。どれほど怖い思いをしただろう。
「すまなかった。俺が傍にいながら」
 ルパートが頭をさげた。
 髪の毛に隠されて表情は伺えないが、肩が小刻みに震えている。
「一瞬の気の緩みを突かれた」
 常に神経を研ぎ澄ましているルパートらしからぬ出来事だった。
 ルパートもまた、ヒルダとマシュウの和やかな家族の再会を前にして、張り詰めた糸を一瞬緩めてしまったのだろうか。
「ルパート様のせいではありません」
 ヒルダの反論も、悔悟に囚われたルパートには届かない。
「私を狙った者はわかっているのですか?」
 不意に、ピリリと空気が凍ったことを、ヒルダは肌で感じた。
 ルパートは唇を頑なに引き結んだきり、なかなか開こうとしない。 
 目を眇め、何やら思案している。
 言い淀む理由があるのは、明白だった。 
 彼が再度口を開けることを、ヒルダは辛抱強く待つしかなかった。 
 握り締めたリネンシーツの端に、放射線状に皺がくっきり浮かぶ。
 水を打つ静けさが、その場を支配する。
「起き上がれそうか?」
 その静寂を破ったのは、やはりルパートだった。
「は、はい」
 慌てて返事するヒルダに、彼は神妙に頷く。
 その目には、最早、迷いはない。
「では、ついて来てくれ」
 狙った者を知っているかのような口ぶり。いや、ルパートは知っている。案内してくれるのだ。
 飛び起きたヒルダに、ルパートは苦しそうな息を吐き出して、付け加えた。
「気をしっかり持ってくれ」

 王宮の北棟にある、一際分厚い鉄製の扉の前には、騎士服を身につけた若者が、左右対称に配置されている。
 ルパート所属部隊の藍染ではなく、萌葱色に、漆黒の糸で王家の紋章が刺繍されたその服を纏うのは、護衛隊だ。主に王族や要人の警護に務める。
 ルパートを見るなり、若い騎士は寡黙に一礼する。
 傍らの一人が、南京錠の鍵穴を回す。
「変わりないか」
 ルパートの一言に、声を発することもせず、またもや一礼。 
 おもむろにヒルダの腰に手を回して、庇うように並んだルパート。  
 エスコート以外に他意はないのだろうが、衣越しに伝わる体温の高さに、ヒルダの脈が速くなった。

 地下へと続く石階段は幅が狭く、手に持つ燭台の灯りでは、足元が心許ない。 
 扉が閉まる重々しい音が背後から響く。
 ひんやりした地下特有の空気は、春の長閑さからは程遠く、黴臭さも加わり、不気味さを一層際立たせる。
 あと一段で、階段を降り切る。
 降り切った先には、奥が暗がりになり先の見えない通路が続く。
「躓きやすいから、気をつけろ」
「は、はい……きゃっ!」
「大丈夫か」
 言った側から、足を踏み外してしまったヒルダ。バランスを崩して、後ろへ勢いよく体が傾く。 
 後頭部を階段の固い石で打ちつける……寸でのところで、逞しい腕が支え直し、弾みで、鍛えられた胸板に、思い切り鼻を打ちつけてしまった。
「いたた」
 鼻先は痛むが、後頭部からの流血は何とか免れた。
 礼を言おうと顔を上げれば、額に熱い息が吹きかかる。
「ル、ルパート様」
 咄嗟に支えるために回った腰の両腕は、離れるどころか、さらに力が加わり、膠着する。
 引き寄せられるなんて、生優しいものではない。
 縛り付けられる。そんな表現でも過言ではない。
「お前が意識を失ったとき、どうにかなってしまいそうだった」
 腰を屈め、艶やかな髪に顔を埋める。
 まるで、体温の高さを認識するかのように。
「体も冷たく、呼吸も浅く、このまま目覚めなかったらと思うと……」
 ルパートはそのときのことを思い出したのか、眉根をきつく寄せ、息苦しそうに胸を上下させた。
「ルパート様」
 辛そうな表情が堪らず、ヒルダは彼の首に両腕を回す。
 まるでそうすることが当たり前のような、そんな自然な仕草で、唇を塞ぐ。
 ひとしきりの堪能の後、ルパートは感慨深く呟いた。
「温かいな。お前の唇は」
「ええ。ちゃんと生きています」
「ああ。そうだな」
 低い響きに温かさが宿る。
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