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王太子アルフレッド

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 風が一段と強くなっていた。
 ベランダには薔薇が細工された鋳物製のテーブルと椅子のセットが設えてあった。
 分厚い硝子のせいで、室内の喧騒は外まで届かない。
 ホールの煌びやかなシャンデリアと、真上にある白い満月のおかげで、視界は明るい。
 ふうっ、と息を吐き出す。
 特務任務の緊張と、ルパートに対しての苛立ち、エラの近況、それらが胸に積もってずっしりとなった重みが、息と共に外へ出ていく。
 濃い酒の匂いが漂い、その匂いでまたもや酔いそうだ。 
 椅子に腰掛けようとしたときだった。
 ゆらり、と背後の影が不自然に別の動きをとった。
 誰かいる!
 背後の気配が、ヒルダの胸めがけて、獲物を仕留めんとする蛇のごとく伸びてきた。
「させるか!」
 ヒルダは素早く向きを変え、相手の手首を掴むや否や、頭の上で思い切り捻ってやった。
「痛たたたたたた!」
 悲鳴は若々しい男のもの。
「後ろから狙うとは、卑怯な!」
「痛い痛い痛い痛い!」
 男の声に悲壮感が増す。
「女とみくびらないで!」
「わかった!わかったから!ヒルダ殿!」
 名を呼ばれた。つまり、知り合いということだ。
 逃げ出そうと喘ぐ男の顔を確かめ、ヒルダはぎょっと目を見開く。掴んだ腕を思わず離すや、たちまち真後ろに一足飛びで退いた。
 勢いよく椅子がひっくり返る。
 風でたなびく、国王と同じ金糸のさらさら流れる髪の毛。白磁の肌。磨かれた宝石のように混じり気のない碧眼。今、その眼には涙がたっぷり溢れている。
「ア、アルフレッド様!」
 ヒルダが金切り声を上げる。
 強姦と間違えて、あやうく骨を砕くところだった。
「私ったら、王太子様に何てことを!」
 下手したら斬首も覚悟しなければならない。王位継承者を再起不能にしかねないところだった。
 蒼白になり、額にはびっしり脂汗をかいて、口元を押さえて取り乱すヒルダに対し、アルフレッドは片手で制する。
「大丈夫、大丈夫」
 指先で涙を拭いながらも、アルフレッドは極上の笑みを顔に張り付かせた。
「悪ふざけが過ぎた僕が悪い」
「申し訳ございません!」
「さすが、ルパートが見込んだご令嬢だ」
 アルフレッドは椅子に腰を下ろすと、ヒルダに向かい側に腰掛けるよう手で示す。
 ヒルダは素直に従った。
 夜風に冷えた鋳物製は、ひんやりと体を冷やす。未だ酔いの醒めない身には、心地良い。
「今夜は一段と美しいね」
 臆面もなく、アルフレッドがヒルダを評する。 
 たとえ方便だろうと構わないから、ルパートも同様の声を掛けてくれたら。
 四分の一、同じ血が流れているというのに、この違い。
「僕のシンデレラは、今、伏せって閉じこもっている」
 アルフレッドは空を見上げ、呟いた。
「かわいそうなことをした」
「妹が選んだ結果です」
 厳しい言葉だが、事実だ。
 カサンドラから硝子の靴を勝手に拝借し、自分こそが妻に相応しいと自ら城に上がったのだ。
「泣きそうな顔で言わないでよ」
 指摘され、ヒルダは唇を噛む。
 エラの自業自得とはいえ、マダムから伝え聞いた近況はこたえた。普段の能天気な明るさを知っているからこそ、余計に。
「血の繋がりがなくとも、君とカサンドラ殿はよく似ているね」
 不意打ちで母の名前が飛び出して、ヒルダは目を見開く。
「僕とルパートとカサンドラ殿は、幼馴染みだよ。もっとも、僕は彼らより十歳年下で、後ろをついて回る子供だったけど」
 ヒルダの胸の内を正しく読み取ったアルフレッドは、どこか遠い目をして答えた。
「彼女の母は所謂、戦争未亡人でね。家庭教師として、女手一つでカサンドラ殿を育てていたんだ」
 初めて聞く、母と、そのまた母の生い立ち。
「五カ国を操る賢い女性で。元は軍の通訳をされていたらしい。その腕を買われ、まずはルパートの、それから僕の語学教師となったんだ」
 アルフレッドは肘をつき、瞼を伏せる。長い睫毛に雫がついていた。
「楽しかったな、あの頃は」
 大きく伸びをし、空を見上げる。
 暗闇に白磁の肌が映える。神話に出てくる美の化身と比喩してもおかしくない、整った横顔。
 マーブル邸に求婚に来た頃の、頭の具合の悪い人物と同一とは思えない。
「カサンドラ殿は、僕らの初恋だからね」
 悪戯っぽくアルフレッドは片目を瞑る。
 初恋。
 その単語は、ヒルダをたちまち陰鬱な気分にさせた。燻っていた考えが正しかったのだと。指先が震え、かちかちと指輪がテーブルを小刻みに叩いた。
「ルパート様は、私がお好みじゃないんですね」
「何?君のことが?」
 振り絞って発したというのに、アルフレッドは呑気に首を傾げるのみ。
「君はルパートの理想が服着て歩いてるようなものだよ」
「まさか」
 鼻で笑ってしまう。
 妻として見れないと、はっきり口に出していたのに。
「今でも、カサンドラお母様を想っているのよ。きっと」
「カサンドラを?まさか」
「だって、初恋だと」
「あの男が五つくらいの頃だよ」
「でも、忘れられない恋というのが、あるじゃないですか」 
 屋敷で密会していた二人には、どことなく空気感が違った。
 幾らアルフレッドが否定したところで、あのときの親密さは本物だ。
「よし。じゃあ、僕がとっておきの話をしてあげよう」
 などと、勿体ぶって身を乗り出してきた。耳を貸せと、指先をちょいちょいと曲げる。
 ヒルダは右耳を差し出した。
 ベランダには誰もいるはずがないのに、アルフレッドはさらに勿体ぶって、わざとらしくキョロキョロ辺りを見渡した。
 一通り終えると、ヒルダの耳に息がかかるくらい、唇を寄せる。
 声のトーンを落とした。
「五つの頃、ルパートのお漏らしをカサンドラが片付けたって聞いたよ。未だにデラクール家の笑い話さ」
「まあ!」
 ヒルダが大袈裟なくらい仰け反る。
「だから未だにあの男は、カサンドラに頭が上がらないのさ」
 アルフレッドは軽くウィンクしてみせる。
 その、悪戯が成功したような仕草に、くすくすと喉を揺する。

「くだらないことを、いつまで喋っているつもりだ」

 前触れもなく、氷の冷たさがその場を支配した。
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