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恋の自覚は速やかに
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それからヒルダは陰鬱な日々を過ごすこととなった。
それでも任務は全うせねばならない。
マダムの採寸やドレスのデザイン、仮縫いなど、与えられた作業を淡々とこなしていく。
また今日も、ロバートに案内されての来客だ。
「奥様、宝石商がお見えですよ」
つい先日のヒルダなら目に触れることさえ許されない、煌びやかな大きな石をふんだんに使った素晴らしい宝飾品を、これでもかと披露される。
「こちらなど、いかがでしょうか。公爵の瞳と同じ色でこざいますよ」
ダイヤモンドと銀で縁どられた大ぶりのサファイアが、職人の手によって繊細に細工されたネックレス。
「こちらは、希少なピンクダイヤです。いかがですか」
宝石商は次から次へと、極上の品を出してくる。
「そうですね。素晴らしいですね」
その度に、上の空で返すのみ。
正直なところ、ヒルダは装飾品にはそれほど興味がない。
幼い頃から、父に学んで剣術武術を優先させてきたため、一般の若い娘に比べて流行に疎いことは自覚している。
その上、エラの現況という心配事が増えたのだ。
もはや、宝石にときめいている余地は頭の中に残されていない。
「奥様、こちらにされてはいかがですか?ドレスに映えるデザインですよ」
見かねたエレナが口を挟んできた。
ルパートの瞳と同じ色だとかいう、先程の代物だ。
いくら任務のためといえど、自分には似つかわしくない。
こうして贅沢な時間を過ごしている間も、エラの心は蝕まれているというのに。
「そうね、これにします」
まずい。泣きそうだ。
作り笑いを顔面に張り付かせ、何とか首を縦に振る。
笑顔というよりも、歯を食い縛り痛みに耐えるかのごとく歪んだヒルダの表情を、傍らのエレナ夫妻は心配そうに黙って見ていた。
その日のルパートは、何故か仕事に出かけず、朝食も摂らず、書斎に籠っていた。
ヒルダは軽い朝食を済ませると、中庭で日課の朝稽古を行う。より俊敏に、無駄な動きのないように、剣を振る。
父の最期の言葉は、
「ヒルダ、精神力を強く保て」
だが、今は挫けてしまいそうだ。
「気の乱れが剣さばきに出ているぞ」
不意に背後から声をかけられて、ヒルダは動きを止めた。
「ルパート様」
微塵にも気配を感じさせず、いつの間にか背後に回る身のこなし。さすがとしか言いようがない。
「来い」
ルパートが手短に命じてきた。
「乗馬服に着替えろ」
「脈略もなく、何を?」
「遠乗りに行くぞ」
「今から、ですか?」
「雲の動きはない。最適の日だろう」
「あの、仕事は?」
「今日は事務仕事だ。先程、全て終わらせた」
「ですから、朝食も摂らずにお部屋に引き込まれていたのですね」
「行くのか、行かないのか。はっきりさせろ」
「そんな、急に言われても」
「行くしか選択肢はない」
「横暴な」
「すぐに支度しろ。早く」
いらいらと、ルパートから再度命じられた。
拒絶は許さない、と濃紺の眼差しが険しく示している。
彼はすでに黒の猟騎帽、黒のジャケット、薄水色のシャツにクリーム色のズボン、白いストックタイ、鹿皮のブーツといった、立派な乗馬姿だ。
鹿皮の手袋を嵌める姿を横目にして、誰が断れようか。
屋敷には、ヒルダの乗馬服もちゃんと準備されていた。
「まったく。説明もなく、唐突に遠乗りだなんて」
着替えを手伝ってもらいながら、ヒルダはついエレナに愚痴を漏らしてしまう。
外では腕を組んで足を踏み鳴らしているのだろう。窓からルパートの姿を確かめずとも、目に浮かぶ。
「坊ちゃまは心配されているのですよ」
右側のブーツを履かせながら、エレナは肉付きのよい頬を揺らす。
「奥様、最近塞ぎ込んでいらっしゃいましたから」
エラの件で滅入っているのは、誰の目にも明らかだった。
「ですから、気晴らしをと」
「急に思い立ったのね」
「本来なら日暮れまでかかる仕事を、坊ちゃまったら早朝からなさって直ちに終わらせて。食事もろくに摂らずに」
「まあ!」
ヒルダの声がひっくり返る。
エレナは今度は左の足にブーツを通してくれる。
「私ったら、あの方に何て言い草を」
ルパートの目の下には隈が出来ており、いつもは整った前髪も、今朝はどことなく乱れていた。
「ちゃんと睡眠はとっているのかしら」
国王直属の騎士団隊長、特務師団団長、公爵家の広大な領地管理、使用人の采配……抱え込む量は尋常ではないだろう。
デラクール公爵家の潤った財政事情からも、彼は完璧にこなしていることが伺える。
父を亡くしてからというもの、雀の涙ほどの領地を管理するのもいっぱいいっぱいのマーヴル家の肩身が狭い。
「奥様はお優しい方ですね」
猟騎帽の顎紐までエレナが結んでくれる。
「本当に坊ちゃまは素晴らしい奥様をお迎えくださいました」
涙ぐむエレナ。
ヒルダは叫びたかった。
違うのよ、エレナ。この婚姻は、報酬と引き換えにルパートの手先となることが条件の、仮初のもの。私達は偽物の夫婦なのよ、と。
頭の中で改めて言葉にすると、ヒルダの胸が太い杭でぐりぐりと抉られるかのごとく痛んだ。息がうまく吸えないほどに。
