77 / 114
蜂の脱走
しおりを挟む
「イメルダが逃げただと? 」
ロイの第一声はたちまち周囲を凍りつかせ、忙しない動作を停止させた。
対面した警察署長は、顔をくしゃくしゃに歪め、両手の拳に青筋を浮かせた。
マチルダはロイに連れられ、王都の警察署を訪ねている。
およそ三百年近く前に造られた弓形に沿った広大な土地にあるのが、四階建ての煉瓦造りの警察署だ。百年ほど前にはここには著名人が多く居住していたが、現在は違う。一帯には警察署長の公邸、広い庭園、裁判所といった関連した建物が並んでいる。
窃盗、暴行、傷害、詐欺……あらゆる犯罪の横行する王都には、元より警察組織の存在はあったものの、機能しているとは言い難かった。
度重なる凶悪犯罪を憂いて新たに法律が制定され、警察組織が整備されたのが数年前。
整備されたといえど従来との齟齬により現場は混乱をきたし、警察内部では横領、賄賂、恐喝と言った、警察自身による犯行が未だに重ねられていた。
二年ほど前に王都の警察署長に就任したのが、現在、ロイにやり込められ苦々しく打ち震える目の前の若白髪の男だ。
彼はそれまでの警察官とは違って、清く、正しく、美しくを地でいく騎士道精神で凝り固められたような、まだ四十前ほどの熱血漢。格闘技を会得しているのか、肩幅が並大抵ではない。服を着ていてもその胸板の分厚さは隠しようがない。
世間の目は未だに「無能な警察」だの、「賄賂の塊」だのと、悪意ある言葉が後を絶たない。
図らずも、今回、その悪意を証明してしまった形だ。
ロイは、通された署長室のドアを蹴り飛ばしたい気持ちを歯を食い縛って辛抱している。
「若い警官を誘惑して、脱走したらしい」
警察署長の苦悶の返答。
ロイがその頬を殴りつけなかったのは、傍にいたマチルダが無意識のうちに夫の腰にしがみつくなり、ぶるぶると身を震わせたからだ。
ロイはマチルダの腰に手を伸ばすや、己の元へと引き寄せる。
「その若い警官は? 」
「彼女と一緒だ」
つまりイメルダは、お得意の涙目で若い警官を誘惑し、難なく牢から抜け出したということだ。
「逃亡先に当てはあるのか? 」
いらついたロイの視線は、壁に貼られた王宮を中心とした王都の地図、国会や銀行の見取り図、凶悪犯罪の最重要人物の似顔絵へと巡る。
マチルダはマホガニー製の執務机に載った葉書サイズの似顔絵を眺めていた。描かれていたのは、そばかすの目立つ赤毛の若い女性で、きっと署長の奥方だろう。愛しきエマリーヌなどとペンが走っている。
「いや。ない」
消え入りそうな声で署長は答えた。
途端、ロイのこめかみの筋がくっきりと浮いた。
「おい! 署長! どう後始末をつけるつもりだ! 」
優しく包み込んでいたマチルダを離すと、ロイは惑うことなく署長の胸倉を掴み上げ、締め上げる。
大男と言えど相手は所詮、何らかの格闘技を齧った素人。凶悪犯相手にバタバタと倒す警察には、なんてこともない。
ロイに怒りのままに前後に揺すぶられているのは、罪悪感に他ならない。
「我々もすぐに包囲網を張った」
「なかなか網にかからないではないか! 」
「面目ない」
心底申し訳なさそうに署長は頭を下げた。
「謝って済む問題か! 万が一、妻の前に現れて何かしてきたら、どう責任取るつもりだ! 」
「そ、そうならないよう、奥方には充分な警護を」
「宛てになるか! 」
ロイは犬歯を剥き出す。
彼がこれほど怒りを露わにしているのは、即ち、マチルダの身の安全を不安視してのこと。
愛しき奥方のある身の署長もそれがわかっているから、ロイに言われっぱなしだ。
「兄さん。落ち着いて」
今にも殴りかからんばかりのロイを真後ろから押さえ込んだのは、弟のカイルだ。
「離せ! 」
「カッカしても、何の解決にもならないよ」
「そもそも、何故、お前まで付いて来ているんだ! 」
矛先が弟へと向いた。
「姉さんから言いつけられたんだよ」
姉の名を出したことで、ロイの力がふっと緩んだ。やはり姉は強い。
カイルは掴んだ兄の腕を離すと、やれやれと肩を竦めてみせた。
「さすが姉さんと言うべきだな。兄さんの行動を逐一読んでいる」
「何だと」
「署長を殴って留置所に放り込まれるなんて、洒落にならないからね」
「誰がそうなるか」
「実際、僕が止めなければどうなっていたか」
同意を求めるように、カイルはマチルダに目配せする。
普段は飄々としているロイの激昂に圧倒されていたマチルダは、躊躇いつつも頷き返した。
ロイはマチルダのこととなると、性格が一変する。
「署長。姉はそれほど、この私に恨みがあるのですか? 」
気を取り直し、マチルダは、これは聞いておかねばと署長に視線を向けた。
戦場に咲く大輪の花。
誰しもが息を呑むほど、凛として、厳か。
何者も踏み込めない領域。
どれほどの凶悪犯を前にしても動じない男も、このときばかりは目を瞠り、石化してしまった。
「姉は、私のことをどのように話していましたか? 」
マチルダは畳み掛ける。
「それは……その……」
