【完結】華麗なるマチルダの密約

晴 菜葉

文字の大きさ
上 下
46 / 114

敵わない恋

しおりを挟む
「アニストン家のマチルダ様でしょう? 」
 不意に声をかけられた。
 ロイは誰かに呼び出され、渋々と広間へ戻っている。
 残されたマチルダが、ぼんやりと月のない空を見上げていたときだ。
 おそらく相手は、マチルダが一人になる機会を逃さず、声を掛けてきたのだ。
「初めまして。主人から、あなたのお話は窺ってましてよ」
「主人? 」
 マチルダは覚えがなく、首を捻る。
 漆黒の髪を後ろで高く結い上げた女性は、おそらく三十半ばほど。マチルダほど背は高くはないが、平均よりは高い。しなやかな肢体が藍染めのドレスによって、かなり色香を含ませている。まるで舞台女優のような美女。
「私、ローレンスの妻のオリビアです」
 美女は自己紹介し、髪と同じ色の目を細めた。
「娼館の……奥様……? 」
 娼館の妻、ということは。
 ロイは娼館の主人。
 即ち、ロイの妻! 
 マチルダの脳天を雷が直撃した。
「主人が、こちらの伯爵と懇意にしておりまして。平民ながら招待を受けましたの」
 何故、ロイがこの場で堂々とした振る舞いをしているのか。オリビアはあっさりと暴露した。
 何のことはない。彼はブライス伯爵直々に招待を受けていたのだ。
 伯爵家の紋章を用いても、何のお咎めなしであったことも、ひょっとすると相手も承知の上でのことだったのかも知れない。
 伯爵はロイのに、嬉々として乗っていたのかも。
 そうでなければ、彼の行動に納得出来ない。
「お噂通り、とても美しい方ね」
 夫と馴れ馴れしくダンスを踊っていた女を妬むでもなく、オリビアは艶然と笑う。
 これが妻の余裕というのか。
 マチルダの爪先が冷えていく。
「夫ったら、あなたのことをとても気にかけて。毎日毎日、あなたの話ばかりなんですよ」
 つまり、マチルダとのことは筒抜けになっているのか。
 つい今しがたの、ロイがマチルダを抱きたいと告げたことも。
 マチルダの視界がだんだん薄暗くなっていく。
「先日は随分、体調が悪かったとか。もう、回復なさったの? 」
「そ、そこまでご主人はお話しされたのですか? 」
「あら? 何かまずいことでもありました? 」
「い、いえ」
 姉から媚薬を飲まされて、それがきっかけでロイと睦み合ったことすら、彼女は知っているというのか。
 ロイはそこまで愚かだろうか。
 マチルダの心がどくどくと波打つ。
「あの方からは、何もお聞きにはなっていないのですか? 」
「あら? 何かありまして? 」
 不思議そうにオリビアが小首を傾げた。
 どうやらロイは底抜けのバカではないらしい。
「い、いえ。何も」
 笑おうとしたが、唇が引き攣って失敗した。
「わ、私は……あの方とは……特別な関係ではありません……。ましてや、不倫なんて……」
「ええ。当然ですわ? 」
 力説するマチルダの本心が全く掴めない。そんなふうにオリビアは首を傾げる。
 まさか夫が、目の前の小娘の体を狙っているなんて思いもしないに違いない。
 貴族の中には、不倫を娯楽だと捉える不埒者が多い。現に姉のイメルダも、恋することが美貌の秘訣などと尤もらしく言い訳して、婚約者がいながら楽しんでいる。
 だが、マチルダは違う。
 不倫なんて以ての外。
 愛する一人だけに、全てを傾けたい。
「主人はあなたのことを、まるで娘のようだと」
 オリビアの屈託ない笑顔が、鋭い刃となって心臓を狙ってきた。
「……娘? 」
 マチルダの喉元が締め付けられる。
「あら、レディに対して不躾なことを」
「い、いえ。お気になさらずに」
 娘同然に思っている女を、よくも抱きたいとのたまったものだ。
 やはりロイはバカだ。果てしなく大バカだ。
 いや、むしろ変態だ。
 娘を抱きたいなんて、人智に劣る。
 ニヤニヤするロイの顔を思い出し、マチルダは憤怒で顔が真っ赤になった。
 もし今、目の前にいたなら、否応なく拳で顔面を叩きつけているところだ。
「で、ですが。娘といえど、あの方はまだお若いわ。それに、とても見目が良くて。私のような大きな娘がいるようには、とても思えません」
 三十歳だが、彼は引き締まった体躯だし、髪はふさふさで艶やか、健康そのものの肌。そして何より、笑うと少年ぽくなる麗しい顔。
 オリビアは大きく頷いた。
「確かに。あの人はこの上なくハンサムだし、気配りは出来るし。おまけに品性もある。子供がいるとは思えないくらい、若々しいでしょう? 」
「お、お子様がいらっしゃるの? 」
 マチルダの喉がひくつく。
「ええ。五人」
「ご、五人も!? 」
「ええ。一番上の息子は、今は寄宿学校に入っておりますの」
「そ、そんなに大きなお子様が」
「とても、子供がいるようには見えませんでしょう? 」
 確かに子沢山には見えない。
 独身だとばかり。
 だが、彼から結婚していると聞いたことはなかったが、独身であることもなかった。
 彼は嘘はついていない。
 だが、敢えて言わないなんて卑怯だ。
「私達、若い頃に結婚しましたから」
 マチルダは真後ろに倒れそうになり、どうにか踏ん張る。
「で、では、もう随分と婚姻関係が続いてらっしゃるの? 」
「ええ。彼が寄宿学校を卒業してすぐだから、ざっと十二年かしら」
「じゅ、十二年! 」
 最早、敵わない。
 夫婦の繋がりは強固だ。
「な、仲がよろしいのですね」
「ええ。おかげさまで。未だに新婚気分ですわ」
 マチルダが入り込む余地はない。
「ふふ。秘訣は互いを思いやり、信頼することですよ」
 愛されている妻。
 残酷な笑顔を向けてくるオリビアに、マチルダはもう耐えられなかった。
 ふらりとテラスの柵に全身を預ける。
 生温い風が頬を撫でた。
「あら、マチルダ様? どうなさいました? 」
 マチルダの異変に気づいたオリビアが駆け寄る。
 ふわり、と風に乗った優しい香り。薔薇を基調にしたフローラルは、安らぎを与える。
 包容力。その言葉をオリビアから連想させた。
 マチルダが持ち得ないもの。
 ロイはこの安らぎの中、自由奔放に飛び回っているのだ。
 彼女の手のひらの上で。
「も、申し訳ありません。少々、目眩が」
「まだ体調が優れませんの? 」
「いえ。違います。大丈夫ですから」
 オリビアはマチルダの背をそっと撫でて、マチルダのざわざわする気持ちを宥めにかかる。
 心底、目の前にいる小娘を心配していた。
 恋敵にもならない。
 出発点にすら立たせてもらえないのだ。
 視界が歪む。マチルダは、瞳に溜まっていく涙が零れ落ちないよう、必死に瞬きを繰り返して堪えた。
「このお屋敷には空き部屋があくさんありましてよ。そちらで休まれますか? 」
「い、いえ。大丈夫です」
「では、誰かをお呼びに」
「いえ。大丈夫ですから」
 オリビアの優しさは、マチルダの心臓を抉り、ついに深く大きな穴を開けた。


