【完結】華麗なるマチルダの密約

晴 菜葉

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蜂の脱走

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「イメルダが逃げただと? 」
 ロイの第一声はたちまち周囲を凍りつかせ、忙しない動作を停止させた。
 対面した警察署長は、顔をくしゃくしゃに歪め、両手の拳に青筋を浮かせた。
 マチルダはロイに連れられ、王都の警察署を訪ねている。
 およそ三百年近く前に造られた弓形に沿った広大な土地にあるのが、四階建ての煉瓦造りの警察署だ。百年ほど前にはここには著名人が多く居住していたが、現在は違う。一帯には警察署長の公邸、広い庭園、裁判所といった関連した建物が並んでいる。
 窃盗、暴行、傷害、詐欺……あらゆる犯罪の横行する王都には、元より警察組織の存在はあったものの、機能しているとは言い難かった。
 度重なる凶悪犯罪を憂いて新たに法律が制定され、警察組織が整備されたのが数年前。
 整備されたといえど従来との齟齬により現場は混乱をきたし、警察内部では横領、賄賂、恐喝と言った、警察自身による犯行が未だに重ねられていた。
 二年ほど前に王都の警察署長に就任したのが、現在、ロイにやり込められ苦々しく打ち震える目の前の若白髪の男だ。
 彼はそれまでの警察官とは違って、清く、正しく、美しくを地でいく騎士道精神で凝り固められたような、まだ四十前ほどの熱血漢。格闘技を会得しているのか、肩幅が並大抵ではない。服を着ていてもその胸板の分厚さは隠しようがない。
 世間の目は未だに「無能な警察」だの、「賄賂の塊」だのと、悪意ある言葉が後を絶たない。
 図らずも、今回、その悪意を証明してしまった形だ。
 ロイは、通された署長室のドアを蹴り飛ばしたい気持ちを歯を食い縛って辛抱している。
「若い警官を誘惑して、脱走したらしい」
 警察署長の苦悶の返答。
 ロイがその頬を殴りつけなかったのは、傍にいたマチルダが無意識のうちに夫の腰にしがみつくなり、ぶるぶると身を震わせたからだ。
 ロイはマチルダの腰に手を伸ばすや、己の元へと引き寄せる。
「その若い警官は? 」
「彼女と一緒だ」
 つまりイメルダは、お得意の涙目で若い警官を誘惑し、難なく牢から抜け出したということだ。
「逃亡先に当てはあるのか? 」
 いらついたロイの視線は、壁に貼られた王宮を中心とした王都の地図、国会や銀行の見取り図、凶悪犯罪の最重要人物の似顔絵へと巡る。
 マチルダはマホガニー製の執務机に載った葉書サイズの似顔絵を眺めていた。描かれていたのは、そばかすの目立つ赤毛の若い女性で、きっと署長の奥方だろう。愛しきエマリーヌなどとペンが走っている。
「いや。ない」
 消え入りそうな声で署長は答えた。
 途端、ロイのこめかみの筋がくっきりと浮いた。
「おい! 署長! どう後始末をつけるつもりだ! 」
 優しく包み込んでいたマチルダを離すと、ロイは惑うことなく署長の胸倉を掴み上げ、締め上げる。
 大男と言えど相手は所詮、何らかの格闘技を齧った素人。凶悪犯相手にバタバタと倒す警察には、なんてこともない。
 ロイに怒りのままに前後に揺すぶられているのは、罪悪感に他ならない。
「我々もすぐに包囲網を張った」
「なかなか網にかからないではないか! 」
「面目ない」
 心底申し訳なさそうに署長は頭を下げた。
「謝って済む問題か! 万が一、妻の前に現れて何かしてきたら、どう責任取るつもりだ! 」
「そ、そうならないよう、奥方には充分な警護を」
「宛てになるか! 」
 ロイは犬歯を剥き出す。
 彼がこれほど怒りを露わにしているのは、即ち、マチルダの身の安全を不安視してのこと。
 愛しき奥方のある身の署長もそれがわかっているから、ロイに言われっぱなしだ。
「兄さん。落ち着いて」
 今にも殴りかからんばかりのロイを真後ろから押さえ込んだのは、弟のカイルだ。
「離せ! 」
「カッカしても、何の解決にもならないよ」
「そもそも、何故、お前まで付いて来ているんだ! 」
 矛先が弟へと向いた。
「姉さんから言いつけられたんだよ」
 姉の名を出したことで、ロイの力がふっと緩んだ。やはり姉は強い。
 カイルは掴んだ兄の腕を離すと、やれやれと肩を竦めてみせた。
「さすが姉さんと言うべきだな。兄さんの行動を逐一読んでいる」
「何だと」
「署長を殴って留置所に放り込まれるなんて、洒落にならないからね」
「誰がそうなるか」
「実際、僕が止めなければどうなっていたか」
 同意を求めるように、カイルはマチルダに目配せする。
 普段は飄々としているロイの激昂に圧倒されていたマチルダは、躊躇いつつも頷き返した。
 ロイはマチルダのこととなると、性格が一変する。
「署長。姉はそれほど、この私に恨みがあるのですか? 」
 気を取り直し、マチルダは、これは聞いておかねばと署長に視線を向けた。
 戦場に咲く大輪の花。
 誰しもが息を呑むほど、凛として、厳か。
 何者も踏み込めない領域。
 どれほどの凶悪犯を前にしても動じない男も、このときばかりは目を瞠り、石化してしまった。
「姉は、私のことをどのように話していましたか? 」
 マチルダは畳み掛ける。
「それは……その……」
 署長はしどろもどろ。上手く言葉が出てこず、しきりに唇を舐め回した。
「相当、根深いのですね」
 マチルダは彼の態度に答えを知った。


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