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勿忘草の花言葉
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ロイ・オルコットという男は、やはりプロフェッショナルだ。設定を忠実に守っている。
ロイが用意した箱馬車は、アニストン邸を訪れたときと同じ、海老茶の漆塗りの箱車に、三頭立ての鹿毛の立派な馬を配していた。御者の服装にまで気を使っている。
内部の設えも文句のつけようがない。
天鵞絨の座席はふかふかと柔らかで、背当てクッションのおかげで快適そのもの。しかも、アニストン家所有の馬車よりも広々としている。
誰が見ても、伯爵家所有としか思えない格式がある。
屋敷までの道中、向かい合うロイは一言も発しず、腕を組んでムスッと考え込んでいた。
表情筋を失ってしまったかのように、ニコリともしない。
ローレンスでは軽々しくちょっかいをかけて、甘い雰囲気に持ち込んでいたというのに。
そんな彼を突っぱねたのは、他ならぬマチルダなのだが。
マチルダは、ロイとの情事についてどう反応を示したら良いのやらと悩んでいた。
記憶のないうちに、彼に抱かれたのだ。
自分が彼に対してどのような痴態を晒してしまったのか。考えるだけでも恐ろしい。
どうやら、大いにロイを楽しませたらしいことは、彼の態度から察することが出来たのだが。
互いに心の内に閉じこもり、馬車の中は沈黙が続いていた。
「体は平気か? 」
「は、はい」
屋敷に到着する間際になって、ようやく口を開いた彼は、ぞんざいに尋ねてきた。
まさか今になって聞かれるなどとは思わず、マチルダは返事をするのがやっと。
「また連絡する」
それは別れ際の定型的な挨拶。
それでも、つい、期待してしまう。
完璧な所作でエスコートし、恭しく頭まで下げて、ロイは「ブライス伯爵家三男」をやり遂げた。
マチルダは、名残惜しい気持ちで黙ってロイを見送る他ない。
最早、これっきり。
彼とは契約すら交わしていなかったのだ。
新たに契約を結ぶ理由もなく。
マチルダの名誉が回復した今、ロイとの繋がりは途切れてしまった。
マチルダは、ふと、彼のシャツのボタンに彫られた模様を思い起こす。
勿忘草。
確か花言葉は、私を忘れないで。
今のマチルダにピッタリの言葉だ。
「ブライス伯爵家の馬車で帰って来たのね」
屋敷に到着するなり、仁王立ちのイメルダが待ち構えていた。
「ご子息に嫌われるどころか、縁を深めたということかしら? 」
イメルダは天使画そっくりな可愛いらしい顔をこの上なく歪めると、前のめりで尋ねてきた。
伯爵家の馬車でマチルダが戻って来たのは、イメルダには想定外だったようだ。
「所詮、ご子息も男だったってわけね」
てっきり、伯爵家三男坊に、叩き出されてしまうと踏んでいたのに。
マチルダがロイにエスコートされている姿を窓からばっちり目撃し、イメルダは憤怒した。
「あなたの色香に簡単にやられちゃって」
「あ、あの方の悪口を言うのは許さないわ! 」
マチルダの顔が怒りで真っ赤になる。
「まあ。口答えするつもり? 」
それはまさに、イメルダの挑発だ。
キーッとマチルダは奥歯を擦り潰した。
例え偽りの恋人だろうと、ロイが侮辱されるのは我慢ならない。
「こ、今度ばかりは許さないから! よ、よくもあんな危ない薬を飲ませたわね! 」
「最終的に仲が深まったんだから。良かったんじゃない? 」
「良くないわよ! 」
そのせいで、ロイとの関係がギクシャクしてしまった。逆効果だ。
「わ、私は結婚するまで貞操を守っていたのよ! 」
「随分、堅いのね」
「将来、夫となる方に、申し訳が立たないわ! 」
「そんなこと言っていたら、錆びついて使い物にならなくなるわよ」
「何ですって! 」
「あら、本当のことでしょ。気位ばかり高くて、言い寄る男を足蹴にする悪女」
「だ、誰がそんなことを! 」
「社交界でのあなたの評判よ」
氷の魔女だの、悪役令嬢だの、男性を無碍にするなど、悪い名称は切りがない。今度は言い寄る男を足蹴にする悪女。そのどれもが、マチルダの外見だけで判断されたものばかり。
ますます怒りで血圧が上昇した。
「あながち、間違ってないでしょ。あなた、未だに誰からも声を掛けられてないじゃない」
「そ、それは」
「伯爵のご子息がいるから? だから、他の男は無視? 」
「あ、相手がいるのに、ふらふらするのは男性に失礼よ」
「それは嫌味かしら? 」
イメルダの顔が曇る。
彼女はアンサーという婚約者がいながら、未だに他の男と恋愛ごっこに勤しんでいる。
イメルダとアンサーとの関係性を非難するつもりはない。
だが、小馬鹿にされて言い返さないのは違う。
今までならムッとしながらも、イメルダの好きに言わせていた。