しおりを挟む
感想 5

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

【R18】深層のご令嬢は、婚約破棄して愛しのお兄様に花弁を散らされる

奏音 美都
恋愛
バトワール財閥の令嬢であるクリスティーナは血の繋がらない兄、ウィンストンを密かに慕っていた。だが、貴族院議員であり、ノルウェールズ侯爵家の三男であるコンラッドとの婚姻話が持ち上がり、バトワール財閥、ひいては会社の経営に携わる兄のために、お見合いを受ける覚悟をする。 だが、今目の前では兄のウィンストンに迫られていた。 「ノルウェールズ侯爵の御曹司とのお見合いが決まったって聞いたんだが、本当なのか?」」  どう尋ねる兄の真意は……

だってお義姉様が

砂月ちゃん
恋愛
『だってお義姉様が…… 』『いつもお屋敷でお義姉様にいじめられているの!』と言って、高位貴族令息達に助けを求めて来た可憐な伯爵令嬢。 ところが正義感あふれる彼らが、その意地悪な義姉に会いに行ってみると…… 他サイトでも掲載中。

どうやら夫に疎まれているようなので、私はいなくなることにします

文野多咲
恋愛
秘めやかな空気が、寝台を囲う帳の内側に立ち込めていた。 夫であるゲルハルトがエレーヌを見下ろしている。 エレーヌの髪は乱れ、目はうるみ、体の奥は甘い熱で満ちている。エレーヌもまた、想いを込めて夫を見つめた。 「ゲルハルトさま、愛しています」 ゲルハルトはエレーヌをさも大切そうに撫でる。その手つきとは裏腹に、ぞっとするようなことを囁いてきた。 「エレーヌ、俺はあなたが憎い」 エレーヌは凍り付いた。

悪役令嬢が美形すぎるせいで話が進まない

陽炎氷柱
恋愛
「傾国の美女になってしまったんだが」 デブス系悪役令嬢に生まれた私は、とにかく美しい悪の華になろうとがんばった。賢くて美しい令嬢なら、だとえ断罪されてもまだ未来がある。 そう思って、前世の知識を活用してダイエットに励んだのだが。 いつの間にかパトロンが大量発生していた。 ところでヒロインさん、そんなにハンカチを強く嚙んだら歯並びが悪くなりますよ?

淫らな蜜に狂わされ

歌龍吟伶
恋愛
普段と変わらない日々は思わぬ形で終わりを迎える…突然の出会い、そして体も心も開かれた少女の人生録。 全体的に性的表現・性行為あり。 他所で知人限定公開していましたが、こちらに移しました。 全3話完結済みです。

仲の良かったはずの婚約者に一年無視され続け、婚約解消を決意しましたが

ゆらゆらぎ
恋愛
エルヴィラ・ランヴァルドは第二王子アランの幼い頃からの婚約者である。仲睦まじいと評判だったふたりは、今では社交界でも有名な冷えきった仲となっていた。 定例であるはずの茶会もなく、婚約者の義務であるはずのファーストダンスも踊らない そんな日々が一年と続いたエルヴィラは遂に解消を決意するが──

私に告白してきたはずの先輩が、私の友人とキスをしてました。黙って退散して食事をしていたら、ハイスペックなイケメン彼氏ができちゃったのですが。

石河 翠
恋愛
飲み会の最中に席を立った主人公。化粧室に向かった彼女は、自分に告白してきた先輩と自分の友人がキスをしている現場を目撃する。 自分への告白は、何だったのか。あまりの出来事に衝撃を受けた彼女は、そのまま行きつけの喫茶店に退散する。 そこでやけ食いをする予定が、美味しいものに満足してご機嫌に。ちょっとしてネタとして先ほどのできごとを話したところ、ずっと片想いをしていた相手に押し倒されて……。 好きなひとは高嶺の花だからと諦めつつそばにいたい主人公と、アピールし過ぎているせいで冗談だと思われている愛が重たいヒーローの恋物語。 この作品は、小説家になろう及びエブリスタでも投稿しております。 扉絵は、写真ACよりチョコラテさまの作品をお借りしております。

処理中です...