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紙切れ一枚から始まる結婚
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ルパートからの(偽りの)求婚を受けてからの展開は、ヒルダの想像を遥かに上回る早さだった。
まずルパートは例に漏れず、継母のカサンドラにヒルダとの結婚の承諾を求めた。本来なら筆頭の父親を相手にするが、すでに鬼籍に入っているので仕方ない。
カサンドラは三十五歳の女盛り。茶金にカールした巻き髪を高い位置に結い上げ、覗いたほっそりとした白いうなじが色香を上品に振る舞いている。
痩せ過ぎなくらいの体の線は、息子を産んだ母の体型からは程遠い。
マーヴル男爵の後妻に入る前にも、己の父親よりも年上の商人の夫と死別していた。二度の悲劇は、三度目の再婚を拒む理由となり、彼女は女盛りの今を未亡人として、また、年頃の娘の母親として、役割を全うしている。
そんなカサンドラは、ルパートからの援助の申し出に喜ぶどころか、むしろ悲しそうに首を横に振り、嘆息した。
「私は娘を売るつもりはありません」
ルパートは口に含もうとした紅茶をテーブルに戻す。
「人聞きの悪いことを」
形の整った眉毛を上げて、あからさまに不機嫌な息を吐き出した。
「ヒルデガルド嬢は、国のために貢献すると決意されたんだ」
言いながら、チラリとヒルダの方に目だけ向ける。
「そのための報酬は弾む」
「あなたはそれでいいの?ヒルダ?」
ルパートを無視し、カサンドラは、彼の隣に座るヒルダに問いかける。
ヒルダは黙って頷く。
一旦口を開いてしまえば最後、簡単に決意が翻ってしまいそうだったから。
カサンドラの母親としての慈愛が、ヒルダの胸を締めつけているなんて、ちっともわかっていないのだろう。
たとえ偽りであろうと、結婚は事実だ。一度踏み出した足は、もう戻ることが許されない。嫁いでしまえば、マーヴル家の人間でなくなる。
「本当にそれで良いのね、ヒルダ?」
再度の問いかけに対しても、ヒルダは黙って頷くことしか出来なかった。
カサンドラが娘を思いやるのと同じくらい、ヒルダもまた、家族のことを思っている。
デラクール公爵家は王都に立派な屋敷を持つことが許された、王家に近しい家である。
前公爵夫人が、現国王の実姉で、皇下して公爵家に嫁いだ。
ルパートも末席ではあるが、王位継承権を有している。
二頭立ての豪奢な馬車により連れられた先は、王都にある屋敷ではなく、眠りの森に程近い別荘だった。
眠りの森の塔と同じ錆色の煉瓦が積み上がった、左右対称の割とこじんまりとした邸宅。小さいながらも贅の限りを尽くした造りで、柱に施された蔦模様の彫刻や、日の光の反射具合を計算され配置された玻璃窓など、緻密なまでにこだわり抜かれている。
「お帰りなさいませ、旦那様。奥様」
玄関では、白髪を後ろに撫でつけた初老の家令が折り目正しく頭を下げる。
彼の隣には、同じ歳くらいの侍女が控えていた。赤い巻き毛の、ふっくらした体型の彼女は、にこにこと愛想良くヒルダにお辞儀する。
「国王様から、結婚承諾書が届いております」
家令の報告に、ルパートは「おや」と片眉を上げて見せた。
「予想以上に早かったな」
そしてヒルダに向けて、ニタリと口端を吊る。
「これで我々は夫婦だ」
婚約も結婚式もない、紙切れ一枚で、ヒルダは妻となった。
貴族の端くれである以上は、政略結婚など茶飯事であることは承知している。
だが、たとえ政略結婚であろうと、必要最低限のことは踏襲されている。
ヒルダには、ない。
「どうした、随分おとなしいじゃないか」
ヒルダが感傷的になっていることが、ルパートには面白くて仕方ないらしい。いつもの冷たい双眸が、愉快そうに細くなる。
「私は元々おとなしい性格ですが」
「山猿が何を」
「や、山猿?」
「塔の登りは見事だったぞ」
思い出したのか、ルパートが破顔する。
笑うと少年のように幼くなる。
「坊っちゃま。女性に対して何てことを」
今まで控えていた侍女が、顔をしかめて割って入った。
「エレナは坊ちゃまをそのように育てた覚えはありませんよ」
わざとらしく声を震わせ、肩を上下させる。
「ああ、悪かった、悪かったよ、エレナ」
「謝罪は奥様に対してでしょう」
「……すまなかったな、ヒルデガルド」
唇を尖らせ、ぶっきらぼうに謝罪するルパート。
怜悧な狼の姿はそこにはない。
さしずめ、手名付けられた猫だ。
「エレナは俺の乳母だ。そしてエレナの夫のロバート。家令だ」
「何なりとお申し付けくださいませ」
エレナの笑顔はヒルダの腹に沁み渡る。緊張を解く魔法にかかったように、体中の強張りが解かれていく。
「屋敷に住み込みで働いているのは、エレナ夫婦のみだ。後は通いの使用人が十数名。だから、気兼ねなく過ごすといい」
伝達事項か何かのように、早口で説明を終えるや、ルパートはさっさと玄関に入り、中へ。
「俺は事務仕事が残っているから、これで」
軽く手を挙げ、部屋の中へと滑り込んでいく。
「エレナ、ロバート。頼んだぞ」
言い終わらないうちに、勢いよくドアが閉められてしまった。
