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魔法にかけられた夜道 

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 満月はあらかた西へ傾いている。
 行きよりも幾分か影の差す馬車の中で、目の前で脚を組むルパートの顔は、より一層昏く、憂いを帯びていた。
 王太子とのヒルダに聞かせたくない会話からずっと、この調子だ。
 内容はわからないが、不機嫌を継続させるものに相違ない。
 前髪を鬱陶しそうに掻き上げる横顔は、まさに美を司る男神の彫像だ。すっと通った鼻筋が尚、魅せる。
 ついうっかり神の虜にされたヒルダは、不意に正面を向いた視線とまともにぶつかってしまった。
「今夜は有意義とは言えなかったな」
 低くよく通る声はいつになくトーンが落ち、批難めいている。
 初任務は大失敗だ。
 貴族の令嬢らの腹を探り、国王の命を狙う不埒者を燻り出す。
 そのために、偽装まで企てて婚姻を結んだのに。
 腹を探るつもりが、探られ、翻弄され、結局売られた喧嘩に打ち勝てなかった。
 扇で目元まで隠した令嬢の、得意げな顔が蘇る。
「敗因は」
 それは、決まっている。
 ヒルダは、わっと声を上げて泣きたくなったが、首が捥げそうなほど俯き、奥歯をぎりりと擦り潰して、どうにかこうにか耐えた。
「やはり、俺に一因がある」
「え?」
 まさかの答え。
 怪訝に顔を上げたヒルダ。
 ルパートは無表情のまま脚を組み替える。
 公爵家所有の馬車は、座席の天鵞絨ビロードの肌触りが格別で、貸し馬車とは段違いに広々としている。
 しかし、向かいに座る美丈夫の脚の長さのせいで、箱の中は随分と窮屈だ。
「ルパート様が一因とは?」
 てっきり罵られると覚悟していたのに。
 予想外の答えに、ヒルダは長い睫毛を瞬いた。
「反省すべき点に気づいた」
 言いながら、組んだ脚を直ぐに戻す。
 弾みで膝が触れ合い、どきりと心臓が跳ねた。
「は、反省?」
 強い酒がまだ喉奥に残っている。からからに渇き、ヒルダは無意識のうちに唇を舌で舐めていた。
 まるで誘うような仕草。
 ルパートの目元がぴくりと痙攣する。
 それを誤魔化すように、咳払いを一つ。
「俺達は夫婦にしては、あまりにもよそよそし過ぎる」
 唐突にルパートは腰を浮かせ、かと思えば、滑るようにヒルダの真横を陣取った。
 幾ら広いと言えど、隣に大男が並べば、隙間さえなく半身が密着してしまう。
「あの?狭いですが?」
 至極当然の間抜けな言い方。
 ルパートは、いらっと額に筋を浮かせたが、気を取り直すように、またしても咳をする。
「他者が見れば、新婚とは程遠い距離感があるだろう」
「そうですね」
「違和感しか与えない。そんな相手に、誰が腹を割る?」
「言われてみれば」
 一理ある。
 腹に何やら隠し持っている相手を信用出来る訳がない。自分なら、易々と情報を渡してなるものかと警戒する。
「そこで」
 ルパートは、一旦、言葉を区切る。
「ちょっ……何を!」
 ヒルダの声がひっくり返った。
 視界が一段高くなる。
 腰に手が回ったかと思えば、引き寄せられ、あっという間にルパートの太腿に軽々と体重が乗ってしまっていた。
「ジタバタするな。膝を蹴るんじゃない」
「私は小さい子供じゃありません!」
 横抱きにされた格好は、父親が幼い子供をあやすときと同じだ。
 またしても、子供扱い。
「こんな……こんな……あんまりだわ!」
 言葉ではなく、行為で侮辱されて、ヒルダは顔面を真っ赤にさせ、キイイイと奇声を上げんばかりにいきりたった。
「誰が子供扱いしているんだ」
「こんな格好をさせて、よくもそんなこと!」
「馬車が揺れたら、危ない。じっとしろ」
 言ったそばから、車輪が石を噛んで大きく跳ねた。体重の軽いヒルダは浮遊し、床に顎を打ちつける勢いですぐさま落下する。
 だが、痛みの代わりに、忌々しい舌打ちを喰らった。
「言ったそばから、これだ」
 腰を引かれて定位置に戻される。先程よりも力強く、ルパートの腕が腰に巻き付いた。
「どうせ私は子供ですよ」
 乾いた唇を尖らせ、ふんとそっぽ向く。
 すぐさま顎先を掴まれ、戻された。不意打ちで視線がぶつかる。濃紺の瞳の中に、己の取り乱した姿がくっきりと映っているのがわかるくらいの至近距離。鼻梁を葡萄酒の匂いがくすぐる。
 瞳の中のルパートの顔が傾く。
「あっ!」
 叫びは、ルパートの口内に封じられた。
 凛々しい唇が、ゆっくりとヒルダの輪郭をなぞっていく。最初は形を探るようにゆっくりだったが、一回りを終える頃には押しつけてくる力は強まっていた。
 彼は一旦離れると、ニタリと口角を吊った。
「こういうときは、目を閉じるものだろう」
 思いがけない展開に、思考が追いつかない。諭すような言い方に、素直に従う。
 瞼を閉じる間際、ルパートが満足そうに目を細めたのが見えた。
 再びの触れ合いは、性急に変化した。
 固い引き結びを舌先が割って、酒の染みついた口内を蹂躙する。その動きは、まるで個体の生き物のようだ。歯列を舐め、舌先を絡め取り、ヒルダの呻きさえ掬い取ろうとさらに進入していく。
 時折り離れ、角度を変えるや、貪欲に吸い上げる。
 こんなキスは、知らない。
 絵本の中のお姫様は、啄むキスで目を覚ました。
 エラの淫猥な体験談の中にも存在しない。
 全身のあらゆる神経が唇に集中する。
 ほんの少し歯が当たるだけで、頭の芯がジンと痺れた。
「……んっ」
 いい加減に息が苦しくなって、鼻から声が抜けたとき、ようやく呪縛から解放された。
 光る唾液が、ルパートの口端に名残惜しそうに糸を引く。
 彼は長い人差し指でそれを拭う。目の下が赤らんでいた。
「どうして?」と言いたいのに、早鐘を打つ心臓の音が邪魔をする。
 子供扱いではない、大人のキス。
 散々、子供には興味がないと繰り返していたというのに。
「何故、こんなことを?と言いたそうだな」
 ヒルダの浮かんでいた疑問を代弁する。
「正真正銘の夫婦だろう、俺達は」
「……あなたは、それをわかった上で、私に興味ないと……」
「だから、反省すべき点に気づいたと言っただろう」
 腫れぼったくなったヒルダの唇を、指先でなぞりながら、どこか浮ついた声で答える。
「これからは、本物の夫婦として接する」
「……任務のために?」
「余計な輩を寄せ付けないためにもな」
 言うなり、再び唇を重ねてくる。
 学習したので、今度は驚きはしなかった。
 生々しい舌の動き。
 この感覚は悪くない。
 むしろ、癖になりそう。
 ヒルダは柔らかい感触を堪能するため、瞼を閉じた。
 王都からルパートの別荘まで、まだまだ時間は掛かりそうだ。


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