父の再婚の件で姉に対して負い目があったから。
しかし、マチルダはもう我慢の限界だった。
ロイが用意した箱馬車は、アニストン邸を訪れたときと同じ、海老茶の漆塗りの箱車に、三頭立ての鹿毛の立派な馬を配していた。御者の服装にまで気を使っている。
内部の設えも文句のつけようがない。
天鵞絨の座席はふかふかと柔らかで、背当てクッションのおかげで快適そのもの。しかも、アニストン家所有の馬車よりも広々としている。
誰が見ても、伯爵家所有としか思えない格式がある。
屋敷までの道中、向かい合うロイは一言も発しず、腕を組んでムスッと考え込んでいた。
表情筋を失ってしまったかのように、ニコリともしない。
ローレンスでは軽々しくちょっかいをかけて、甘い雰囲気に持ち込んでいたというのに。
そんな彼を突っぱねたのは、他ならぬマチルダなのだが。
マチルダは、ロイとの情事についてどう反応を示したら良いのやらと悩んでいた。
記憶のないうちに、彼に抱かれたのだ。
自分が彼に対してどのような痴態を晒してしまったのか。考えるだけでも恐ろしい。
どうやら、大いにロイを楽しませたらしいことは、彼の態度から察することが出来たのだが。
互いに心の内に閉じこもり、馬車の中は沈黙が続いていた。
「体は平気か? 」
「は、はい」
屋敷に到着する間際になって、ようやく口を開いた彼は、ぞんざいに尋ねてきた。
まさか今になって聞かれるなどとは思わず、マチルダは返事をするのがやっと。
「また連絡する」
それは別れ際の定型的な挨拶。
それでも、つい、期待してしまう。
完璧な所作でエスコートし、恭しく頭まで下げて、ロイは「ブライス伯爵家三男」をやり遂げた。
マチルダは、名残惜しい気持ちで黙ってロイを見送る他ない。
最早、これっきり。
彼とは契約すら交わしていなかったのだ。
新たに契約を結ぶ理由もなく。
マチルダの名誉が回復した今、ロイとの繋がりは途切れてしまった。
マチルダは、ふと、彼のシャツのボタンに彫られた模様を思い起こす。
勿忘草。
確か花言葉は、私を忘れないで。
今のマチルダにピッタリの言葉だ。
「ブライス伯爵家の馬車で帰って来たのね」
屋敷に到着するなり、仁王立ちのイメルダが待ち構えていた。
「ご子息に嫌われるどころか、縁を深めたということかしら? 」
イメルダは天使画そっくりな可愛いらしい顔をこの上なく歪めると、前のめりで尋ねてきた。
伯爵家の馬車でマチルダが戻って来たのは、イメルダには想定外だったようだ。
「所詮、ご子息も男だったってわけね」
てっきり、伯爵家三男坊に、叩き出されてしまうと踏んでいたのに。
マチルダがロイにエスコートされている姿を窓からばっちり目撃し、イメルダは憤怒した。
「あなたの色香に簡単にやられちゃって」
「あ、あの方の悪口を言うのは許さないわ! 」
マチルダの顔が怒りで真っ赤になる。
「まあ。口答えするつもり? 」
それはまさに、イメルダの挑発だ。
キーッとマチルダは奥歯を擦り潰した。
例え偽りの恋人だろうと、ロイが侮辱されるのは我慢ならない。
「こ、今度ばかりは許さないから! よ、よくもあんな危ない薬を飲ませたわね! 」
「最終的に仲が深まったんだから。良かったんじゃない? 」
「良くないわよ! 」
そのせいで、ロイとの関係がギクシャクしてしまった。逆効果だ。
「わ、私は結婚するまで貞操を守っていたのよ! 」
「随分、堅いのね」
「将来、夫となる方に、申し訳が立たないわ! 」
「そんなこと言っていたら、錆びついて使い物にならなくなるわよ」
「何ですって! 」
「あら、本当のことでしょ。気位ばかり高くて、言い寄る男を足蹴にする悪女」
「だ、誰がそんなことを! 」
「社交界でのあなたの評判よ」
氷の魔女だの、悪役令嬢だの、男性を無碍にするなど、悪い名称は切りがない。今度は言い寄る男を足蹴にする悪女。そのどれもが、マチルダの外見だけで判断されたものばかり。
ますます怒りで血圧が上昇した。
「あながち、間違ってないでしょ。あなた、未だに誰からも声を掛けられてないじゃない」
「そ、それは」
「伯爵のご子息がいるから? だから、他の男は無視? 」
「あ、相手がいるのに、ふらふらするのは男性に失礼よ」
「それは嫌味かしら? 」
イメルダの顔が曇る。
彼女はアンサーという婚約者がいながら、未だに他の男と恋愛ごっこに勤しんでいる。
イメルダとアンサーとの関係性を非難するつもりはない。
だが、小馬鹿にされて言い返さないのは違う。
今までならムッとしながらも、イメルダの好きに言わせていた。
父の再婚の件で姉に対して負い目があったから。
しかし、マチルダはもう我慢の限界だった。
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