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怒涛の救出劇

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「ロイ! 」
 永遠に終わらない遣り取りを破ったのは、オリビアだ。
 彼女はスカートのひだを持ち上げ、裾を地面から浮かせると、コツコツと速足で靴音を響かせた。
「何だ、オリビア! 」
 猫が糞をするために掘った小さな穴になぞいるはずがないのに、ロイは真剣な顔で覗き込んでいる。
 オリビアは我を失くした男に青筋を立てた。
「あなた、さっきからどこを見てるの! 」
「何がだ! 手短に話せ! 」
 もう一つの穴を、大きな図体を折り曲げて凝視している。
 ますますオリビアは筋を深めた。
「マチルダよ! 」
「何だと! 」
「マチルダがいたわ! 」
 彼女の言葉によって、一斉に視線が同じ方を向いた。


「どこだ! 」
 小石につまづいてバランスを崩しつつ、必死の形相で駆け寄るロイ。
「あのドレスよ! 」
 オリビアは橋桁の折れた場所から遥かに離れた位置を指差した。
 指の先には、街灯に照らされ、水草の影からチラチラ覗く赤い布地があった。
 目を凝らせば、さらに黄金色に波打つ髪が。
 水面から半分顔を覗かせているマチルダがいた。
 意識を失っているのは明らかで、ふわりと浮いて漂っている。
「あんなところに! 」
 ロイが前のめりになる。
 焦るあまりに視点を移動させ過ぎて、見逃してしまっていた。
「杭にドレスの裾が引っ掛かって、あの場に留まっていたんだな」
 ブライス伯爵の青年が注意深く観察する。
「冷静に分析している場合か! 助けるぞ! 」
「そうだね。ドレスが破れて下流に持っていかれたら、下手したら」
「おい! それ以上口にすると本気で殴るぞ! 」
 ギロリと睨みつけられた青年は、ビクッと肩を揺すり、頬を引き攣らせた。
「ロイ! 冷静になれ! 」
 すかさずミハイルが割って入る。
 誰彼構わず当たり散らされたら溜まったものではない。
「わかってる! 」
 学生時代の肉食動物カーニボーは、まだまだ健在だ。
 三十路になり落ち着いたはずだが、女一人によって復活してしまった。
 ロイはウェストコートのボタンを外すと袖を抜いた。
「コートを持っていろ」
 青年に預ける。
「な、何をするつもり? 」
「飛び込むに決まってるだろ」
 シャツのボタンを二番目まで外すと、ロイは早口で答えた。
「駄目だよ。流れが速いんだ。体を持っていかれたら」
 ロイはシャツの袖のボタンを外すと、腕まくりする。
「私は鍛えているから大丈夫だ」
 ギラギラと目が光る。本気だ。
「大丈夫じゃないよ」
 青年はムキになって言い返すと、おもむろにロイの腕を掴んだ。
「離せ! このままではマチルダが! 」
 ミハエルも、青年とは反対側の腕を掴んで引き止める。
 ロイはめいいっぱいの力を込めて、二人の拘束を振り解こうともがいた。
「落ち着け、ロイ」
「マチルダ! 」
 目と鼻の先に、あれほど追い求めたマチルダがいるのに。
 しかも冷たい水の中にその繊細な体を浸して。
 いつ、その命の灯が消えてしまうかわからない。
「マチルダ! マチルダ! 」
 声が枯れて使い物にならなくとも構わず、ロイは必死にマチルダの名を呼んだ。
 

 乾いた音がロイの頬を打った。
「いい加減にしなさい! 」
 我を失うロイを現実に引き戻したのは、オリビアの平手だった。
「あなたまで溺れ死ぬつもり? 」
 教育者のように諭すオリビア。
「し、しかし。マチルダが」
 いつもの眼力はなくなり、弱々しく漆黒の瞳が揺らぐ。
「馬車にロープを積んでいたわね」
「は、はい」
 マチルダの捜索に加わっていた御者に尋ねる。
 すぐさま目的の物が用意された。
「ロイ、それを腰に巻いてきつく縛りなさい」
 オリビアは的確に指示を出していく。
「あそこの土手の斜面はそうきつくないし、マチルダまで近い。あそこから降りるのよ」
 テキパキと指示を出すその頼もしさは、この場にいる男共とは比べ物にならない。
 ロイが巻きつけたロープをしっかり縛ったことを確かめたオリビアは、続いてロイ以外の男らに命じる。
「男達、ロープの先をしっかり持っていなさい。ロイが流されたら大変だから。御者の二人、あなた達も手伝うのよ」
 さすが、高級娼館のプライドの高い娼婦を纏めているだけのことはある。
 マチルダの悲壮な姿を目撃しても、オリビアは動揺すら見せず、なすべきことを頭の中ですぐさま練った。
「私はロイの目になるわ。ロイからは死角になって見えないでしょうから」
 ちゃんと、それぞれの役目まで計算済みだ。
「合図をしたら降りなさい」
 オリビアはロイに命令する。 
 神妙にロイは頷いた。
 失敗は許されない。万が一、ドレスの裾を破れば、彼女はたちまち濁流の彼方だ。
 土手を滑り、水の中へ。
 腰高まである泥水は、踏ん張っていなければ呑まれてしまう。水圧が物凄い。工事の前は穏やかにせせらぐ小川だった。
 しかし今は、マチルダとの逢瀬を阻む。
 ロイは水流に逆らい、大股で進みながら、確実にマチルダとの距離を詰めていく。
「ロープを離さないでよ」
 オリビアの声が堅い。
 ミハエルらが持つロープ一本が、ロイの命を繋いでいる。
 ロープはまるで生き物のようにゆさゆさとたわんでは伸び、たわんでは伸びを繰り返し、右へ左へと気ままな動きしかしない。
 ロープが皮膚に食い込み、うっすらと血を滲ませた。
 垂れる汗が目に沁みる。
「ぐっ……持って行かれそうだ」
「離したらロイの命がないからな」
「ええ。わかっています」
 互いに励まし合いながら、丘にいる男らは歯を食い縛って耐えた。

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