シン、と空気が澄んだ。
残された者は、どうしたものかと途方に暮れるのみ。
「まったく。新婚初夜だというのに」
エレナのわざとらしい溜息だけが、館内ロビーに響いた。
まずルパートは例に漏れず、継母のカサンドラにヒルダとの結婚の承諾を求めた。本来なら筆頭の父親を相手にするが、すでに鬼籍に入っているので仕方ない。
カサンドラは三十五歳の女盛り。茶金にカールした巻き髪を高い位置に結い上げ、覗いたほっそりとした白いうなじが色香を上品に振る舞いている。
痩せ過ぎなくらいの体の線は、息子を産んだ母の体型からは程遠い。
マーヴル男爵の後妻に入る前にも、己の父親よりも年上の商人の夫と死別していた。二度の悲劇は、三度目の再婚を拒む理由となり、彼女は女盛りの今を未亡人として、また、年頃の娘の母親として、役割を全うしている。
そんなカサンドラは、ルパートからの援助の申し出に喜ぶどころか、むしろ悲しそうに首を横に振り、嘆息した。
「私は娘を売るつもりはありません」
ルパートは口に含もうとした紅茶をテーブルに戻す。
「人聞きの悪いことを」
形の整った眉毛を上げて、あからさまに不機嫌な息を吐き出した。
「ヒルデガルド嬢は、国のために貢献すると決意されたんだ」
言いながら、チラリとヒルダの方に目だけ向ける。
「そのための報酬は弾む」
「あなたはそれでいいの?ヒルダ?」
ルパートを無視し、カサンドラは、彼の隣に座るヒルダに問いかける。
ヒルダは黙って頷く。
一旦口を開いてしまえば最後、簡単に決意が翻ってしまいそうだったから。
カサンドラの母親としての慈愛が、ヒルダの胸を締めつけているなんて、ちっともわかっていないのだろう。
たとえ偽りであろうと、結婚は事実だ。一度踏み出した足は、もう戻ることが許されない。嫁いでしまえば、マーヴル家の人間でなくなる。
「本当にそれで良いのね、ヒルダ?」
再度の問いかけに対しても、ヒルダは黙って頷くことしか出来なかった。
カサンドラが娘を思いやるのと同じくらい、ヒルダもまた、家族のことを思っている。
デラクール公爵家は王都に立派な屋敷を持つことが許された、王家に近しい家である。
前公爵夫人が、現国王の実姉で、皇下して公爵家に嫁いだ。
ルパートも末席ではあるが、王位継承権を有している。
二頭立ての豪奢な馬車により連れられた先は、王都にある屋敷ではなく、眠りの森に程近い別荘だった。
眠りの森の塔と同じ錆色の煉瓦が積み上がった、左右対称の割とこじんまりとした邸宅。小さいながらも贅の限りを尽くした造りで、柱に施された蔦模様の彫刻や、日の光の反射具合を計算され配置された玻璃窓など、緻密なまでにこだわり抜かれている。
「お帰りなさいませ、旦那様。奥様」
玄関では、白髪を後ろに撫でつけた初老の家令が折り目正しく頭を下げる。
彼の隣には、同じ歳くらいの侍女が控えていた。赤い巻き毛の、ふっくらした体型の彼女は、にこにこと愛想良くヒルダにお辞儀する。
「国王様から、結婚承諾書が届いております」
家令の報告に、ルパートは「おや」と片眉を上げて見せた。
「予想以上に早かったな」
そしてヒルダに向けて、ニタリと口端を吊る。
「これで我々は夫婦だ」
婚約も結婚式もない、紙切れ一枚で、ヒルダは妻となった。
貴族の端くれである以上は、政略結婚など茶飯事であることは承知している。
だが、たとえ政略結婚であろうと、必要最低限のことは踏襲されている。
ヒルダには、ない。
「どうした、随分おとなしいじゃないか」
ヒルダが感傷的になっていることが、ルパートには面白くて仕方ないらしい。いつもの冷たい双眸が、愉快そうに細くなる。
「私は元々おとなしい性格ですが」
「山猿が何を」
「や、山猿?」
「塔の登りは見事だったぞ」
思い出したのか、ルパートが破顔する。
笑うと少年のように幼くなる。
「坊っちゃま。女性に対して何てことを」
今まで控えていた侍女が、顔をしかめて割って入った。
「エレナは坊ちゃまをそのように育てた覚えはありませんよ」
わざとらしく声を震わせ、肩を上下させる。
「ああ、悪かった、悪かったよ、エレナ」
「謝罪は奥様に対してでしょう」
「……すまなかったな、ヒルデガルド」
唇を尖らせ、ぶっきらぼうに謝罪するルパート。
怜悧な狼の姿はそこにはない。
さしずめ、手名付けられた猫だ。
「エレナは俺の乳母だ。そしてエレナの夫のロバート。家令だ」
「何なりとお申し付けくださいませ」
エレナの笑顔はヒルダの腹に沁み渡る。緊張を解く魔法にかかったように、体中の強張りが解かれていく。
「屋敷に住み込みで働いているのは、エレナ夫婦のみだ。後は通いの使用人が十数名。だから、気兼ねなく過ごすといい」
伝達事項か何かのように、早口で説明を終えるや、ルパートはさっさと玄関に入り、中へ。
「俺は事務仕事が残っているから、これで」
軽く手を挙げ、部屋の中へと滑り込んでいく。
「エレナ、ロバート。頼んだぞ」
言い終わらないうちに、勢いよくドアが閉められてしまった。
シン、と空気が澄んだ。
残された者は、どうしたものかと途方に暮れるのみ。
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