エレナを騙している罪悪感に加わる、得体の知れない感情が渦巻く。
私、どうしちゃったのかしら。
それでも任務は全うせねばならない。
マダムの採寸やドレスのデザイン、仮縫いなど、与えられた作業を淡々とこなしていく。
また今日も、ロバートに案内されての来客だ。
「奥様、宝石商がお見えですよ」
つい先日のヒルダなら目に触れることさえ許されない、煌びやかな大きな石をふんだんに使った素晴らしい宝飾品を、これでもかと披露される。
「こちらなど、いかがでしょうか。公爵の瞳と同じ色でこざいますよ」
ダイヤモンドと銀で縁どられた大ぶりのサファイアが、職人の手によって繊細に細工されたネックレス。
「こちらは、希少なピンクダイヤです。いかがですか」
宝石商は次から次へと、極上の品を出してくる。
「そうですね。素晴らしいですね」
その度に、上の空で返すのみ。
正直なところ、ヒルダは装飾品にはそれほど興味がない。
幼い頃から、父に学んで剣術武術を優先させてきたため、一般の若い娘に比べて流行に疎いことは自覚している。
その上、エラの現況という心配事が増えたのだ。
もはや、宝石にときめいている余地は頭の中に残されていない。
「奥様、こちらにされてはいかがですか?ドレスに映えるデザインですよ」
見かねたエレナが口を挟んできた。
ルパートの瞳と同じ色だとかいう、先程の代物だ。
いくら任務のためといえど、自分には似つかわしくない。
こうして贅沢な時間を過ごしている間も、エラの心は蝕まれているというのに。
「そうね、これにします」
まずい。泣きそうだ。
作り笑いを顔面に張り付かせ、何とか首を縦に振る。
笑顔というよりも、歯を食い縛り痛みに耐えるかのごとく歪んだヒルダの表情を、傍らのエレナ夫妻は心配そうに黙って見ていた。
その日のルパートは、何故か仕事に出かけず、朝食も摂らず、書斎に籠っていた。
ヒルダは軽い朝食を済ませると、中庭で日課の朝稽古を行う。より俊敏に、無駄な動きのないように、剣を振る。
父の最期の言葉は、
「ヒルダ、精神力を強く保て」
だが、今は挫けてしまいそうだ。
「気の乱れが剣さばきに出ているぞ」
不意に背後から声をかけられて、ヒルダは動きを止めた。
「ルパート様」
微塵にも気配を感じさせず、いつの間にか背後に回る身のこなし。さすがとしか言いようがない。
「来い」
ルパートが手短に命じてきた。
「乗馬服に着替えろ」
「脈略もなく、何を?」
「遠乗りに行くぞ」
「今から、ですか?」
「雲の動きはない。最適の日だろう」
「あの、仕事は?」
「今日は事務仕事だ。先程、全て終わらせた」
「ですから、朝食も摂らずにお部屋に引き込まれていたのですね」
「行くのか、行かないのか。はっきりさせろ」
「そんな、急に言われても」
「行くしか選択肢はない」
「横暴な」
「すぐに支度しろ。早く」
いらいらと、ルパートから再度命じられた。
拒絶は許さない、と濃紺の眼差しが険しく示している。
彼はすでに黒の猟騎帽、黒のジャケット、薄水色のシャツにクリーム色のズボン、白いストックタイ、鹿皮のブーツといった、立派な乗馬姿だ。
鹿皮の手袋を嵌める姿を横目にして、誰が断れようか。
屋敷には、ヒルダの乗馬服もちゃんと準備されていた。
「まったく。説明もなく、唐突に遠乗りだなんて」
着替えを手伝ってもらいながら、ヒルダはついエレナに愚痴を漏らしてしまう。
外では腕を組んで足を踏み鳴らしているのだろう。窓からルパートの姿を確かめずとも、目に浮かぶ。
「坊ちゃまは心配されているのですよ」
右側のブーツを履かせながら、エレナは肉付きのよい頬を揺らす。
「奥様、最近塞ぎ込んでいらっしゃいましたから」
エラの件で滅入っているのは、誰の目にも明らかだった。
「ですから、気晴らしをと」
「急に思い立ったのね」
「本来なら日暮れまでかかる仕事を、坊ちゃまったら早朝からなさって直ちに終わらせて。食事もろくに摂らずに」
「まあ!」
ヒルダの声がひっくり返る。
エレナは今度は左の足にブーツを通してくれる。
「私ったら、あの方に何て言い草を」
ルパートの目の下には隈が出来ており、いつもは整った前髪も、今朝はどことなく乱れていた。
「ちゃんと睡眠はとっているのかしら」
国王直属の騎士団隊長、特務師団団長、公爵家の広大な領地管理、使用人の采配……抱え込む量は尋常ではないだろう。
デラクール公爵家の潤った財政事情からも、彼は完璧にこなしていることが伺える。
父を亡くしてからというもの、雀の涙ほどの領地を管理するのもいっぱいいっぱいのマーヴル家の肩身が狭い。
「奥様はお優しい方ですね」
猟騎帽の顎紐までエレナが結んでくれる。
「本当に坊ちゃまは素晴らしい奥様をお迎えくださいました」
涙ぐむエレナ。
ヒルダは叫びたかった。
違うのよ、エレナ。この婚姻は、報酬と引き換えにルパートの手先となることが条件の、仮初のもの。私達は偽物の夫婦なのよ、と。
頭の中で改めて言葉にすると、ヒルダの胸が太い杭でぐりぐりと抉られるかのごとく痛んだ。息がうまく吸えないほどに。
エレナを騙している罪悪感に加わる、得体の知れない感情が渦巻く。
私、どうしちゃったのかしら。
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