署長はしどろもどろ。上手く言葉が出てこず、しきりに唇を舐め回した。
「相当、根深いのですね」
マチルダは彼の態度に答えを知った。
ロイの第一声はたちまち周囲を凍りつかせ、忙しない動作を停止させた。
対面した警察署長は、顔をくしゃくしゃに歪め、両手の拳に青筋を浮かせた。
マチルダはロイに連れられ、王都の警察署を訪ねている。
およそ三百年近く前に造られた弓形に沿った広大な土地にあるのが、四階建ての煉瓦造りの警察署だ。百年ほど前にはここには著名人が多く居住していたが、現在は違う。一帯には警察署長の公邸、広い庭園、裁判所といった関連した建物が並んでいる。
窃盗、暴行、傷害、詐欺……あらゆる犯罪の横行する王都には、元より警察組織の存在はあったものの、機能しているとは言い難かった。
度重なる凶悪犯罪を憂いて新たに法律が制定され、警察組織が整備されたのが数年前。
整備されたといえど従来との齟齬により現場は混乱をきたし、警察内部では横領、賄賂、恐喝と言った、警察自身による犯行が未だに重ねられていた。
二年ほど前に王都の警察署長に就任したのが、現在、ロイにやり込められ苦々しく打ち震える目の前の若白髪の男だ。
彼はそれまでの警察官とは違って、清く、正しく、美しくを地でいく騎士道精神で凝り固められたような、まだ四十前ほどの熱血漢。格闘技を会得しているのか、肩幅が並大抵ではない。服を着ていてもその胸板の分厚さは隠しようがない。
世間の目は未だに「無能な警察」だの、「賄賂の塊」だのと、悪意ある言葉が後を絶たない。
図らずも、今回、その悪意を証明してしまった形だ。
ロイは、通された署長室のドアを蹴り飛ばしたい気持ちを歯を食い縛って辛抱している。
「若い警官を誘惑して、脱走したらしい」
警察署長の苦悶の返答。
ロイがその頬を殴りつけなかったのは、傍にいたマチルダが無意識のうちに夫の腰にしがみつくなり、ぶるぶると身を震わせたからだ。
ロイはマチルダの腰に手を伸ばすや、己の元へと引き寄せる。
「その若い警官は? 」
「彼女と一緒だ」
つまりイメルダは、お得意の涙目で若い警官を誘惑し、難なく牢から抜け出したということだ。
「逃亡先に当てはあるのか? 」
いらついたロイの視線は、壁に貼られた王宮を中心とした王都の地図、国会や銀行の見取り図、凶悪犯罪の最重要人物の似顔絵へと巡る。
マチルダはマホガニー製の執務机に載った葉書サイズの似顔絵を眺めていた。描かれていたのは、そばかすの目立つ赤毛の若い女性で、きっと署長の奥方だろう。愛しきエマリーヌなどとペンが走っている。
「いや。ない」
消え入りそうな声で署長は答えた。
途端、ロイのこめかみの筋がくっきりと浮いた。
「おい! 署長! どう後始末をつけるつもりだ! 」
優しく包み込んでいたマチルダを離すと、ロイは惑うことなく署長の胸倉を掴み上げ、締め上げる。
大男と言えど相手は所詮、何らかの格闘技を齧った素人。凶悪犯相手にバタバタと倒す警察には、なんてこともない。
ロイに怒りのままに前後に揺すぶられているのは、罪悪感に他ならない。
「我々もすぐに包囲網を張った」
「なかなか網にかからないではないか! 」
「面目ない」
心底申し訳なさそうに署長は頭を下げた。
「謝って済む問題か! 万が一、妻の前に現れて何かしてきたら、どう責任取るつもりだ! 」
「そ、そうならないよう、奥方には充分な警護を」
「宛てになるか! 」
ロイは犬歯を剥き出す。
彼がこれほど怒りを露わにしているのは、即ち、マチルダの身の安全を不安視してのこと。
愛しき奥方のある身の署長もそれがわかっているから、ロイに言われっぱなしだ。
「兄さん。落ち着いて」
今にも殴りかからんばかりのロイを真後ろから押さえ込んだのは、弟のカイルだ。
「離せ! 」
「カッカしても、何の解決にもならないよ」
「そもそも、何故、お前まで付いて来ているんだ! 」
矛先が弟へと向いた。
「姉さんから言いつけられたんだよ」
姉の名を出したことで、ロイの力がふっと緩んだ。やはり姉は強い。
カイルは掴んだ兄の腕を離すと、やれやれと肩を竦めてみせた。
「さすが姉さんと言うべきだな。兄さんの行動を逐一読んでいる」
「何だと」
「署長を殴って留置所に放り込まれるなんて、洒落にならないからね」
「誰がそうなるか」
「実際、僕が止めなければどうなっていたか」
同意を求めるように、カイルはマチルダに目配せする。
普段は飄々としているロイの激昂に圧倒されていたマチルダは、躊躇いつつも頷き返した。
ロイはマチルダのこととなると、性格が一変する。
「署長。姉はそれほど、この私に恨みがあるのですか? 」
気を取り直し、マチルダは、これは聞いておかねばと署長に視線を向けた。
戦場に咲く大輪の花。
誰しもが息を呑むほど、凛として、厳か。
何者も踏み込めない領域。
どれほどの凶悪犯を前にしても動じない男も、このときばかりは目を瞠り、石化してしまった。
「姉は、私のことをどのように話していましたか? 」
