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シンデレラの姉、眠りの森の塔によじ登る

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 爪が割れて、濃く赤い血が滲んだ。
 体中の血液が指先に出来たマメに一気に集中する。
 ジンジンとした痛みは、「ロープを放せば楽になる」「もう終わるよ」と誘惑し、そのたびに「いや、だめだ!」 「死ぬぞ!」とヒルダの奥歯をぎりぎりと軋ませた。
 もう何度、反芻しただろうか。
 ヒルダはつい三時間ほど前のやりとりをまたしても頭の中に呼び戻した。

「こんな細い腕で何が出来る」

 よみがえってくるのは、耳に心地よい響きのある低音。

「身の程をわきまえろ」
 露骨に見下した言葉。
 喉をくっくっと鳴らして、嘲った笑いを漏らす。

「くそおおおおおおおお!」
 再び指先に力がこもる。
「あの男おおおおお! 見てなさいよおおおおお!」
 そうしないと、指先の痛みにばかりに気を取られて、自分を支える一本のロープをあっさりと手放してしまいそうだったから。

 溯ること、三時間前。
 ヒルデガルド・マーヴルはなけなしの金をはたいて貸し馬車を雇い、辺境から王都の市場へ買い物に来ていた。
 ヒルデガルド、通称ヒルダの父、マーヴル男爵といえば、かつて戦場の虎と渾名されるほどの剣の使い手で、一人で五十五人を相手に見事勝利を収めたとの伝説をもつ英雄である。
 軍功をあげ、平民から男爵の地位まで成り上がった。
 しかし、それも今は昔。
 戦場で負った傷が原因で体を壊し、長い療養の末、五年前にこの世を去った。
 急遽、八歳の弟マシュウを跡取り候補として、取り敢えず男爵家は存続出来たものの、没落はあっという間だった。
 妹の結婚式に着るドレスさえ、オーダー出来ない。
 だからといって、二十年もののぼろぼろの実母のお下がりでは、示しがつかない。
 夜会ならどうにかこうにか理由をつけてお断りするが、大事な妹の結婚式、そんなわけにはいかない。
 悩んだ末に、市場に既製品を見繕いに来たのだった。
 現国王メイソン三世の統治となって早十五年、かつての鎖国を解き、砂金と香辛料を中心にめざましく発展している。
 異国人が違和感なく行き交う王都の市場に、片田舎の没落貴族令嬢は興味が尽きない。
 子供の小遣い程度で買えるネックレスやイヤリングが並ぶ雑貨店や、レースやリボンなどの手芸材料を扱う店、花屋、果物の屋台、紅茶の茶葉専門店・・・など、道を進むたびにヒルダの琥珀の瞳がきらきらと輝いた。
「よお、お嬢さん。一人かい?」
 横から声をかけられたのは、そんなときだ。
 テーブルと幟だけの、粗末な出店。
 藍染の生地に金糸の刺繍の施された、騎士装束の若い男。
 金糸で王家の紋章が象られている。
「ちょうど退屈してたんだ。ちょっと話でもしないかい?」
 若い男はにたにたと軽薄そうに薄ら笑いを浮かべる。
 王家の紋章の入る騎士服は、国王直属の証だ。
 清く、正しく、美しくがモットーが、聞いて呆れる。
 ヒルダは切れ長の目をますます細め、ふんと無視した。
「おい、無視かよ」
「お話しすることはありません」
 後ろで一つに束ねた黒髪を、あえて大きく振ってみせる。
「何だよ、生意気な女だな」
「国王直属の騎士団も、落ちたものね」
 うっかり、心の声が出てしまっていた。
「何だと!」
 男の顔がたちまち沸騰する。
「俺たちはな、お前たち一般庶民から、この王都の平和を守ってやってるんだ!毎日、血の滲むような訓練だってしてるんだよ!」
「だから、敬えと」
「ああ、お前らのために鍛えてんだよ! この間だって、眠りの森の塔にロープ一本でよじ登る訓練をしたばっかりだ!」
「そんなもの、私だってやれば出来ます」
「はあ?ふざけんなよ!」
「私だって、父から様々な訓練を受けました」
 事実だった。
 父は自分が亡くなった後のことを憂い、長女であるヒルダに、剣にはじまりあらゆる稽古をつけた。
 男のいなくなった屋敷は狙われやすい。
 父親が亡くなった貴族の家に強盗が押し入り、金品を強奪した挙句、若い娘はもとより、未亡人となった妻をも滅茶苦茶に犯すという話はよく聞く。
 実際、二度、マーヴルの屋敷にも強盗が入った。
 そのたびに父親仕込みの剣さばきで、強盗を追い払った。
「だから、負けません」
 ヒルダは右手のひらのマメをもう片方で撫でた。

「ほう、大した自信だな」

 不意に背後で上がった声に、ヒルダはぎくりと身を強張らせた。
 まったく気配を感じなかった。
 慌てて振り返ると、鼠色のフードを目深に被った男が腕を組み佇んでいる。
 ひどく背が高い。ヒルダが百七十センチ近くある身長だが、それよりも頭一つ分くらい高い。おそらく、百九十センチは軽く超えているだろう。
 フードのせいで顔は判然としないが、軟派してきた若い男とは比べ物にならない重厚な空気を纏っている。背中にゆらりと青い炎の幻さえ見える。
 若い男はまずい、と顔をしかめ、額に一気に脂汗を吹いた。
「女、お前は我々の訓練を自分も出来ると言うんだな」
 フードの男は我々、と確かに口にした。つまり、この男も騎士だ。
「こんな細い腕で何が出来る」
 ぬっと手が伸びてきたかと思ったそのときには、すでに男に右腕を掴まれていた。
「は、離して」
「身の程をわきまえろ」
 手首に男の指が食い込む。
 物凄い力だ。これが、男と女の差か。ヒルダの片眉が斜めに上がった。
「離してって言ってるでしょ」
 ぶんぶんと上下に何度も振るうちに、ようやくがっちりと締め付けられていた指が解かれた。
 ヒルダの手首には、男の指の跡が赤黒く残ってしまっている。
「立派な騎士が聞いて呆れるわ。これじゃあ、そこらへんの強盗と変わらないじゃない」
 ヒルダは切れ長の目をこれでもかと見開き、ぎろっと男を睨みつけた。
「面白い女だな」
 男の指が今度はヒルダの顎先を摘まみ、上向けさせた。
 刹那、フードに隠れていた眼差しが露になる。
 深い夜を思わせる、濃紺の双眸。獲物に狙いをつけた豹のように獰猛だ。
 ぞくり、とヒルダの背筋に得体の知れない震えが走る。
 それはほんの一瞬の出来事で、男の眼は再びフードの下に隠れた。
「お前は俺たちの訓練を難なくやってのけるというんだな」
「塔によじ登るってこと?」
「出来るのか?」
「そ、そりゃあ、私も父から稽古つけられたから」
 さすがに塔にロープ一本でよじ登る訓練は受けていないが。
「出来るんだな」
「も、もちろんよ」
 後には退けなかった。ヒルダには、首を縦に振るしか許されない空気しかなかったのだ。

 それが、つい三時間前の出来事だ。
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