マチルダは畳み掛ける。
「それは……その……」
署長はしどろもどろ。上手く言葉が出てこず、しきりに唇を舐め回した。
「相当、根深いのですね」
マチルダは彼の態度に答えを知った。
92
お気に入りに追加
440
あなたにおすすめの小説

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

家出したとある辺境夫人の話
あゆみノワ@書籍『完全別居の契約婚〜』
恋愛
『突然ではございますが、私はあなたと離縁し、このお屋敷を去ることにいたしました』
これは、一通の置き手紙からはじまった一組の心通わぬ夫婦のお語。
※ちゃんとハッピーエンドです。ただし、主人公にとっては。
※他サイトでも掲載します。

婚約者に毒を飲まされた私から【毒を分解しました】と聞こえてきました。え?
こん
恋愛
成人パーティーに参加した私は言われのない罪で婚約者に問い詰められ、遂には毒殺をしようとしたと疑われる。
「あくまでシラを切るつもりだな。だが、これもお前がこれを飲めばわかる話だ。これを飲め!」
そう言って婚約者は毒の入ったグラスを渡す。渡された私は躊躇なくグラスを一気に煽る。味は普通だ。しかし、飲んでから30秒経ったあたりで苦しくなり初め、もう無理かも知れないと思った時だった。
【毒を検知しました】
「え?」
私から感情のない声がし、しまいには毒を分解してしまった。私が驚いている所に友達の魔法使いが駆けつける。
※なろう様で掲載した作品を少し変えたものです

魅了が解けた貴男から私へ
砂礫レキ
ファンタジー
貴族学園に通う一人の男爵令嬢が第一王子ダレルに魅了の術をかけた。
彼女に操られたダレルは婚約者のコルネリアを憎み罵り続ける。
そして卒業パーティーでとうとう婚約破棄を宣言した。
しかし魅了の術はその場に運良く居た宮廷魔術師に見破られる。
男爵令嬢は処刑されダレルは正気に戻った。
元凶は裁かれコルネリアへの愛を取り戻したダレル。
しかしそんな彼に半年後、今度はコルネリアが婚約破棄を告げた。
三話完結です。
もう無理して私に笑いかけなくてもいいですよ?
冬馬亮
恋愛
公爵令嬢のエリーゼは、遅れて出席した夜会で、婚約者のオズワルドがエリーゼへの不満を口にするのを偶然耳にする。
オズワルドを愛していたエリーゼはひどくショックを受けるが、悩んだ末に婚約解消を決意する。
だが、喜んで受け入れると思っていたオズワルドが、なぜか婚約解消を拒否。関係の再構築を提案する。
その後、プレゼント攻撃や突撃訪問の日々が始まるが、オズワルドは別の令嬢をそばに置くようになり・・・
「彼女は友人の妹で、なんとも思ってない。オレが好きなのはエリーゼだ」
「私みたいな女に無理して笑いかけるのも限界だって夜会で愚痴をこぼしてたじゃないですか。よかったですね、これでもう、無理して私に笑いかけなくてよくなりましたよ」
断る――――前にもそう言ったはずだ
鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」
結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。
周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。
けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。
他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。
(わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)
そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。
ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。
そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします
文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。
夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。
エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。
「ゲルハルトさま、愛しています」
ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。
「エレーヌ、俺はあなたが憎い」
エレーヌは凍り付いた。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる